(1)世界樹は悲鳴を上げております
天を衝く巨大な樹が、その地の中心にそびえ立つ。
その幹は、一国を抱えるほど太く、近くに立つ者には巨壁にしか見えない。
樹皮は深淵な緑色を帯び、陽光を受けては、まるで生きた宝石みたいにきらめく微細な光の粒子を放っている。
見上げれば、その梢は霞がかかるほど高く、精霊界へと繋がると言われるその頂は、常に神聖な光に包まれていた。
世界樹の回廊、イグラン=エレオス。そこは、生命の息吹そのものが形を成し、脈動する聖域であった。
世界樹の根元からは、無数の生命力が枝分かれし、豊かな木々が回廊全体へと広がっていく。一本一本の木々は、どれもが驚くほどに青々と茂り、葉の一枚一枚が生命の躍動を宿している。新緑の眩しさと、深緑の荘厳さが織りなす色彩は、訪れる者の心を洗い、魂を清める。
足元には、名も知らぬ可憐な花々が咲き乱れ、朝露を宿した花びらは、朝日に照らされて七色の輝きを放ち、辺りには甘く清らかな香りが満ちている。
柔らかな風が、回廊を優しく吹き抜けていく。その度に、何万、何億という葉が擦れ合い、まるで精霊たちが奏でる賛歌を思わせる、心地よい調べが響き渡った。小鳥たちは軽やかに飛び交い、澄んだ声でさえずる。彼らの歌声は、回廊に満ちる精霊たちの歓喜の声と混じり合い、聖域の生命力をより一層際立たせていた。
この地には、エルフやドワーフといった、妖精を祖に持つ者たちが、暮らしている。
――清らかな聖域は今、深い苦しみに喘いでいた。
エルフの最高巫女リィゼルリア=アルセナは、長老評議会にて「真巫聴」で感知した、微かな、確かな異変を訴えた。
世界樹の呼吸が乱れ、その脈動が弱まり、生命力が堰を切ったように失われつつあること。数千年にわたりイグラン=エレオスを支えてきた巨木が、ゆっくりと、しかし確実に枯死へと向かっている。
いまは兆候だが、このままでは、世界樹のみならず、精霊界との繋がりも途絶え、ひいてはこの世界全体の調和が崩れ去ってしまうだろう。
「――世界樹は、悲鳴を上げております」
僅かに震える声を抑え、事態の深刻さを長老たちに伝えた。
白銀の長い髭を蓄え、深く澄んだ翠の瞳を持つ老年のエルフが静かに頷いた。彼は評議会の議長格を務める、最も古き長老の一人だ。
別の長老が低い声で呟いた。
「一部の噂では、魔王国に『世界樹の種』があるとも囁かれておりますが……」
「原因など、分かりきったことではないか! 五十年前にこの世界を荒廃させたのは、他ならぬ魔族ども! 世界樹の生命力が弱まったのも、奴らの瘴気か、あるいは何らかの謀略に違いない! 噂など、奴らが流した罠に決まっている!」
安易な衝突は、更なる悲劇を生むのみだとリィゼルリアは知っていた。世界の調和を重んじ、真実を見極め、安易な争いを避けるのが彼女の考えであった。
魔族に対して強い不信感を抱いているのは彼女も同じ。かつて世界を荒廃させたのは彼らだったし、世界の異変の原因の一端が魔族にあると確信もしている。だが、感情に任せて戦争を起こすことは、決して解決策にはなり得ない。
「バルディン様、落ち着かれませ。我らが目指すべきは、世界樹の救済。そして、世界の調和を再構築することでございます。いたずらに血を流すことは、世界樹の傷を深めるだけではございません」
リィゼルリアの言葉に、バルディンとよばれたドワーフの長老は不満げに鼻を鳴らしたが、議長格の長老が静かに手を上げると、会議は一旦の沈黙を取り戻した。
「リィゼルリアの申す通りにございます。しかし、時間は我らを待ってはくれぬ。枯死は進行しておる。何らかの手立てを講じねばならぬ」
議論は白熱したが、結局のところ、世界樹を救うための具体的な方策は、「種」の存在が重要だという結論に至った。
長老たちは、「世界樹の種」が魔王国にあるかの真偽について議論を交わし、その結果、魔王国への外交団派遣を決断した。それが、今、彼らに残された希望のひとつであると判断したのだ。
別に世界樹自体の調査隊も組織する。
「外交団のリーダーは、カルナアロス=ヴェロイアに任せるのがよろしいでしょう。彼の能力は比類なきもの。肝心の交渉にはリィゼルリア様が加わるべきでございます」
議長格の長老が静かに提案した。
魔王国への派遣。それは、全面戦争をも覚悟するほどの、重要な任務であろう。
世界樹の生命を救うためならば、リィゼルリアはどんな困難にも立ち向かう覚悟でいた。
彼女の透き通る翠色の瞳は、遠い魔王城の方向を静かに見据えていた。果たして希望があるのか、それとも更なる絶望が待ち受けているのか……。
今はただ、世界樹の微かな脈動を感じ取りながら、己の役割を全うするのみだった。




