(32) 貴女は、独りではない
言葉が出なかった。
ミルザとの間に、これほど深い絆があったとは……。
「わたくしは……なんて、愚かだったのでしょう……!」
再び漏れた声には、痛切な思いがにじんでいた。頬を伝う涙は止まらず、理知的な顔立ちは、後悔と自責で歪んでいる。
「ミルザ……わたくしは、貴女との約束を……友情を……忘れていたなんて……!」
よろめき、アノン――ミルザのもとへと歩を進める。その姿は、魂が抜けたように力がなく、冷静な面影は消えていた。
ただ、友を救う一心で突き動かされる、剥き出しの心がそこにあった。
「ベリシア殿! 危険です!」
ミルティが声を上げ、手を伸ばす。顔には焦りと不安が浮かんでいたが、ベリシアにその手は届かず、アノン――ミルザの傍らに歩み寄った。
アノンの精神体が彼女に反応し、さらに強い魔力の奔流を解き放つ。この回廊を飲み込むほどの凄まじい力。世界樹の根が、彼女めがけて襲いかかってきた。
「くっ……!」
咄嗟に空間操作魔法を展開して庇おうとしたが、攻撃はあまりにも速い。ベリシアは無防備なまま――。
それでも彼女は怯まず、ミルザの姿をした左の顔を手でそっと包み込んだ。目元には恐怖の色はなく、ただ深い愛情と痛切な後悔が宿っている。震える指先が、そっとミルザの頬に触れた。
「ミルザ! わたくしです、ベリシアです! 思い出してください!」
彼女の叫びが、回廊を震わせた。
「あなたは、世界樹を慈しむ、優しい妖精女王でしょう!? かつて交わした約束を! あの世界樹の種に込めた、この世界への純粋な願いを!」
そこに込められたのは、悲しみ、悔い、そして再会を願う心。銀の髪が感情の奔流に呼し揺れた。
ベリシアを襲おうとした黒い根が止まる。アノンの魔力も、一瞬だけ揺らいだ。彼女の呼びかけが、ミルザの心の奥へと届いたのか――。
その時、カルナスが支えていた動かないミルザの身体の胸元から、かすかな光が漏れ出した。
――しなやかに、それは顔を出す。
幼いころ、ベリシアが手渡した黒猫のぬいぐるみ「グリセルダ」。色褪せ、毛羽立ってはいるものの、確かにそれだった。
ぬいぐるみのボタンの目が、かすかに光を帯びる。そして、そこから立ち上がったのは半透明の黒猫の影――精霊だった。
ふわりと飛んだ黒猫は、ベリシアの方に止まり、ミルザの顔を見て小さな身体から光を放つ。それは、彼女の意識に静かに干渉し、アノンの支配を打ち破ろうとしていた。
アノンが咆哮を上げる。
「馬鹿な……! たかが一匹の精霊が……我の支配を……!」
声には、動揺と怒りが滲んでいた。自分の絶対的な力を、ぬいぐるみのような存在に揺るがされるとは、思いもよらなかったのだろう。
黒猫の光は、ミルザを包み、アノンの根を押し返していく。それは、かつての友情の証であり、世界への慈しみを象徴する光。
そのなかで、ミルザの唇がかすかに動いた。
「ベリシア……」
微かに響く、か細い声。だが、確かにミルザの声だった。狂気に蝕まれていたときのそれではない。
「ベリシア……私を、助けて……!」
彼女の頬を、ひとすじの涙が流れた。孤独と苦痛、そして再会の喜びが込められた涙だった。
その光景を、ただ見つめていた。ベリシアの呼びかけ、黒猫の精霊、ミルザの願い――すべてが一つに結びついていた。
これは、アノンの支配に風穴を開ける決定的な機会。
ミルザの心には、まだかつての純粋な願いと、ベリシアとの約束が残っていた。
「ベリシア! 今だ! ミルザの意識が戻ってる! 奴の隙を突け!」
叫ぶと、熱が視界に満ちた。深紅の光が自らの視界に差し込む。これを逃すわけにはいかない。
声に応じ、ベリシアが顔を上げる。頬には涙の跡が残るが、紫紺の眼差しに強い決意が宿っていた。
「はい、陛下!」
彼女はミルザの手を握り、魔力を集中させる。身体から放たれた紫の光がミルザに注がれていく。それは回復ではなく、アノンの支配を断ち切るための精神干渉魔法――。
アノンは狂ったように叫び、半霊体が闇に蝕まれ、姿がさらに歪む。
「やめろ……! やめろおおおおお! 我は……この世界の法則となるのだあああああ!!」
その叫びに、もはや理性はなかった。ただの錯乱と狂気。全能感は崩れ去り、自壊していく。
「黒エルフを救うのだぁ! ――我と一体となって……進化だぁ!」
エクス=ルミナを構え、踏み出す。今こそ、すべてを終わらせるときだ。
世界樹の回廊は激しく揺れ、崩壊が進む。それでも、心には光が灯っていた。ミルザを救う、この世界を守る。その願いが、確かな力となっていた。
ベリシアがミルザの手を力強く握る。揺れる銀髪と細身の身体から放たれた紫紺の光が、ミルザの体へと流れ込んでいく。
アノンが、狂ったように叫び出す。半霊体の身体は闇の根に飲み込まれつつあり、輪郭がさらに歪んでいった。
「馬鹿な……! 我の『秩序なき進化』は……! 誰にも止められぬ! 止められないのだぁああ!」
全能を信じていた彼の自負が、崩れ落ちてゆく。世界樹の根が無差別に暴れ、回廊の天井から瓦礫が降り注ぐ。土煙が舞い、視界が霞んだ。
カルナスがミルザをリィゼルに預け、剣を振るい落下してくる瓦礫を払う。彼の顔に焦りが滲んでいた。
「ゼルヴァ殿! これ以上は危険です! 一旦、退くべきです!?」
ミルティも細い目を見開き、いつになく強い口調で訴える。
「いけません! ここで引けば、ミルザ様は再びアノンの手に……!」
リィゼルはミルザを抱えながら神聖魔法で崩落を防ぐが、疲労の影を浮かべる。ラズが操る魔獣たちも身を挺して瓦礫を粉砕していた。
混沌とする状況下で、判断を迫られる。確かに退避すれば安全は確保できる。だが、ここで下がれば、ミルザは完全に支配され、世界樹の崩壊は避けられない。
「退くなど、選択肢にない!」
エクス=ルミナを構え、アノンへと踏み出す。今こそ、決定的な好機だ。
漆黒の魔力が身体から奔流のようにあふれ出す。それは闇と死霊を宿す破壊の波動だった。精神支配の術式を最大出力で放ち、アノンと世界樹の精神融合を引き剥がしにかかる。同時に、失われた肉体を再構築するための術式――「転生術」の応用によって、世界樹そのものの生命力を再構築しようと試みた。
成功率は限りなく低い。だが、今こそ、全てを賭ける時だ。
アノンの精神は、ベリシアとミルザの絆の干渉によって混乱し、明らかに破綻しかけていた。苦悶に歪む半霊体の姿が、それを物語っている。
「ぐああああああああああああああ!!」
咆哮とも断末魔ともつかぬ叫びを上げるアノン。半霊体の輪郭が明滅を繰り返し、世界樹の根から引き剥がされようとしていた。まるで、世界樹そのものがアノンの存在を拒絶しているようだった。それはミルザとベリシアの絆が起こした作用に違いない。
ベリシアは、ミルザの手を握ったまま静かに目を閉じ、意識を集中させていた。逆立つ銀髪、紫紺の光がミルザのプラチナブロンドと淡い空色の目元を包む。消耗の極みに達しながらも、その表情は覚悟に満ちていた。
「ミルザ……負けないで……! 貴女は、独りではない……!」
震える声が、回廊全体に届く。ベリシアの忠義は、今、一人の友へと向けられていた。
精神の隙を突く。ミルザの意識は未だ掌握されきっていない。俺は意識を研ぎ澄ませた。
「絶滅ノ波動!」
魔力が一点に集中する。
魔力のすべてを攻撃に変換する。解き放たれた黒の奔流がアノンを貫いた。
魔王ゼルヴァの最大奥義の一つ。触れただけで精神体を消滅させるほどの破壊魔法。
アノンの絶叫が空間を揺らす。
「ぐおおおおおおお!!」
その身体が歪み、引き延ばされ、ついには砕け散った。《根侵》や禁術すらも、完全に消し去られる。アノンの野望は、ここに潰えた――はずだった。
その瞬間、世界樹の揺れが静まり、瘴気が消え、根を覆っていた闇も退いていく。