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(5)魔王の執務を行いました

 魔王城の一角にある執務室は、十分すぎるほど広かった。その重厚な木製の机の上には、見たこともない書類の山。これが、魔王としての執務……俺にできるのか、こんなこと。

 部屋には、俺とベリシア、部屋の隅に数人の魔族のメイドが控えているだけだ。皆、静かに俺の様子を窺っている。ベリシアは、冷徹な秘書といった様子で、完全に業務的なトーンだ。

「こちらが、魔王ゼルヴァ=レグナス=ノクス陛下として、貴方様が決済すべき書類となります。ご覧の通り、多岐にわたります」

「……これを全部、俺が?」

 思わず呻くと、ベリシアは表情を変えず応じた。その奥には、「この人間如きに、魔王陛下の執務など務まるものか」という明確な疑念が見え隠れしていると感じられた。

「はい。これらは魔王軍の運営、領土の管理、臣民からの嘆願、他領との交渉、あとは先代陛下からの引き継ぎ事項などです。全て陛下の裁可が必要です」

 ベリシアは淡々と説明する。

 とりあえず一冊を手に取った。

 書類に目を通そうにも、知らない単語ばかりで頭に入ってこない。

「ベリシア、少し聞いても良いか? この書類にある『回廊』とか、『地上界』とかって、一体何なんだ?」

 俺の問いに、べリシアはため息をついてから、答えてくれた。

「この世界は、大きく分けて天界、地上界、精霊界、そして魔界の四つに分かれています。それぞれは『回廊』と呼ばれる特殊な空間で繋がっています。この魔王国ゾルディアは、魔界と地上界をつなぐ巨大な回廊の一つです。下層に行くほど魔界に近く、魔素が濃くなります。地上の人間の国のひとつ、ルミナスにも、天界と繋がる回廊があります」

 まるで教科書を読み上げるように説明してくれた。四つの世界? 回廊? 頭の中で情報が整理できないが、とりあえずノートにメモを取る要領で、脳内に情報を記録していく。

「じゃあ、その『人間と魔王国の戦い』ってのも、その世界の構造と関係があるのか?」

「はい。人間と魔王国の戦いは、太古より眠られる天界の神と魔界の神の代理戦争です。それぞれの神が地上に選んだ『勇者』と『魔王』を立てて争わせてきました。これは古より代々続く、終わりのない戦いとなります」

 代理戦争……神々の。スケールが大きすぎて、現実感が全くない。俺が、その終わりのない戦いの、当代の「魔王」になってしまったのか。

「じゃあ『聖剣』ってのは勇者って奴と関係があるのか?」

「聖剣は人間の中から勇者を選別する、神聖な武器です。勇者が倒れると、しばらくして人間の国のどこかに聖剣が発見され、そこが聖域となります。岩に突き立った聖剣を引き抜けた者が、新たな勇者として認定されるのです」

 聖剣、勇者選別。ペンタグラムの間で聞いたばかりの単語だ。ベリシアはさらに付け加える。

「聖剣が輝き始めたという報せは、既に掴んでいます。間もなく、新たな勇者が誕生するでしょう。それは、陛下が対峙すべき敵となります」

 なるほど。俺が魔王として戦うべき相手は、その聖剣に選ばれた勇者、ということか。俺は、神々の代理戦争の駒、ということなのだろう。なんという理不尽だ。

 分からないなりに書類に目を通し、ベリシアの説明を聞いていく。先代からの引き継ぎ、軍の報告、領地の問題……。一つ一つは複雑だが、基本的な構造は、前の世界でやっていた技術職の仕事と似ているかもしれない。問題点を把握し、解決策を検討し、判断を下す。

 書類の読み方、この世界の専門用語、魔王国の常識……ベリシアは、俺の拙い質問にも、最初は僅かに訝しげな表情を見せながらも、辛抱強く答えてくれた。俺が書類を読み進め、質問を重ね、自分なりに判断を下していくうちに、彼女の俺に対する視線が、少しずつ変わっていくのを感じた。

 俺は書類を捌くのは慣れている。内容が異なっても、情報の処理速度や、問題解決のための思考回路は前の世界で培ったものだ。説明を頭に叩き込み、書類の内容を読み解き、自分なりの判断を下していく。

 できるだけ、正確に。

 可能なら、早く。

 最初はゆっくりだったペースが、次第に上がっていく。午前中の終わり頃には、ベリシアが次に説明しようとした書類を、俺が先に手に取って内容を把握している、という場面もあった。彼女の顔に、驚きの色が浮かぶのを見た。冷徹な秘書として振る舞っているが、感情が全くないわけではないらしい。

「これだけの書類、日付を見ると何年も貯めただけじゃないだろう? 日々はどうしてたんだ?」

「私が代理で処理しておりました」

「……お疲れ様です」

「宰相の務めです」

 午後になって、部屋の扉がノックされた。ベリシアが許可を出すと、入ってきたのはバルドとナクティスだった。彼らは、俺の執務の様子を見に来たのだろうか。彼らの俺への態度は、謁見の間での宣言以降、大きく変わっている。侮りの色は消え、興味や、ある種の期待が感じられる。

「陛下、執務は順調でございますかな?」

 バルドが豪快な声で尋ねる。

「んー、アイザワ、お仕事ちゃんとしてるー? 書類ちゃんと読んでるー?」

 ナクティスは相変わらず気だるげな口調だけど声に宿る興味は強い。

「ああ、まあ、なんとかやってるよ。この書類の量、半端ないけどな」

 俺が苦笑しながら言うと、バルドは「フハハハ!」と豪快に笑った。

「それは大変でございますな! ですが、魔王国を治めるには、武力だけでなく内政も重要。文官たちが陛下の手腕に期待しておりますぞ」

「やだなぁ、アイザワ、書類とか読むの苦手そうー。アタシもああいう細かいの嫌い」

 少し雑談を交わす中で、自然と話は聖剣のことに及んだ。ベリシアが、最新の諜報部隊からの報告を改めて二人に伝えた。人間の国で、儀式の準備が進んでいること。それを聞いたバルドは険しい顔になり、ナクティスはうんざりとした表情を見せた。

「やはり、勇者の誕生は避けられぬか……」

「そうなると、また面倒な戦いが増えちゃうねー。なんかいい手はないのー?」

 ナクティスが、希望なさそうに言う。彼らは、会議の時と同じく、臣民への被害を案じているのだ。新たな勇者が出現すれば、また戦争が始まる。たくさんの命が失われる。それは、俺が最も避けたいことだった。

 彼らの会話を聞きながら、俺は思った。勇者が出現すれば、戦いは避けられない。それは、たくさんの命が失われることを意味する。人間も、魔族も。でも、もし、勇者が誕生する前に、何かできることがあるとしたら? 聖剣の選別を遅らせる、あるいは……妨害する?

「なあ、聖剣が勇者を選ぶっていう聖域エルム、そこを見に行ってみるっていうのは、どう思う?」

 俺が思いつきで口にすると、その場の空気が一瞬止まった。バルドとナクティス、ベリシアの視線が一斉に俺に集まる。ベリシアの顔には、「また何を言い出すんだ、この人は」という困惑と、明確な反対の色が浮かんでいた。

「聖剣を、見に? 陛下、それはあまりにも危険かと。人間の聖域に、魔王である陛下が行くなど……正体が露見すれば、どうなるか……。それに、陛下の今の力量では――」

「もちろん、大っぴらに行くわけじゃない。変装でもして、こっそり様子を見るだけだ。もしかすると、勇者の選別を遅らせたり、妨害したりすることができるかもしれない。そうすれば、仮初でも平和な時間が長くなるだろ?」

 俺の言葉を聞いたバルドとナクティスは、顔を見合わせた後、面白そうに笑みを浮かべた。

「ほう! それは面白い発想でございますな、陛下!」

 バルドが目を輝かせる。

「んー、アイザワ、そういう突拍子もないこと考えるの、やっぱ面白いー。賛成」

 彼らにとっては、現状打破のための、面白そうな一手に見えたのだろう。

「しかし陛下、そのような個人的な興味で――」

「個人的な興味だけじゃない。これは、魔王として、無益な争いを避けたいという判断だ。聖剣選別を遅らせることができれば、その分、戦いの準備をする時間も稼げる。それに、勇者がどんな奴なのか、直接見ておくのも無駄じゃないはずだ」

 俺が反論すると、バルドとナクティスはさらに乗り気になったようだ。

「なるほど! 確かにそうでございますな!」

「んー、アリかもねー」

「そうなると……ワシも行きたいところだが、この老体を引っ張り回すよりは、若いもんに行かせた方が良い。丁度ええ修行になる。――フィーユを連れて行ってくだされ」

「フィーユ?」

「ワシの孫娘になります。小さいが腕は確か。まあヒヨッコではありますがな」

 腕の確かなヒヨッコってなんだ?

 ベリシアは、三人の会話に焦りを感じているようだった。彼女の、俺の執務能力への見直しとは別に、この突飛な行動は到底容認できない、といった顔だ。しかし、三人の乗り気な様子を見て、そのうえで俺の決意が固いことを悟ったのだろう。ベリシアの瞳の色が、僅かに変わる。諦めではない、覚悟の色だ。

「陛下。わたくしからも一つ提案がございます」

 ベリシアが口を開いた。

「陛下の力量は未だ十分ではございません。条件が二つあります」

「分かった」

「ひとつは、聖剣を見に行くにあたり修行を行う、あとひとつ……誰かがお目付け役として同行しなければなりません。これは、私が行きます」

 ベリシアの言葉に、俺はうなづいた。

「でもベリシア、執務は誰が……?」

「執務は……ナクティス殿にお願いしましょう」

 ベリシアが、ナクティスを指名した。ナクティスの気だるげな表情が、一瞬で凍り付く。その目が、信じられないといった様子でベリシアを捉えた。

「……は? アタシがぁ? やだよー、書類とか面倒だしー」

 ナクティスが、心底嫌そうに声を上げた。

 ベリシアは、ナクティスの嫌がる様子を見て、フフ、と僅かに口元を緩めたように見えた。それは、冷徹な彼女には珍しい、どこか愉快そうな、悪戯っぽい笑みだった。その表情は「わたくしに逆らって、陛下を危険な旅へ行かせようとしたのですから、これくらいの報いは受けてもらいますわ」と言っているような、些細な、しかし確かな復讐の色が浮かんで見えた。

「分かったよー、やればいいんでしょ、やればー」

 ナクティスは、ベリシアの表情から逃れるように、渋々ながらも執務代行を了承した。彼女にとっては、面白そうな陛下の旅に行けない上に、苦手な仕事を押し付けられるという、踏んだり蹴ったりな状況だ。

「では、同行者はフィーユ殿と、わたくし。ナクティス殿には留守中の執務をお願いします。陛下の力量向上が条件となります」


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