(22)暴走する魔王!
「エルシア・フレイアス……自分の名前を覚えているか」
俺は、そう問いかけていた。彼女の赤い瞳の奥に、人間としての温もりが残っていないかと、わずかな希望を抱いて。
「あなたは、普通の少女として暮らすべき人間だ」
俺の声は、虚しく広間に響くだけだった。エルは、何の反応も示さない。
勇者として戦い、少なくとも平和な時を作った。その彼女が転生したというなら、勝ち取った平和を味わう権利があるはずだ。
冷たく、無機質な表情のまま、勇者エルは迷いなく聖剣《アルバ=ルミナ》を構え、一歩を踏み出す。
エルと切り結ぶ。その動きは、人間離れしていた。まるで、精密に調整された兵器のようだ。俺は魔王としての力を解放している。それでも、全力で応じなければ、命を落としかねない。彼女の剣技は、ロイドと同等――いや、それ以上だ。
《アルバ=ルミナ》と、エクス=ルミナが激しくぶつかり合う。甲高い金属音が広間に響き、火花が散った。そのたびに、黒曜石のような床には新たな傷が刻まれていく。
リセルが、その戦いを見つめながら、呟いた。
「これって……昔の魔王ゼルヴァ陛下と、勇者エリシア=フェルブレイズの戦い……の再現……」
彼女の言葉が脳裏をよぎる。確かに、状況は酷似していた。俺の前の魔王と前の聖剣の勇者。
相討ちとなった戦いの再現。
いや、エリシアの転生体であるエルは、感情を奪われたただの道具と化していた。その事実が、胸を締めつける。
一方、俺とエルの交戦中に、ゾルグは異常な動きを始めていた。切断された両腕の付け根から伸びる触手が、無差別に広間を暴れ回っている。その魔力の波動は暴走を極め、制御の域を遥かに超えていた。
「くそっ、何だこの動きは!」
ロイドが、聖剣《アーク=ルミナ》で触手を弾き飛ばす。ゾルグの挙動は予測不能だった。まるで壊れた人形のように、無秩序に暴れ続けている。
「動きがランダムすぎて、読めないっす……!」
カルラが巨斧で触手を叩き斬るが、すぐに新たな一本が伸びてくる。リセルも素早い動きでかわし、レイピアで魔力の流れを乱そうと試みた。しかし、ゾルグの魔力はもはや、制御できる段階を過ぎていた。
「――ゼルスエール、――どこだ……!」
その時、ゾルグが怨嗟に満ちた声を上げた。無機質な響きの中に、濁った憎悪が混じっている。
触手が、リセルの死角から伸びる。彼女の魔力感知能力をもってしても、暴走状態のゾルグに対応しきれないのだろう。
「リセル! 危ない!」
カルラが叫びながらリセルを庇った。だが触手は、カルラの巨体をもろとも捕らえ、絡みつき、そのままゾルグの黒いローブへと引きずり込んだ。
「きゃあああっ!」
リセルの悲鳴が広間に響く。カルラの体は、まるで液体のように崩れながら、闇に呑み込まれていく。
「カルラッ!!」
俺は、その光景に一瞬気を取られた。それが命取りだった。
エルは、その隙を逃さなかった。《アルバ=ルミナ》が、俺の腹部へと突き刺さる。鈍い音が響き、口から血が噴き出した。激痛よりも、仲間を救えなかった悔しさのほうが、胸を焼いた。
「カルラ……!」
膝をつき、その場に崩れ落ちる。エルは、無感情の瞳で俺を見下ろしていた。
そして今度は、混乱するリセルに向かってゾルグの触手が伸びる。
悲鳴混じりの声を上げ、リセルが逃れようとする。いや、間に合わない。彼女もまた捕らえられ、黒い闇へと引きずり込まれていった。
「リセル! くそッ!!」
俺はエルを無視し、残された力を振り絞ってゾルグへと手を伸ばすが、エルがそれを許さない。《アルバ=ルミナ》が俺の肩を貫き、床に縫い留められる。
鮮血が飛び散った。
もう、体は満身創痍だった。それでも、仲間を救いたいという想いだけが、俺を動かしていた。
エルが、とどめを刺そうと《ベルダ=ルミナ》を構える。その刃は、俺の心臓を正確に狙っていた。だが、その時――
ゾルグの背後から、一本の黒い触手が、静かに、鋭く伸びてきた。エルはそれに気づかないまま、剣を振り下ろそうとしていた。
「エル、後ろだッ!」
ロイドが叫ぶ。しかし、その声は届かない。
触手が、エルの体を容赦なく捕らえた。彼女の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれたように見えたが、それも束の間――体は黒いローブに吸い込まれていく。
ゾルグは、カルラ、リセル、エルまでもを、自らの身体へ吸収したのだ。
その身体は異形でしかなく、数倍に膨れ上がっている。
見る間にその体が、変貌を始めた。ローブは変形する体に破れ、その内から黒い鱗が隆起し、鋭い爪が突き出す。首は伸び、頭部からはさらに巨大な角が生え、瞳は血のように禍々しい赤に染まる。
それは、もはや魔王などという存在ではなかった。恐怖と憎悪、呪詛が形を取った、絶望そのもののような怪物だった。
「な……何だ、あれは……」
ロイドが後ずさる。俺もまた、そのおぞましい姿に息を呑んだ。
ゾルグは、巨大でいびつな黒い竜へと変貌していた。まるで生物を冒涜するようなその体躯は広間を満たし、天井にまで達するほどだ。全身から放たれる魔力が、ダンジョンの構造を揺るがし、ひびを走らせていく。
黒竜となったゾルグは、天井を見上げ、凶悪な咆哮を上げた。その声は空間を裂き、岩盤を砕き、瓦礫を降らせる。
粉砕された天井から、黒き翼を広げたゾルグが、ゆっくりと飛翔していく。
「待て……!」
俺の叫びも虚しく、轟音と共に天井を破壊しゾルグはゆっくりと翼を動かした。
崩れ落ちる瓦礫のなか、ゾルグは軽やかに宙に浮かび、漆黒の空へと消えていった――。