(33) あの野郎……! どこまでもしつこい!
膝が崩れた。
息を吐く。
限界だった。これほどの力を使ったのは、前世を含めても初めてだ。
「はぁ……はぁ……なんとか、なったか……」
ベリシアも地に膝をつき、虚ろな目元を向けながらも、わずかに微笑んでいた。
リィゼルに抱えられたミルザは、まだ意識が朦朧としている様子だったが、その表情は穏やかだった。広がったプラチナの髪、ゆっくりと開かれた淡い瞳が、やがて一言だけ名を呼ぶ。
「ベリシア……」
その手が、わずかに握り返された。
「ミルザ……」
ベリシアの頬を、安堵と再会の涙が伝った。
カルナスは剣を納め、硬い表情が緩んでいく。ミルティナスも目尻を下げ、静かに息を吐く。ラズが満面の笑みを浮かべ、ミルザの無事を喜んだ。
リィゼルはミルザを優しく抱きしめ、その目元には喜びの涙が光っていた。
「ミルザ……! 本当に、本当によかった……!」
世界樹の回廊に、ようやく静寂が戻る。崩壊は止まり、ミルザは解放された――
……はずだった。
その瞬間、消滅したはずのアノンの存在が、俺の感知能力に再び捉えられた。
先ほど、アノンがいた元の根。
その中央。
全ての根が集まる「核」と呼ぶべき場所から、微かだが確かな憎悪の波動が放たれている。
アノンは、最後の瞬間まで諦めていない。まるで、砂粒になっても野望を成し遂げようとしているようだ。
「くっ……! まだ諦めていないだと……!?」
思わず呻きが漏れる。砕け散ったはずのアノンが、完全に消滅していなかった。あの一撃で肉体とミルザとの同化は阻止できたが、精神の残骸が根の奥深くへ逃げ込み、最後の足掻きを見せている。世界樹の生命力は、奴の憎悪にじわじわと蝕まれつつあった。
全身に残る痛みを押し殺し、疲れきった身体を無理やり立たせる。
まだだ。まだ終わっていない。
アノンの精神は、毒のように世界樹の奥へ潜り込み、深く巣食おうとしていた。このままでは、世界樹は癒えぬ呪いに冒され、緩やかに、しかし確実に死へ向かう。やがてその呪いは世界全体に広がり、この世界そのものを滅ぼすだろう。
「あの野郎……! どこまでもしつこい!」
カルナスが毒ついた。
奥歯を強く噛み締めた。魔力はすでに枯渇寸前で、超高位の魔法を発動する余力など残っていない。エクス=ルミナも、もはや真の力を引き出せる状態ではなかった。
『アイザワ……! 奴の悪意が、世界樹の核へ……!』
エクス=ルミナの声が、意識に直接響く。焦燥と、微かな絶望が滲んでいた。
ベリシアも異変に気づいたのか、虚ろな眼差しをこちらに向ける。
「陛下……まさか、アノンは……」
その表情には、再び絶望の色が浮かんでいた。カルナス、ミルティ、リィゼル、ラズ――彼らの顔にも、俺の様子と世界樹の気配を見て、暗い影が差している。心に芽生える諦めの気配が、痛いほど伝わってきた。
だが、ここで終わらせるわけにはいかない。
「諦めるな! まだだ!」
叫びと同時に、残る魔力を必死にかき集め、意識を世界樹の核へと向けた。奴を引きずり出すには――。
カルナスが持つ精霊の加護。彼の特技――精霊の加護を宿す剣技。その力を思い出した。
カルナスの左目に宿る印が、世界樹内部の腐敗や魔力の流れを感知している。
「カルナス!」
声を絞り出すように呼びかけると、彼が驚いたように振り向く。
「あの憎悪の塊を……! 世界樹の核から引き剥がすことはできるか!?」
一瞬、彼の顔に迷いが浮かんだ。だがすぐに、鋭い琥珀の目元が力強く輝く。
「……可能かもしれない。ただ、成功するかどうか……いや、やらねばならないな」
そう言いつつ、左目の紋様を強く輝かせた。
「頼む! お前しかいない!」
俺の言葉に、無言で頷くカルナス。精悍な顔立ちに覚悟が宿り、手にはすでに長弓が握られていた。深緑の短髪が風に揺れ、彼の意志を映し出す。
「カルナス様、助力いたします」
リィゼルが、ミルティが、カルナスの肩に手を置き、魔力を集める。
あたりに精霊たちが現れ、矢先に集中していく――。
カルナスは琥珀の視線を核へ向け、全身に精霊の加護を集中させる。身体から放たれた緑の光が弓に流れ込み、弦が静かに引き絞られた。
「見せてやる、ゼルヴァ陛下……これが、聖樹騎士団と、エルフの――魂の弓矢だ!」
その声は、ただ使命に燃えていた。