(32)そのころ、ベリシアは
静寂に包まれた魔王城の深部を、わたくしは急いでいた。ナクティスの封印が施された部屋へと向かう道中は、ダルヴァンの魔力に染められた魔物たちが蠢いていたが、わたくしの魔法剣『凍える炎』の一閃で、それらは瞬く間に氷の塵と化していく。普段はあまり剣を振るうことはないが、この状況では一刻の猶予も許されない。一刻も早く、ナクティスの封印を解かねば。
城の魔力は乱れ、どこか淀んでいる。ダルヴァンが、自身の魔力で城全体を掌握しようとしているのが見て取れた。ゼルヴァ様が築き上げられたこの城を、彼が穢すことは決して許さない。わたくしは、そう心に誓いながら、隠された通路を急いだ。魔王軍の将兵は各地でダルヴァン配下の者たちと交戦しているはず。その中でも、ナクティスの封印解除は、今後の戦局を左右する重要な鍵となる。
通路を抜けた先に広がっていたのは、激しい交戦の音と、複数の魔力の反応だった。そこには、黒いメイド服を身につけた者たちが、押し寄せる魔物の群れと戦っていた。メイド軍だ。彼女たちは、ダルヴァンの兵士たちによって分断され、各地で孤立していると聞いていたが、まさかこんな場所で合流できるとは。
「閣下! 無事でいらっしゃいましたか!」
一番に気づいたのは、落ち着いた口調で大鎌を振るうルディア隊長だった。彼女は、魔物の群れを薙ぎ払いながら、わたくしに駆け寄ってきた。その表情には安堵と、――確かな忠誠心が宿っている。彼女の背後では、金髪ショートカットのミネットが高速でゴーレムの側面を駆け上がり、双剣で連撃を浴びせている。「メイドってのはな、やる時ゃ本気なんだよ!」と、彼女の口の悪さは相変わらずだが、その動きはまさしく一流の戦士だ。
小柄なティセが、癒しの光を放ち、傷ついた仲間たちを癒しながら、ミネットに援護魔法を飛ばしている。「大丈夫……痛いの、すぐ治してあげるからね」と、ふんわりとした声で語りかける姿は、戦場の天使のようだった。
一方で、銀色のボブカットで片目にスコープ型魔導装置を装着したゼルダが、無機質な声で「命令確認。排除、開始」と呟きながら、その重装甲に内蔵された魔導砲で、巨大な魔物の群れを一撃で吹き飛ばしていた。彼女の火力は相変わらず圧倒的だ。
リセルと戦線に復帰したカルラ、二人の新人メイドの姿もあった。青銀の髪のリセルは、涼しい顔でレイピアを振るい、的確に敵の急所を突いている。「残業……終わらないんですか……」とボヤく声が聞こえるが、その動きに一切の無駄がない。金髪ポニーテールのカルラは、巨斧を両手に持ち、雄々しい雄叫びを上げて敵陣へ突っ込んでいく。彼女もまた、ルディア隊長やミネットたちと同様に、自らの役割を全うしようと奮戦している。
「ええ、わたくしは無事です。皆さんこそ、よくぞここまで辿り着かれました」
わたくしの到着で、部隊の戦意が回復したことが自分自身で判ります。
わたくしは、周囲の状況を一瞬で把握し、ルディア隊長に尋ねた。
「ナクティスの封印は?」
「それが……閣下。ダルヴァンめが、部屋の入り口に複雑な多重結界を施しておりまして。メイド軍の総力を以てしても、まだ解除できておりません」
ルディア隊長の声には、僅かな悔しさが滲んでいた。彼女の言葉通り、封印の間へと続く通路の奥は、幾重もの透明な膜のようなものが張り巡らされ、強烈な魔力が放射されているのが感じられた。これは、単純な物理攻撃では突破できないだろう。ダルヴァンも、ナクティスの封印解除を警戒している証拠だ。
「なるほど……」
わたくしは、冷静に状況を分析した。
「結界の解析は任せてください。メイド軍の皆さんは、わたくしが詠唱に集中できるよう、時間を稼いでいただけますか?」
「承知しました」
わたくしは、深く息を吸い込んだ。魔力感知と、城の情報が、わたくしの頭の中で瞬時に結びついていく。ダルヴァンが施した結界は複雑だが、城の魔力構造を基盤としているはずだ。つまり、城の魔力を活性化させるメイド軍の特殊な技術と、わたくしの自然の魔力を融合させれば、必ず突破口が見つかるはずだ。
その時、背後から新たにダルヴァン配下の魔物たちが湧き出した。
「ベリシア閣下、ここは俺たちがお守りします!」
力強い声と共に、わたしの直属戦闘部隊「ブラッディローズ」の竜人のグラディオ隊長が、彼の直属攻撃隊と共に駆けつけてくれた。黒銀の鎧を纏い、背に大剣を背負った彼の姿は、まるで不動の要塞のようだ。彼の隣には、赤髪のエリシア副隊長が皮肉な笑みを浮かべている。
「グラディオ隊長。命を大事にしたいなら、足は引っ張らないで」
彼女の毒舌は相変わらずだが、その手から放たれる魔弾は、正確に敵の急所を狙い、次々と魔物を撃ち抜いていく。グラディオとエリシアは、互いに軽口を叩きながらも、絶妙な連携で魔物の群れを押し返していく。
わたくしは、メイド軍と直属攻撃隊に守られながら、結界の前に歩み出た。まず、結界の構造を解析する。紫紺の瞳を凝らし、魔力の流れを読み解いていくと、確かに結界には、城の魔力とダルヴァンの魔力が複雑に絡み合っていることが分かった。
「ルディア隊長、メイド軍の皆さん、城の魔力を最大限に活性化させてください! 特に、結界との接続点に集中を!」
「了解いたしました、閣下! 皆、指示に従え!」
ルディア隊長の指示と共に、メイド軍の隊員たちが、それぞれ得意な方法で城の魔力を高めていく。ティセが祈るように手を組み、純粋な魔力を城へと流し込む。ゼルダは、自らの魔導機構を城の魔力回路に接続し、強制的に魔力を引き上げているようだ。リセルは、鋭い魔力感知能力で、結界の薄い部分を探し出していく。カルラは、誰よりも前に出て巨斧を振るい、物理的な障壁となり、わたくしを守ってくれている。
わたくしは、掌を結界に翳し、魔力を流した。わたくしの魔力は、城の魔力と共鳴し、結界の表面に微かな波紋を広げていく。結界は、まるで生きているかのように波打ち、その魔力障壁を維持しようと抵抗する。
「魔力活性、限界まで引き上げます!」
ゼルダの無機質な声が響く。その言葉通り、城の魔力がさらに高まり、わたくしの身体にもその反動が伝わってくる。
「ぐっ……」
瞬間、結界が激しく振動し、一筋の亀裂が入った。だが、すぐにダルヴァンの魔力が亀裂を塞ごうと蠢く。
集中力を研ぎ澄ませ、詠唱を続ける。結界が、まるで硬い岩のように頑強に抵抗する。ダルヴァンが、いかにこの封印の部屋に執着しているかが分かった。
外では、グラディオ隊長が「前進するぞ、目の前の敵を潰せ!」と叫び、大剣を振るいながら竜化能力を発動させていた。彼の身体はみるみるうちに変化し、巨大な竜の姿へと変貌する。咆哮と共に、炎を吐き出し、押し寄せる魔物の群れを焼き尽くしていく。エリシア副隊長は、その炎の隙間を縫うように魔弾を放ち、逃げ惑う魔物を的確に仕留めていた。
「ふふ、隊長。もう少しスマートに戦ってみませんか?」
と、相変わらず余裕そうな声でグラディオ隊長に言っているが、彼女の額には汗が滲んでいる。メイド軍のミネットも、まるで獲物に飛びかかる獣のように、ゴーレムの群れへと突撃している。
わたくしは、再び深く息を吸い込んだ。
「……解析、完了。多重構造の最後の隙間を見つけました。皆さんの魔力、一点に集中させます!」
わたくしの言葉に、メイド軍の全員が、渾身の魔力を結界へと叩き込んだ。わたくしの魔力と、城の魔力、メイドたちの技術が融合し、結界の最も脆弱な一点へと集中していく。
まるでガラスが砕けるような音が、謁見の間全体に響き渡った。幾重にも張り巡らされた結界が、音を立てて崩壊していく。透明な膜が波紋のように消え失せ、部屋の入り口が露わになった。
最後の結界が破られた瞬間、部屋の奥から、禍々しいがどこか懐かしい力を秘めた光が漏れ出した。それは、深い紫色の光で、凍てつくような冷気と、同時に甘美な魅惑を放っているかのようだった。
「閣下、お見事です!」
ルディア隊長の安堵の声が聞こえる。
わたくしは、疲労を感じながらも、部屋の奥から漏れ出す光へと視線を向けた。その光が最も濃い場所へと、ゆっくりと足を進めた。
光の中心に、一人の女性が横たわっていた。雪のような肌に、赤い色の髪が広がり、長めの前髪が片目を隠している。華奢だが、どこか妖艶な雰囲気を持つその姿は、紛れもなくナクティス=ルナリアだった。彼女は、まるで長い眠りから覚めたばかりのように、ゆっくりと紫色の瞳を開いた。
「んー……べリシアぁ? なに、こんな時間に起こしてくれたの……怠い……」
ナクティスは、まだ覚醒しきっていないのか、気だるげで甘えたような声で、わたくしに問いかけた。その口調は、昔と何も変わっていない。
「ナクティス。無事でしたか……いえ、無事などと、よく眠っていたものですね」
わたくしは、安堵しつつも、思わず皮肉めいた言葉を口にしてしまった。長年の友である彼女が、危機に陥るまで眠っていたのだから、それも仕方ないだろう。
「べリシア、お前、相変わらずね……。ここは、どこ……? ああ、嫌だ、魔力の流れが気持ち悪いわ。なに、ダルヴァンが何かしたの?」
ナクティスは、ゆっくりと身体を起こすと、周囲の魔力の乱れに気づいたようだ。その深い紫色の瞳が、微かに鋭さを増した。
「ええ、まさしく。ダルヴァンの謀略でバルド殿は亡くなり、今、魔王城の深部で陛下とダルヴァンが交戦中です」
わたくしは、簡潔に状況を説明した。ゼルヴァ様の名前を口にする時、わたくしの胸に、僅かながら複雑な感情がよぎった。ゼルヴァ様は、今は相沢という人間の姿で、ダルヴァンと直接対峙している。
「ダルヴァン? へいかが裏切られたってこと? んー、めんどくさいことになったわね。でも、わたしの可愛いへいか~に手ぇ出すなんて、許せないわ。ダルヴァン……後でゆっくり可愛がってあげるから、待ってなさいね」
ナクティスは、体を伸ばしながら、気だるげな声で呟いたが、その瞳の奥には、確かな怒りの光が宿っていた。彼女の指先が、まるで獲物を狙うかのように、微かに震えているのが見えた。
「で、私は何をすればいい?」
「ゼルヴァ様を援護し、ダルヴァンの企みを阻止してください。あなたの配下の軍も参戦させてください」
わたくしは、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「んー……わかったわ、べリシア。へいかのためなら、久々に本気だすよー」
ナクティスは、ふわりと身体を浮かせると、その怠惰な表情のまま、魔王城の中心へと向かい始めた。その背からは、魔力が溢れ出している。
ここからが、本当の始まりだ。ナクティスの力が、今、再びこの魔王城に解き放たれる。ダルヴァン、覚悟なさい。