(31)そのころ、フィーユは
血と土埃の匂いが、鼻腔を刺激する。ゴーレムたちが放つ鈍い金属音と、仲間たちの悲鳴が混じり合い、戦場の喧騒は耳を劈くほどだった。視界は霞み、目の前では、ダルヴァン配下の無機質なゴーレムたちが、まるで止めどない津波のように押し寄せていた。獣王軍は、まるで波に浚われる砂の城のように、次々と崩れ落ちていく。傷つき倒れる仲間たちの呻き声が、風に乗って聞こえてくる度に、ボクの胸は深く締め付けられた。
じいちゃん……獣王バルドを失った悲しみは、まだ癒えない。兵士たちの顔には、絶望が色濃く刻まれていた。彼らの瞳には、かつてあった獰猛な炎は燃えていない。ただ、死を待つ獣のような、諦めの光が宿っているだけだ。このままでは、全滅してしまう。分かっていた。分かっていたけれど、ボクの身体は傷だらけで、思うように動かない。左腕はゴーレムの攻撃を受けてひどく腫れ上がり、血塗れの旗を握りしめることすらままならない。でも、ボクは進まなくちゃいけない。この旗は、じいちゃんが、この魔獣軍団を率いる証として、ボクに託してくれたものだ。この旗を掲げ、ボクが立たねばならない。ボクが、この絶望を打ち破らねばならないんだ!
「おい、お嬢! 無茶しやがって!」
その時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。振り返ると、巨大な獅子の獣人、ガルド=ロアが、残りのゴーレムを豪快な一撃で粉砕しながら、ボクの元へ駆け寄ってくる。彼の金色の瞳は、いつものようにボクを案じる光を宿していた。彼もまた、全身血と土埃にまみれ、いくつもの傷を負っている。
「ガルド……!」
「もういい、お嬢! オレがいる限り、誰にもお嬢を傷つけさせねぇ! ここはオレたちに任せとけ!」
ガルドは、そう言いながらも、ボクが旗を掲げようとしていることに気づいたのだろう。彼の瞳に、微かな驚きと、力強い決意の光が宿る。ガルドは、じいちゃんを実の父親のように慕っていたから、きっと、ボクの気持ちが分かるはずだ。
その隣には、巨大な鉄槌を担いだレグナス=ブルート隊長がいた。彼の荒々しい顔には、珍しく焦りが浮かんでいた。
「お嬢、何をしている! こんな場所で、貴様が……!」
レグナス隊長は、ボクの幼い頃から、まるで伯父さんのように俺を見守ってくれていた人だ。彼もまた、じいちゃんを父親のように思っていた。だから、彼の言葉には、ボクを案じる気持ちが込められているのがよく分かった。
ボクには、ここで立ち止まるわけにはいかない理由があった。この絶望を打ち砕く、唯一の言葉がある。
ボクは、痛む身体を無理に奮い立たせ、血塗れの旗を、力強く地面に突き立てた。その旗は、風にはためき、倒れ伏す獣人たちの頭上で、はっきりとその存在を示した。
「聞け……皆! ダルヴァン配下の魔人どもも!」
ボクの声は、傷ついた喉から絞り出すように発せられたため、枯れて、震えていた。でも、不思議と、戦場の喧騒の中に響き渡る。兵士たちの視線が、一斉にボクへと向けられた。彼らの瞳は、依然として諦めと絶望に満ちている。
「獣王バルド様は……じいちゃんは……」
言葉に詰まる。胸が痛くて、息をするのも苦しい。最愛のじいちゃんの最期を思い出し、涙が溢れそうになった。でも、泣いてちゃダメだ。ボクはリーダーなんだから。
「命を落とした……!」
ボクの叫びは、戦場に一瞬の沈黙をもたらした。獣人たちは、まるで時間が止まったかのように、その場に立ち尽くす。彼らは、まだ、獣王様の死を正確には知らなかったのだ。
だが、その沈黙は一瞬だった。すぐに、兵士たちの間に、ざわめきと混乱が広がっていく。
「しかし……! それは、ダルヴァンの策略によるものだ!」
ボクは、涙を堪え、渾身の力を込めて叫んだ。この言葉だけは、はっきりと伝えなければならない。
「今、我々が討つべき敵は、目の前のゴーレムではない! 真の敵は、魔王の座を奪い、じいちゃんを陥れたダルヴァンだ!」
ボクの慟哭にも似た叫びは、絶望に沈む獣人たちの心に直接響いた。彼らの瞳に、変化が生まれる。諦めの光が消え、代わりに、怒りの炎が灯り始めたのだ。じいちゃんへの忠誠心と、ダルヴァンへの憎悪が、彼らの血を沸騰させていくのが、肌で感じられた。
「この旗のもと、獣王軍前進!」
力の限り叫んだ。
「ダルヴァン……! あの裏切り者め……!」
「獣王様を、謀っただと……!?」
兵士たちの間で、次々と怒りの声が上がる。その怒りは、瞬く間に伝播し、諦めかけていた彼らの失われたはずの戦意を、一気に回復させていく。彼らは、ボクの周りに集まり、まるでボクが次の王であるかのように、熱い視線を向けている。
「お嬢……!」
ガルドが、力強くボクの名前を呼んだ。彼の金色の瞳は、かつてないほどの炎を宿している。
「ふざけやがって……! 獣王様を……を騙し討ちにしやがって、ダルヴァンめ! お嬢のためなら、この命くれてやるぜ! 全員、聞け! お嬢が言ってるぞ! 我らの王を裏切ったダルヴァンを討て!」
ガルドが雄叫びを上げ、獣化能力を発動させた。彼の身体は瞬く間に膨れ上がり、獅子のような強靭な四肢と、鋭い爪が露出する。彼は、その巨大な拳を大地に叩きつけ、地鳴りを起こしながら、ダルヴァンのゴーレム群へと突進していった。その一撃は、目の前のゴーレムを文字通り粉砕し、まるで暴風のように敵陣を切り開いていく。ボクは、ガルドがこんなに怒っているのを見たのは初めてかもしれない。
「お嬢には手ぇ出させねぇぞ! クソが……!」
レグナス隊長もまた、怒りに燃える眼でゴーレムの群れを見据えていた。彼も、じいちゃんを慕っていたんだ。彼の怒りは、きっとボクと同じくらい深い。彼は、巨大な鉄槌を軽々と担ぎ上げ、前線へと躍り出た。その一撃は、まるで流星のようにゴーレムの群れに突き刺さり、いくつものゴーレムを同時に木っ端微塵にする。レグナス隊長は、暴れると周りを壊しちゃう癖があるんだけど、今はその破壊力が頼もしかった。
「ぐおおおおおおおおっ!!!」
レグナス隊長の咆哮が、戦場に響き渡る。彼の荒々しい戦闘スタイルは、まさに破壊の権化だ。
兵士たちの間に、再び活気が戻っていく。彼らは、かつてじいちゃんを慕い、忠誠を誓ったあの頃の瞳を取り戻していた。
その忠誠心は、今、ボクへと向けられている。ボクが、この獣王軍の新たな柱になるんだ。
「フィーナ様が言っている! 王の仇を討て!」
「ダルヴァンを許すな! 魔王の座を奪うなど、言語道断!」
「獣王軍よ、今こそ立ち上がれ!」
兵士たちの雄叫びが、一つにまとまり、戦場の空気を震わせる。彼らは、失われたはずの戦意を取り戻し、まるで別の部隊になったかのように、ダルヴァンのゴーレムたちに牙を剥き始めた。
ボクは、傷ついた身体に鞭打って、指揮を執った。痛みはあったが、それ以上に、獣人たちの熱気がボクの身体に力を与えてくれるかのようだった。
「ガルド、レグナス隊長、前線を維持して! 後衛は、魔法で援護を!」
ボクの指示は、混乱していたはずの獣王軍に、明確な方向性を示した。彼らは、まるで生まれ変わったかのように、組織的な動きを見せ始める。個々の獣人たちの力だけでなく、連携が生まれ始めたのだ。
ガルドは、その豪快な体当たりで敵の隊列を崩し、レグナス隊長は、その鉄槌で敵の指揮系統を分断していく。彼らの背後で、弓兵や魔導士たちが、的確に援護射撃を行う。ボクも、懐から小剣の『疾風』と『迅雷』を取り出した。獣人たちの間を縫うように、敵のゴーレムへと飛びかかる。
シュンッ!
素早さを活かして、ゴーレムの隙間をすり抜け、頭部へと跳び上がった。そのまま『疾風』を振り下ろし、ゴーレムの魔石を狙う。硬い装甲に阻まれるが、風の魔剣は確実にヒビを入れていく。
「ボクは、最強の魔獣王だぞ!」
心の中で叫び、ゴーレムの装甲に噛みつく。意外と痛い噛みつき攻撃は、ゴーレムの動きを一瞬止める。その隙に、もう一度『疾風』で魔石を叩き割った。ゴーレムは、眩い光と共に機能を停止し、崩れ落ちていく。
ボクは壁を駆け上がり、ゴーレムの群れの上を飛び回る。琥珀色の瞳で戦場全体を見渡し、次にどこへ向かうべきか、誰を援護すべきかを見極める。ボクの鋭い嗅覚と聴覚が、遠くの敵の動きや、助けを求める仲間の声を捉えていた。
獣王軍は、劣勢だった戦況を奇跡的に覆し始めた。じいちゃんを失った悲しみは、ダルヴァンへの憎悪へと変わり、それが彼らの新たな力となっていた。その力の源は、ボクが掲げた血塗れの旗の下に集まった、彼らのボクへの忠誠心と、未来への希望だった。
魔王城の奥では、ゼルヴァ陛下たちがダルヴァンと戦っているはずだ。ボクたちはここで、ダルヴァンを本懐へと向かわせるわけにはいかない。陛下を、守らなければならないんだ。
ボクは、再び旗を握り締める。痛みは、もう感じない。この旗が、獣王軍の新たな希望となるのならば、ボクはどんな犠牲も厭わない。
じいちゃん……見ていてくれ。ボクは、みんなのリーダーとして、この魔王国を、必ず守り抜くからな!