(4)動乱の兆し……です。
大聖堂の一角――ステンドガラスを通して差し込む光が、神聖な雰囲気を醸し出すこの場所で、私はグラハム大司教と真正面から向き合っていた。彼の細身の体は、高位神官の衣に包まれ、冷ややかな印象を与える。撫でつけた銀色の髪と、深く刻まれた皺、冷たい銀の瞳が、彼が長きにわたり教団の中枢にいたことを物語っていた。
「セレアリス様。お美しい御姿、今日もまた神々しい限りです」
彼の低い声は、表向きには丁寧だが、その奥には常に、何か隠された意図が感じられる。
「大司教様こそ、いつも教団のためにご尽力いただき、深く感謝申し上げます」
私も形式的に返礼した。彼のその手の言葉には、通常、素直な意味などない。
「いえいえ、これも全て、神の御心に適うため。何より、このルミナス聖王国が、真の恵みに満ちるようにと願うばかりです」
彼の視線が、一瞬、私の腰に佩いている神聖なロザリオに向けられた気がした。
「ところで、セレアリス様」と、彼は声をわずかに低くした。「先日、聖剣に選ばれし勇者アイザワなる人物が、そのまま姿を消してしまったとのこと。何か、ご存知のことは?」
彼のその言葉に、私の心臓は一瞬、跳ね上がった。まるで、穏やかな水面に石が投げ込まれたように。
「……いいえ、大司教様。私は存じかねます。聖剣に選ばれた方が、なぜ姿を消してしまったのか、私も深く憂慮しております」
平静を装い、そう答えるのが精一杯だった。彼の鋭い視線が、私の心の奥を探るように感じられる。
「そうですか。それは残念です。聖剣は、古よりこの世界を守護するための偉大なる力。その選ばれし者が、このようにあっけなく姿を消してしまうとは……かつての勇者たちには、考えられないことでした」
彼の声には、皮肉な響きがはっきりと含まれていた。何よりそれは、聖剣に選ばれた勇者を見出した私とロイドへの、隠れた批判だったのだろう。
「勇者様には、何かご事情がおありだったのかもしれません」
私は、できる限り穏やかな声でそう言った。
「事情、ですか。聖剣を手にした者の最大の使命は、世界の悪を討つこと。他に、どのような『事情』があり得るというのでしょう?」
彼の口元には、冷ややかな笑みが浮かんでいる。それは純粋な疑問ではなく、私を追い詰めるための言葉だ。
「……神のみぞ知る、としか申し上げられません」
それ以上、私は何も言えなかった。相沢が魔王であることを、彼に告げるわけにはいかない。嘘をつき続けることへの罪悪感が、私の胸を重く締め付ける。
「神のみぞ知る、ですか。確かに、その通りかもしれません。しかし、聖剣の導きを軽々と捨て去るような者に、本当に世界の悪を討つ偉大な使命が果たせるのでしょうか? いや、むしろ……」
彼はそこで言葉を切り、私の目をじっと見つめ、意味ありげに微笑んだ。
「……聖剣に選ばれる勇者も重要ですが、それ以上に、我々教団の意のままに、真なる正義のために力を発揮できる『新しい勇者』こそが、今のルミナスには必要なのかもしれませんね」
そう言うと、彼は短く笑った。その声音が冷ややかに感じた。それは、行方不明になったアイザワへの当てつけであると同時に、教団が何か新たな計画を企てていることを示唆しているようだった。
「聖剣が選んだ方です。きっと、偉大な使命を果たす力をお持ちだと、私は信じております」
私は、硬い声でそう答えるのが、今の私にできる精一杯の抵抗だった。
「そうであることを、私も願っております」
彼のその瞳の奥には、微塵も希望の色はなかった。むしろ、確信に満ちた、計算されたような冷たい光を感じた。
この対話は、空気を重苦しくし、神聖なはずの大聖堂の一角に、不穏な緊張感を残した。私は、彼の隠された意図を探ろうとしたが、彼の冷ややかな仮面の奥は、深い闇のように不可解だった。
その日の夕刻、私は日中の務めを終え、自室に戻っていた。夕日が西の空を金色と赤色に染め上げ、王城の庭園は静寂に包まれている。影が長く伸び、穏やかな雰囲気を醸し出していた。
自室の窓から、その景色を眺めていると、誰かが私の部屋の扉をノックした。
「セレアリス様、私です。ロイドです」
彼の声を聞き、私は急いで扉を開けた。彼の表情は、先ほどよりもさらに深刻に見えた。
「セレアリス様、大変です。先ほど、王宮の聖職者から報告がありました。王都周辺で、前例のないほど多くの魔物の反応が確認されたとのことです」
ロイドの言葉に、私の心臓は冷たくなった。未確認の魔物。その予期せぬ出現。
「その数と場所は?」
私が低い声でそう尋ねると、ロイドは重い表情でそう答えた。
「アルアの方です。今も増加しており、いくつかの村がすでに襲撃を受けているとのことです」
その瞬間、私は理解した。これは偶然ではない。大司教グラハム様が語っていた「新たな聖なる力」。それが、もしかしたら、この魔物の大量発生と関係があるのではないか――そんな不穏な予感が、私の胸を冷たく締め付けた。
「ロイド、行きましょう」
私は、強い声でそう言った。
「ええ、セレアリス様」
私たちは、互いに強い眼差しを交わし、部屋を飛び出した。夕暮れの穏やかさはすでに消え去り、王城全体に、不穏な緊張感が立ち込めているのを感じながら。私たちが信じる道を見つけるために、今こそ、行動を起こさなければならない時が来たのだと、私は強く思った。
* * *
王都を抜け出し、馬を走らせることしばらく。闇が落ちる中、私たちは魔物の出現が報告された村へと辿り着いた。
空気には焦げ付いたような臭いが漂い、遠くからは悲鳴や金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。
ロイドは重い表情で頷き、馬から降りると、旧聖剣――彼はアーク=ルミナと名付けた――に手をかけた。
「セレアリス様、ここでお待ちください。私が様子を見てきます」
「いえ、私も行きます」
聖女として、苦しんでいる人々を見過ごすことなどできない。私は純白の聖衣を固く握りしめ、ロイドの後に続いた。
数体のゴブリンが家屋を破壊しているのが見えた。
彼はすでに数体のオークと交戦していた。一撃でオークを吹き飛ばしている。
彼の周囲では、数名の騎士たちが必死にゴブリンの群れを食い止めていたが、その表情には疲労の色が滲んでいた。
「神よ、彼らをお守りください……!」
私は祈りを捧げながら、負傷した騎士たちに癒しの光を向けた。
その時、背後から低い唸り声が聞こえた。振り返ると、一体のオーガが大股でこちらに向かってくる。
巨体と粗末な棍棒――一撃でも受ければ、ただでは済まない。
「セレアリス様、危ない!」
ロイドの声とほぼ同時に、オーガが棍棒を振り上げた。私は思わず目を瞑った――その瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。
赤い髪の少女が、まるで瞬間移動でもしてきたかのように、私の前に現れたのだ。明るい色の軽鎧を身にまとい、両手には奇妙な形状の剣を構えていた。一つは長剣、もう一つは円環状の剣だった。
その少女は、無表情のまま、信じられない速さで動いた。一太刀でゴブリンの首を切り裂き、次の瞬間には円環の剣を投げ放った。それはブーメランのように空を舞い、複数のオークを切り裂いて戻ってきた。
オーガが怒声を上げ、狙いを定め棍棒を振り下ろす。――微動だにしない。棍棒が彼女を打とうとしたその瞬間、彼女の持つ長剣が光り輝いた。次の瞬間には、オーガの巨体が命を失って崩れ落ちた。まるで、水を切るように容易く。
その光景は、信じられないほど素早く、そして効率的だった。まるで精巧に作られた人形のように、感情一つ見せず、作業的に魔物を屠っていく。その動きには一切の無駄がなく、彼女の持つ二つの剣は、まるで死の舞を踊っているかのようだった。
あっという間に、周囲の魔物は一体残らず倒されてしまった。空気には血の臭いが漂い、倒れた魔物たちの死骸が転がっている。つい先ほどまでここで暴れていたはずの数多の魔物の脅威は、すでに完全に消え去っていた。
彼女は、倒れた魔物たちに一瞥すら与えず、私たちに背を向け、去っていった。その赤い髪が、夕風に短く揺れていた。
私たちは、ただ、その異様な少女の背中を見送ることしかできなかった。