(22)すぐに追いかけましたが
村での救護活動に半日の遅れを取った俺は、疲労の色を隠せないセレアリスとロイドを連れて、魔王国との国境付近、堅牢な「黒曜石の要衝」へとたどり着いた。以前の戦乱が過去となった今、すでに魔王国の領土である。
夜明け前の薄暗い空気が、ひどく重く感じられる。自国が近いというのに、安堵よりも胸を締め付けるような予感が募った。
その不穏な空気の正体を確かめるよりも早く、要衝の陰からベリシアの声が響いてきた。その声には、普段の冷静さはなく、焦燥と、かすかな痛みが混じっていた。
「陛下! こちらです!」
セレアリスとロイドを伴って急ぎ駆け寄った。そこにいたのは、息を荒げ、土埃と返り血にまみれたベリシアと、その腕の中で辛そうに息をするフィーユだった。フィーユの小さな肩には、見るからに深い斬り傷が走っている。ベリシアは、治癒の魔法をかけながら、その目には怒りと、――失望が宿っていた。
「フィーユ! 何があった。その傷は一体……!?」
俺の問いに、ベリシアが顔を上げた。その表情は、怒りにも似た苛立ちに満ちていた。
「何があった、ではありません! 我々はこの先で魔王軍の先鋒と交戦しました……指揮を執っていたのは、あの獣王バルドです!」
ベリシアは、そう告げながら、要衝の先から聞こえてくる、地鳴りのような轟音の方角を指差した。フィーユは、ベリシアの腕の中で、微かに震えながら、怯えた目でそちらを見つめている。
「フィーユの傷もバルドの剣戟によるものです。バルドは……奴は……もはや私たちが知るバルド殿ではありません。ただの狂気と破壊の権化と化しています!」
ベリシアは、疲労と焦燥に顔を歪ませながら、語気を強めた。
「このままでは魔王国が危ない! 陛下がこの場に到着するまでに、我々は既に奴らと一戦し、足止めしたばかりです。一刻の猶予もありません! このような最悪な状況に陥ったのも、陛下が人間たちに時間を費やしていたせいで……!」
彼女の言葉は、すでに人間の偽装はない、その声に混じる冷たさは、俺の選択への深い失望を示していた。俺は、一体どうすれば……。
「じいちゃん……あんなの、やさしいじいちゃんじゃない……!」
フィーユが、ベリシアの腕の中で、泣きそうな声で呟いた。その声は、混乱と悲嘆に満ちている。
地面が、まるで巨大な獣が咆哮を上げているかのように、音を立てて揺れ始めた。その震動は徐々に大きくなり、俺たちの足元を直接揺らし始めた。霧の向こうから、数え切れないほどの魔物の群れが姿を現す。それらは獣王軍の兵士たちだ。しかし、彼らの目は虚ろで、鈍く輝き、ただひたすらに前へと進んでいた。
――その群れの先頭に立っていたのは、やはり紛れもないバルドの姿だった。
彼の巨体は、かつての威厳を保ちつつも、全身から禍々しい闇の魔力を噴き出している。目は血走り、その顔には、生前の剛毅な面影は微塵もなく、ただ獰猛な獣の狂気が宿っていた。彼は、咆哮を上げながら、眼前に立ち塞がる残された要衝の防衛施設を、その圧倒的な力で容赦なく粉砕していく。
バルドがどのように操られているのか、俺には正確には分からない。しかし、これほどの強大な魔力を持ち、かつての忠誠心が完全に破壊されている現状を考えれば、おそらくダルヴァンが術を使ったのだろう。そう考えるしか、今のバルドの状態を説明する術はない。
俺は、バルドの姿を目の当たりにして、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
「アイザワ殿……魔王軍の進軍が早い! 早く手を打たないと、この要衝が突破されてしまいます!」
ロイドが、剣の柄を強く握りしめ、焦った声で俺に詰め寄った。彼の顔には、疲労と決意が混じり合っている。
「陛下! 今この時も、反乱軍は刻一刻と地上界へ!」
ベリシアもまた、焦りを隠さず俺を急かした。彼女の言葉は、魔王国の危機が既に限界に達していることを示していた。
「アイザワ様……あなた、もしかして……」
セレアリスが、バルドの暴走を見つめながら、静かに呟いた。
『魔王よ、おぬしも事情があるかもしれん。だが、この剣は、破壊をもたらす者の支配を許さぬ。』
手に握られた聖剣エクス=ルミナから、澄んだ、しかし厳粛な声が響いた。俺が魔王であることを嫌悪しながらも、聖剣としての使命を果たすよう促している。その言葉は、俺の心に突き刺さった。魔王国の未来のため、俺はバルドを止めなければならない。それは頭では理解している。しかし、この胸の奥で、相沢という人間としての心が、強く拒否している。
人間の魂として、俺は人間が見捨てられない。しかし、魔王として、魔物たちも見捨てられない。魔王として、あるいは勇者として、どのように行動するのが正解なのか、俺には全く分からない。ただ行動すれば後悔しないのか?
「くそっ!」
握りしめた拳を震わせた。
深く息を吸い込み、落ち着いて、ゆっくりと吐き出した。
「止めなければならない……! この場で、奴らの進軍を食い止める!」
俺の口から、その言葉が絞り出された時、それは俺自身の意志であったと同時に、魔王としての使命、そして何よりも、相沢という人間としての魂が、その悲劇的な状況を受け入れた瞬間でもあった。俺は、エクス=ルミナを強く握りしめた。剣の柄から伝わる熱は、まるで俺の決意を嘲笑うかの如く、しかし確かに、俺の心を貫いていた。
「セレアリス殿下!」
彼女に声をかけた。俺の厳しい表情に僅かに怯えながらも、彼女は真っ直ぐに俺を見つめ返した。
「フィーユの治療を、殿下にお願いしたい。殿下の聖なる力ならば、きっと彼女の傷を癒せるはずだ」
セレアリスは、一瞬顔を曇らせた。
「――アイザワ殿。後で、いくつか聖王女として伺うことがあります」
だが、彼女の声には、慈悲と使命感が混ざっていた。
「でも……お任せください、アイザワ殿。必ず、フィーユ殿を癒してみせます。どうか、ご武運を」
セレアリスは、フィーユに駆け寄り、その傷にそっと手を当てた。聖王女の指先から、淡い光が放たれ、フィーユの苦痛に歪んだ顔が、わずかに和らいでいくのが見えた。
次にロイドとベリシアに向き直った。彼らの顔には、疲労と決意が宿っている。
「ロイド殿、ベリシア。済まないが、君たちの助力が要る。バルドを止めるため、俺と共に切り込んでほしい」
ロイドは、迷うことなく剣の柄を強く握りしめた。
「承知いたしました、アイザワ殿!」
彼の声には、揺るぎない騎士道精神が漲っていた。
ベリシアは一瞬、沈黙した。彼女の瞳には、葛藤が深く宿っているのが見て取れた。あるいは、俺が感傷に浸って時間を浪費したことへの不満が、まだ彼女の心を占めていたのかもしれない。しかし、彼女の顔には、やがて固い決意が浮かび上がった。
「……陛下、わたくしは、臣下として、命を賭して陛下をお守りいたします。この魔王国を、このような愚かな反乱で滅ぼすわけにはいきません」
ベリシアは、そう言って、腰の剣の柄を握りしめた。その言葉は、俺への忠誠と、魔王国を守るという強い決意が入り混じったものだった。彼女は、俺の判断への不満を抱えながらも、それ以上に、魔王国の危機を案じているのだ。その顔には、今や迷いはなく、ただ使命感だけが燃え盛っていた。
「ありがとう、二人とも!」
感謝の言葉を口伝えた。彼らの存在が、俺の心に力を与えてくれる。
「バルド……必ず、お前を止めてみせる!」
自らに誓い呟いた。それは、かつての仲間への誓いであり、魔王としての使命への誓いであり、何よりも、フィーユの祖父を救うという、人間相沢としての誓いでもあった。




