(9)寝室に忍びよる影……?
「セレアリス様、陛下がお呼びです。ルーンハイト公国より、火急の報せが届きました」
午後、ルミナス王城にて執務を行っていた私に、侍従が声をかけてきた。
評議の間にいた父上のもとに駆け付けると、すでに大司教や騎士団長などが席についている。私の席の後ろには、いつもの様にロイドが控えてくれた。
父上は厳しい表情で報せを握りしめていた。
「……ルーンハイトに、魔王が現れた」評議の間が、その声にざわつく。「村を襲撃したとのことだ。ルーンハイト公国に宣戦布告したらしい」
父の言葉に、私の心臓は冷え込んだ。魔王――アイザワ様が? いや、彼に限っては無い。断言できる。
それでは、ダルヴァンの様に、新しい魔王が出現した?
「勇者アイザワは、まだこの国に戻らぬのだな」
「――はい」
どうすることもできず、私は答えた。
「勇者でありながら――!」
騎士団長のいらだった声がした。私の手前もあるだろう、途中で言葉を止めたが、それは座にいる者の共通の思いだった。
……ただ私は思う、それはルミナスという国の思い上がりでしかないと。
「――今回の魔王出現は、神の御試練でしょう」
グラハム大司教は、穏やかな声でそう言った。その瞳の奥には、冷たい光が宿っているように私には見えた。
「神は我々を見捨てることはありません。祝福された光は、必ずやこの闇を打ち払うでしょう」
彼の言葉には、神聖な響きがあった。その声に満ちた力は、人々の不安を鎮める力を持つ。
その奥にある何か、形式的な響きに、私は微かに違和感を覚えた。
「そこで、聖王陛下」
グラハム大司教は、向き直り、恭しく父上に言った。
「かねてより準備を進めておりました、新しき光――勇者エルをこの地に派遣するのが最善かと存じます。彼女の神聖な力は、必ずやこの災厄を鎮めるでしょう」
その言葉に、周囲の司祭たちが静かに賛同の声を上げた。エル――二振りの聖剣を持つ、少女。彼女が、教会の新たな「勇者」として、魔王との戦いの前線に立つ。それが良いことなのだろうか。
「私も、ルーンハイトへ参ります」
思わず口にした。世界の危機に、聖王女として、何もしないでいることはできなかった。
私の言葉に、会議室の空気が一瞬、凍りついたように感じた。
「セレアリス、お前まで危険な場所へ行く必要はない」
父上が、心配そうな目で言った。違う。父の立場は、この場には必要ない。
「ですが、父上。神に仕える聖女として、民が苦しんでいる現場で、私は……」
「セレアリス様のお気持ちは重々承知しております」
グラハム大司教が、穏やかながらも断固とした口調で割って入った。
「しかし、今は勇者エルが世界に示されるべき時。聖王女であらせられるセレアリス様には、この王都に留まり、不安なる人々の祈りを束ねていただくことこそ、より重要な務めかと存じます」
彼の言葉は、もっともらしく聞こえた。聖王女が先頭に立つよりも、教会が育てた勇者を前面に出し、その力を誇示するほうが、彼の目的には適っているのだろう。
「この件に関しては、本来の勇者が居ない以上、代わりを派遣する必要がある――まずはエル、そしてーー」
父上が私とロイドを見た。
「ロイド卿、出向いてもらえるか」
「はっ。仰せのままに」
略式ながら、ロイドは騎士の礼をおこなう。
「なお、セレアリスは今回、国を出ることはまかりならん。これは王命だ」
「――父上!」
私の声に、父上は答えなかった。
結局、私のルーンハイト行きは、父上とグラハム大司教によって禁じられた。代わりに、ロイドがエルに同行することになった。親友であるアイザワが魔王だと知りながらも、世界のために奔走するロイドなら、きっと何かの助けになる。そう思うしかなかった。
会議の後、私は自室に戻り、大きくため息をついた。世界の危機を前に、何もできない自分の無力さが、重くのしかかる。
夜になり、灯を消して、眠れないだろうと思いつつベッドに横たわった。
いつの間にかぼんやりとした意識の中、私はどこか見覚えのある場所に立っていた。境界のない、白い空間。その前方に、かすかに人影が現れた。
近づいてくる。
見覚えのある貌。――そう、少し前魔王国で、少しの間共に過ごした、魔王国の住人。
赤色の髪が、ゆらゆらと揺れている。深い紫色の瞳が、私を見つめていた。
「――セレアちゃん」
気だるげな、けれど聞き覚えのある声が、私の名を呼んだ。
「ナクティス……さん?」
目の前にいたのは、魔王ゼルヴァの四天王の一人。なぜ、彼女が私の夢の中に?
「んー、ひさしぶりー」
ナクティスは、欠伸混じりの声で言った。彼女の周りの空気は、夢のように柔らかく、どこか現実離れしていた。
「ナクティスさんこそ……なぜ、私の夢の中に?」
私がそう問い返すと、彼女は面倒くさそうに髪を弄びながら答えた。
「陛下がね、ルーンハイトに行ったんだよ」
その言葉に、私の胸がざわりと不安に波打った。やはり、アイザワもあの地へ……。
「それで、新しい魔王? のことでセレアちゃんやロイド君が困るかもって、わたしがこっちにくることになったの」
「アイザワ様が……ルーンハイトに?」
「まあね。でさ、セレアちゃんところの『勇者エル』って、一体何なのさ?」
ナクティスの唐突な問いに、私は少し戸惑った。
「エルは……教会が世界のために生み出した勇者だと聞いていますが……」
「ふーん……生み出された、ねぇ」
ナクティスは、興味深そうな瞳で私を見つめた。その奥には、何かを見定めようとするような冷たい光が宿っていた。
「どんな力を持ってるの?」
「それは……神聖な力だと聞いています。詳しいことは……」
「わたしは、なぜか彼女の夢に入れないの。ちがうなぁ、夢を見ないのかなー?」
「彼女はリシア=フェルブレイズに酷似して……」
私が言いかけたとき、ナクティスは軽く私の言葉を遮った。
「ふーん。ま、いいや。あたしはただ、へいかの邪魔になるようなら、先に潰しておこうかなーって思っただけだから」
彼女の軽い調子の言葉に、私は背筋がひやりと冷えた。魔王ゼルヴァに仕える彼女にとって、エルは敵となり得る存在。
「邪魔……ですか?」
「さあね。でも、陛下が向かった先でも、妙な動きがあるのは確かみたいだし」
ナクティスの言葉は、私の不安をさらに深めた。ルーンハイトで一体何が起こっているのか。アイザワは、今どうしているのか。特に気になるのは、教会が送り出す「勇者エル」とは、一体何者なのか。
「エルはルーンハイトに行くことになりました。ロイドも共に。……でも私はこの国に留まることになりました」
「んーそうなの? ま、あっちはへいかに任せとけば良いでしょ。わたしはしばらく、こっちに居るから、何かあったら夢の中で言って」
夢の中のナクティスの姿は、やがて霞のように消えていく。彼女の最後の言葉が、意識の奥底に残された。
「まあ、セレアちゃんも気をつけなよ。思いがけないことばっか起こるからさ」
にっこり笑ったナクティスの姿が徐々にぼやけ、やがて私は、深い眠りの淵へと引き戻された。
夢から覚めても、ナクティスの言葉は、現実のように私の胸に残っていた。ルーンハイトで何かが起きている。それは、世界の未来を左右するような、大きな出来事なのかもしれない。
私はベッドから起き上がり、窓の外を見た。夜の闇が、街全体を柔らかく包んでいる。けれど、私の心には、昨日よりもなお深く不安の影が差していた。
私は、聖王女として、今、何ができるのだろうか。王城に閉じ込められたままで……。




