(7)執務室で休憩しました
訓練の疲れと、自分の力不足への情けなさで、自室に戻ってもなかなか気が休まらない。机に向かい、肘を立てて、頭を抱えたくなるのを必死に堪える。目の前には、先ほどまで見ていた執務書類が、変わらず山積みになっている。これが、俺の仕事。俺が、魔王としてこなさなければならないこと。
部屋の扉が小さくノックされた。顔を上げると、ベリシアが盆にお茶を載せて部屋に入ってきた。
「陛下、お疲れ様です。お茶をお淹れしました」
彼女は盆を近くのテーブルに置き、湯気の立つポットを手に取った。静かに俺の傍らに立つと、何も言わず、静かに俺のカップにお茶を注いでくれた。その仕草には、冷徹な宰相としてではない、どこか言外に俺を労わるような、僅かな優しさが感じられた。
「ありがとう」
礼を言うと、ベリシアは小さく首肯した。その瞳には、俺への気遣いよりも、魔王としての訓練の成果を測るような、探るような色が混じっているようにも見えた。俺が訓練でどれだけ不甲斐ないか、彼女はバルドやメイドたちから報告を受けて知っているのだろう。
「……まだまだだよな」
カップに注がれたお茶を見つめながら、思わず呟いた。魔王の体という器は良いのに、中身がこれでは。
「本来の陛下に及ぶべくもございません」
ベリシアは、静かに、そして冷徹に言い放った。やはり、そう思っているのか。期待外れの「紛い物」である俺への、正直な評価なのだろう。胸にチクリと痛みが走る。
しかし、彼女は言葉を続けた。
「ですが、陛下の発想と努力はみとめます」
その言葉に、俺は顔を上げた。発想? 努力? あの突拍子もない聖剣を見に行く、という発想のことだろうか。泥まみれになりながらも訓練に食らいついている、ということだろうか。彼女の中で、俺への「見直し」が、ほんの少しずつではあるが、確かに進んでいるのかもしれない。本来の魔王に比べれば圧倒的に劣るだろうが、少なくとも、何もしない役立たずではない、と。
「……俺は、昔、後悔したことがあってね」
なぜか、そんな言葉が口から出た。ベリシアは何も言わず、ただ静かに俺の言葉を待っている。何を話すんだ、俺は。魔王の宰相に、前の世界の自分の話をして、通じるのか? 話しても良いのか? そんな疑問が頭をよぎるが、一度話し始めたら止まらなかった。
「高校生ーーまだ若かった頃、親に反抗してて、碌に口も利かなかった時期があったんだ。ある朝、いつものように親が出かけるのに、顔も見ずに『行ってらっしゃい』の一言も言えなくて……そのまま、両親が交通事故で……」
声が詰まる。あの日の光景が蘇る。朝の食卓、親の後ろ姿、そして……。
「……それ以来、できることをしないと、後悔してしまう。あの時、なぜ一言言えなかったんだ、と。その後悔が、どうしても自分の中で許せなくなったんだ。だから、今も……やれることがあるのに、やらない、というのは、俺にはできない。後悔したくない。ただ、それだけなんだ」
全て話し終えると、部屋に沈黙が訪れた。ベリシアは、感情の読めない顔で、ただ静かに俺の話を聞いていた。彼女が、俺の過去の話をどう受け止めたのかは分からない。しかし、彼女の表情には、僅かに何かが宿っているように見えた。共感? それとも、哀れみだろうか。
やがて、ベリシアはゆっくりと口を開いた。
「……貴方様がどのような過去を持っておられようと、今、貴方様はこの魔王の体に宿っておられます。そのうえ、いま魔王国は新たな勇者の脅威に晒されようとしています」
冷静な言葉だった。しかし、その言葉に否定の色はない。
「いずれにせよ、魔王国のこれからの在り方は、我々四天王と……あなたに掛かっています」
「我々」の中に、俺を含めた。「あなた」と、俺個人を指した。魔王ゼルヴァとしてではなく、相沢直人としての「あなた」に、魔王国の未来がかかっている、と。ベリシアの言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。一人じゃないのかもしれない。
「私たちも、後悔はしたくありませんから……」
ベリシアが部屋を出ていこうと扉に手をかけた、その時だった。扉の向こうから、誰かがやってくる気配がした。扉が開かれ、入ってきたのは魔道士ダルヴァンだった。彼の傍らには、助手の女性がいる。深いワインレッドの髪を無造作にまとめ、白磁のような肌を持つ、スタイルの良い女性だ。明らかに俺を観察する目で見つめていた。ダルヴァンの助手、エルメラだったか。
ベリシアが部屋から出ようとし、ダルヴァンとエルメラが入ってくる。扉を挟んで、二人の四天王がすれ違う。その一瞬、言葉は交わされなかった。ただ、ベリシアとダルヴァンの視線が、互いを捉えた。挨拶一つなく、ただ視線だけで交わされる、冷たいやり取り。その短い一瞬に、彼らの間に流れる複雑な空気が凝縮されているように感じられた。
「失礼します、陛下。定期の計測にて、参りました」
ダルヴァンが、いつもの困ったような表情で言う。ベリシアは無言で、俺に一礼し、部屋を出ていった。
「定期の計測?」
「はい。魔王の体に魂が定着し、安定しているかを確認するためのものです。秘術の後、定期的に行います」
ダルヴァンはそう言って、傍らのエルメラに視線を送る。
「エルメラ、頼む」
「はい、閣下」
エルメラが、手にした何らかの装置を俺に向けた。それが発する微かな光が、全身を舐めるように走る。エルメラの琥珀色の瞳が、装置を通して何かを読み取っているようだ。
しばらく計測が続く。ダルヴァンは時折、「うむ」「魔光値の数値は……」などと呟いている。その声には、安堵のような、あるいは計算通りであることへの満足のような響きが混じっている。彼の内心では、この「紛い物」が問題なく機能していることに安心しているのだろう。だが、彼の纏う黒紫の瘴気は、どこか不穏な気配を放っていると感じられた。
「うむ、問題なく定着し安定しているようですな。特に大きな問題はないようですが、急激な魔力の発動や、過度の訓練は体に無理をかける恐れがあります。お体に無理無いよう、お気をつけください」
ダルヴァンはそう言って、計測を終えた。エルメラは装置を仕舞い、静かにダルヴァンの後ろに控える。
「失礼いたしました」
ダルヴァンは形式的な挨拶をして、部屋を出ていこうとする。エルメラもそれに続く。しかし、ダルヴァンが完全に部屋から出た、その瞬間。エルメラは歩みを止め、振り向きざまに、俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声で囁いた。ダルヴァンには、決して聞こえないタイミングと声量だ。その目が、真剣に俺を捉えている。
「もし、なにか異変があれば、ダルヴァン様ではなく……ベリシア様にお伝え下さい」
それだけ言うと、彼女は再びダルヴァンの後を追い、部屋を出ていった。