(21)正しい選択はどちらでしょう?
聖地エメルを発ってから数日、俺たちは昼夜の別なく魔王国への帰還を急いでいた。魔王であるこの体は、人間の時よりもはるかに疲労を感じにくい。だが、連日の強行軍は、セレアリスとロイドには明らかに堪えているようだった。彼らは疲労を顔に滲ませながらも、文句一つ言わずについてくる。
俺自身の精神的な疲労は、肉体的なそれを遥かに上回っていた。魔王国で一体何が起きているのかという、先の見えない不安と焦燥が心を蝕む。俺は、まだ魔王として王座に就いて間もない。その俺が、この強大な魔王国を、たった一人で、この混乱の中で、どうにかできるのか? 心の奥底には、そんな不安が渦巻いていた。
『まったく、魔王に使われるとは。我が身が穢れるわ。』
背に担いだ聖剣エクス=ルミナから、脳裏に直接響く、澄んだ、しかし明らかに不機嫌そうな声が聞こえてきた。この剣は、俺――魔王に使われることに、未だに我慢ならないらしい。疲労と焦りで苛立つ俺の神経を、さらに逆撫でするような声だった。
魔王国との国境が近づいてきた。同時に不穏な空気も濃くなってきた。すれ違う旅人たちの口からは、魔王軍が地上界へと進軍しているという噂が聞こえてくる。だが、俺は知っている。それは、魔王軍ではない。ダルヴァンとバルドが率いる、反乱軍の進軍なのだ。彼らが本気で人間界を蹂躙するつもりならば、その惨禍は計り知れない。
夜の闇が一帯を覆い尽くした頃、俺たちは、丘の向こうから立ち上る黒煙と、耳を劈く悲鳴、獣の咆哮を耳にした。どうやら、小さな村が襲われているらしい。魔王軍の進軍から逃げ出してきた野生の魔物が、人間の村を襲っているのだろう。この辺りの小さな集落では、自警団程度しか防衛力はない。今の混乱の中では、正規の兵士が駆けつけるのも難しいだろう。村から届く悲鳴は、俺の胸を締め付けた。
「アイザワ殿、あれは――!」
ロイドが、息を呑むような声で、燃え上がる村の方角を見た。彼の顔は、夜目にもはっきりとわかるほどに苦痛に歪んでいた。騎士である彼にとって、目の前の惨状を前にして、ただ見過ごすことなど、ありえないことなのだろう。彼の瞳は、助けを求める人々を見捨てることなどできないと、雄弁に語っていた。
セレアリスもまた、その貌に深い憂いを宿し、唇を噛み締めていた。聖王女として、民の苦しみを無視するわけにはいかないという、強い使命感が彼女から伝わってくる。
「大事の前の小事です。ここは迂回し、先を急ぎましょう」
ベリシアが、冷徹な声で俺に告げた。その声には感情の揺れが一切ない。
彼女の言うことは、魔王国の四天王としての合理的な判断だ。人間の村を助けることに時間を費やせば、魔王国への帰還が遅れる。その遅れが、国の命運を決定づけるかもしれない。彼女の瞳の奥には、魔王国の危機に対する極度の焦りが燃え盛っていた。普段は冷静沈着な彼女が、ここまで感情を露わにするのは、それだけ事態が深刻だという証だった。彼女の本音は、はっきりと「人間の村など知ったことではない」と、俺には聞こえた。魔王国が心配で、反乱が何事なのか、早く帰還したい気持ちが、彼女を突き動かしているのだろう。セレアリスたちが邪魔をするなら、殺してでもというほどの覚悟が、その声には宿っていた。
「そうだよ、早く戻らないと……!」
フィーユも、バルドのことが気になっているのか、やや消極的な顔でベリシアに同意した。彼女もまた、祖父の安否を優先したいという、純粋な思いに突き動かされている。
「……いえ、そのようなことはできません! 困っている者がいれば助けるべきです! 魔王軍の進軍が優先事項であるとしても、ここで苦しむ人々をわたくしは看過できません!」
だが、セレアリスは、彼女たちの合理性を許容できないとばかりに、悲痛な声で訴えた。その声は、俺の心に直接響くようだった。
「その通りです。我らが勇者たるアイザワ殿が、困っている人を見捨てるなど、騎士道に反する行い! それは、我らが勇者様としてあってはならないことです!」
ロイドも、セレアリスの言葉に強く同意し、俺を真っ直ぐに見据えた。
彼の言葉は、俺の心に深く突き刺さった。勇者。それは、俺がこの世界で得た、偽りの称号。だが、聖剣エクス=ルミナに選ばれたことで、否応なく背負わされた、この世界の人間たちの期待と希望。ロイドは、俺を勇者として信じ、その理想像を俺に重ねている。
魔王国に急がなければならない。ダルヴァンの反逆なら、彼を討ち、バルドの真意を確かめなければ。もし、魔王国の混乱が地上界に波及すれば、それこそ取り返しのつかない事態になるだろう。魔王国の、俺が守るべき民の命も危険に晒されているのだ。俺の頭の中では、魔王ゼルヴァとしての義務と、相沢という人間の倫理観が、激しくぶつかり合っていた。魔王国が崩壊の危機に瀕している。一刻の猶予も許されない状況だ。ベリシアの言う通り、この村を助けることは、貴重な時間を浪費する行為かもしれない。その結果、魔王国が滅びれば、俺は魔王として、最大の不覚を取ることになるだろう。
同時に、俺の胸には、目の前の村から聞こえてくる悲鳴、燃え上がる炎。セレアリスとロイドの必死な訴えが、重くのしかかっていた。この体は魔王だが、魂は紛れもなく日本人、相沢直人という人のままだ。目の前で苦しむ人々を見捨てて、本当に後悔しないと言い切れるのか? たとえ魔王国が最優先だとしても、そのために目の前の小さな命を見殺しにすることは、俺という人間の魂が許さない。
『ああ、またか。全く、このような状況で迷うなど、鈍すぎる』
エクス=ルミナが、再び不満げな声を俺の脳内に響かせた。その愚痴のような言葉は、俺の迷いをさらに深くする。この剣は、俺の真の身分を知り、その存在を心底から嫌悪している。それは、まるで俺の魂の奥底を直接抉るような、痛烈な非難だった。だが、その激しい嫌悪の言葉の直後、声は一転して、抑えがたい命令の如く響いた。
『……だが、われは聖剣じゃ。困窮に喘ぐ人間を見捨てることは許されぬ。光の剣は、弱きを救うためにある。闇を祓い、命を守る、それが我の使命! 今、目の前の苦しみを看過するならば、我が存在意義すら揺らぐ!』
聖剣の、俺という「魔王」に対する絶対的な拒絶と、それでもなお「聖剣」としての矜持に殉じようとする、その矛盾。俺自身の内なる葛藤に加え、この剣の激しい感情と、それが突きつける崇高な使命が、俺の選択をさらに重くした。魔王国の危機を優先すれば、この聖剣の、――ロイドやセレアリスの信念を裏切ることになる。人間を救えば、魔王国が、俺自身の魔王としての未来が、危うくなる。俺は、一体、何者なのだ? どちらの道を選んでも、自分自身の魂のどこかで、深い後悔を抱えることになるだろう。どちらの選択が正解なのか、誰にも分からない。だが、決断を下さなければならないのは、今この場で、この俺なのだ。
「くそっ!」
握りしめた拳を震わせた。選択の重さに、体が鉛のように重く感じた。しかし、時間はない。この場で立ち止まっている間にも、魔王国の混乱は深まり、村の人々は命を落としていくだろう。
息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
覚悟を決めた。この苦悩が、俺の選択の礎となる。
「分かった、セレアリス殿下。ロイド殿。この村を救おう」
俺の言葉に、セレアリスとロイドの顔に、安堵と、強い光が灯った。しかし、ベリシアの顔は、一瞬で苦痛と不満に歪んだ。彼女がここまで露骨に感情を出すのは、本当に珍しいことだった。
「陛下! まさか! そのような無駄な時間を……! 状況が、どれほど逼迫しているかを、お忘れですか!」
ベリシアは、普段の冷静さを失い、焦燥に駆られてだろう、俺に詰め寄った。彼女の言葉は、紛れもない真実だ。魔王国の危機は、今この瞬間にも進行している。しかし、俺はベリシアを遮った。
「これは俺の意志だ!」
ベリシアの反論を遮り、きっぱりと言い放った。魔王ゼルヴァとしての命令ではない。相沢一人の人間としての、この状況における、俺自身の魂の叫びだ。俺のこの一言に、ベリシアはそれ以上言葉を紡ぐことができず、唇を噛み締めた。彼女の表情には、俺の意志に逆らえないという忠誠心と、それでも納得できないという葛藤が入り交じっていた。。その複雑な表情は、彼女が俺の配下として、どれほどの覚悟を持っているかを示していた。
「ベリシア、フィーユ。済まないが、君たちには先に国境近くまで進んでもらいたい」
俺は、ベリシアとフィーユに、命令を下した。
「なに、すぐに追いつく」
ベリシアとフィーユを、真剣なまなざしで見つめた。
「先に行って様子を探ってくれ。特に軍の動きを把握してほしい。けど、二人だけで無茶な行動だけはするな」
ベリシアとフィーユを先行させることで、彼女たちの焦りを解消し、同時に情報収集という重要な任務を与えることで、俺が村で活動する時間を稼ぐための、苦肉の策だった。何より、俺と人間組だけでの行動という、魔王国の人間にとってはありえないリスクを、二人に背負わせずに済む。
彼女は俺の言葉に込められた真意と、俺の決意の固さを感じ取ったのだろう。まだ不満げな顔をしていたが、やがて深く息を吐き、頭を垂れた。
「……承知いたしました。ご無事で」
彼女の口から、ため息にも似た言葉が漏れた。フィーユも、不安げながらも、ベリシアの隣で頷いた。
『そうと決まれば、急ぐぞ魔王』
エクス=ルミナが、再び脳裏で毒づく。
「アイザワ殿、ありがとうございます……!」
セレアリスが、心から感謝の言葉を述べた。そこには俺が勇者として、期待に応えてくれたことへの深い信頼が宿っていた。ロイドも、再び決意を込めた表情で俺を見つめている。彼の目には、騎士としての誇りと、俺への信頼が輝いていた。
ベリシアとフィーユの二人は身をひるがえし、俺たちの前から姿を消した。彼女たちの足音は、夜の闇の中に吸い込まれていく。
残された俺と、セレアリス、ロイドの三人。
俺は、二人の人間を率いて、炎と悲鳴が上がる村へと足を踏み入れた。魔王の体で人間を救う。聖剣エクス=ルミナは、俺の腕の中で、その存在を主張するかのように僅かに熱を帯び続けていた。魔王国への帰路で起こったこの衝突は、俺自身の存在と、この旅が持つ意味を、改めて俺に問いかけているようだった。俺の心の中で、魔王としての義務と、人間としての良心が、今もなお激しくせめぎ合っていた。




