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(31) わたくしは……なんて愚かだったのでしょう

 その時、地面に吸い込まれたはずの根の残骸が、再び蠢き始めた。

 ドクン、ドクンと、不気味な心臓の鼓動のような音が響き渡る。黒い瘴気が渦巻き、その中心から、ぼろぼろと崩れ落ちた自身の肉体の一部を貪り浸食し、新たな「何か」が再生していく。

 それは、ミルザのプラチナブロンドの髪と、アノンの禍々しい闇の根が絡み合い、淡い空色の瞳と狂気に満ちた赤い瞳が左右に揺らめく、おぞましい半幽体だった。

 辛うじて人の形を保ってはいるが、その姿は見る者全てに、悍ましい絶望を突きつける。

 ミルザの顔の左側は精霊としての神々しい美しさを残しつつ、もう片側は邪悪な闇に侵食され、酷く歪んでいた。再生した片腕は、ミルザの白い肌と、アノンの漆黒の根が不規則に混じり合い、指先は鋭い爪へと変貌している。

「くそっ……! こんなはずじゃ……!」

 奥歯を噛み締める。後悔しないと決めたはずだった。だが、新たな困難が容赦なく立ちはだかる。

「……面倒なことになったな」

 深く息を吐き出す。だが、諦めはない。むしろ、燃える闘志が新たに芽吹いていた。世界樹を――この世界を――滅ぼさせてたまるか。

 後方で、ベリシアが小さく呻く声が聞こえた。

 振り返ると、紫紺の瞳が見開かれ、まるで雷に打たれたかのように、その場で凍りついている。顔色は見る間に蒼白となり、銀の髪は乱れ、しなやかな身体が小刻みに震えていた。

「な……に……?」

 掠れた声が、彼女の唇からこぼれた。

「わたくしは……なんて愚かだったのでしょう……!」

 顔を覆い、感情が堰を切ったように溢れ出した。乱れた銀髪の下で、しなやかな肩が小刻みに震えている。

 普段の知性ある美貌は、今や苦悶と悔恨に歪んでいた。

 その瞬間。暴れた精霊力の影響だろうか、経験したことのない現象が起こった。

 ――脳裏に鮮明な映像が流れ込んできた。ベリシアの記憶――。


  *  *  *


 ――それは、遠い日の記憶だろう。

 幼いベリシアは、細身の体に、あどけない顔をしていた。

 世界樹のたもと。

 魔族の外交官の娘としてエルフの国を訪れていた彼女は、たった一人、異国の地で迷子になっていた。

 猫のぬいぐるみを抱え、人もおらず見知らぬ場所を歩いていた。

 周囲のエルフたちは、幼い魔族の少女を遠巻きに見るばかりで、誰も声をかけようとしない。小さな胸に押し寄せる不安と孤独に耐えながら、彼女はただ、親の元へ帰りたいと願っていた。たどり着いた世界樹の根元で、彼女が感じていたのは、深い寂しさだった。

 ベリシアは、ふと歌声を耳にして、そちらに進んだ。

 精霊たちの歌声。

 色とりどりの妖精たちがその周囲を舞っていた。

 その中心には、ミルザが座っていた。透き通るような肌と金の髪は光をまとい、歌声に耳を澄ましていた。

 ベリシアが近づくと、精霊の声が止み、ふと精霊たちが消えた。

 華奢で小柄な少女だった。なぜか、ベリシアには光り輝いているように見えた。

 ミルザは、ゆっくりと振り返り彼女を見あげた。

「こんにちは、魔族の娘さん」

 柔らかな声が響き渡る。ミルザは、太陽のように暖かな微笑みを浮かべていた。

 幼いベリシアは、その声にびくりと震え、すぐに身構えた。魔族とエルフは、本来、互いに敵対する種族である。

 そう教えられたベリシアには、目の前の少女がなぜこれほど穏やかなのか理解できなかったのだろう。

「怖がらなくてもいいよ。――よかったら、話し相手になってほしいな」

 ミルザの言葉に、ベリシアは戸惑いの表情を見せる。そこには、まだ疑いが残っていたものの、ほんのわずかな好奇心が混じり合っていた。

 それから長い時間、二人はその場所で過ごした。

 最初は警戒していたベリシアも、ミルザの優しさに触れるうちに、次第に心を許していった。

 魔族の娘であるベリシアは、初めて見る世界樹の不思議な力に目を輝かせ、精霊たちの歌声に耳を傾けた。

 世界樹の枝の隙間から差し込む木漏れ日の下で、精霊たちが踊る姿を見て、思わず笑みがこぼれた。

 ミルザは、そんなベリシアに分け隔てなく接し、世界樹の美しさや生命の尊さを語って聞かせた。

 二人は、世界樹の根元で、色とりどりの花を摘んで髪飾りにしたり、小鳥たちの歌声に耳を傾けたり、時には、精霊たちと共に追いかけっこをして遊んだ。ミルザが精霊を呼び出し、ベリシアの周りをふわふわと舞わせると、ベリシアはくすぐったそうに身をよじって笑った。ミルザはベリシアから聞いた魔族の国の話に目を輝かせ、ベリシアはミルザから聞いた世界樹の神秘に夢中になった。互いの文化や常識の違いに驚き、ささいなことで笑い合った。

 どちらも幼いながらに「孤独」を知っていた二人は、急速に打ち解けていった。種族の壁を越えて育まれた、静かで温かな友情。それは、誰にも知られることのない関係だった。ベリシアにとって、ミルザは初めて心を許せた、かけがえのない存在だった。

 だが、終わりの時間も来る。

 ミルザは悲しげな表情で言った。

「私、もうすぐ、戻らなければならないの。あまり長い時間は外に居られないから」

 幼いベリシアは、その言葉に衝撃を受けた。紫紺の瞳が大きく見開かれる。

「そんな……! もう、会えないの!?」

 声が震える。別れの予感に、胸が締めつけられた。

「大丈夫。必ずまた会いましょう。だから、これを、――約束の印に、これをあげるわ」

 ミルザの手にあったのは、手のひらに収まるほどの、小さな光を放つ「種」だった。温かな輝きが幼いベリシアの顔を優しく照らす。

「これは……?」

「そうね。希望の種よ。私が大切にしていたもの。だからベリシアも大切にしてね」

 涙を浮かべながら、ベリシアは震える手でそれを受け取った。そして、自分の宝物を差し出す。

「わたしからは、この子を……。わたくしが寂しいとき、いつもそばにいてくれた大切な友達」

 それは、ベリシアが肌身離さず持っていた、少しくたびれて毛羽立った黒猫のぬいぐるみ「グリセルダ」だった。目はボタンで、耳は少し欠けている。決して豪華なものではないが、彼女の孤独を癒やしてくれた唯一の存在だった。

「ありがとう、ベリシア。大切にするわ。私、グリセルダを見たら、いつもベリシアを思い出すね。だから、貴女も、この種を見たら、私のことを思い出してね。約束よ」

「約束する! 必ず、また会いに来るから!」

 幼い二人は、固く約束を交わした。その瞬間、世界樹の広場は、希望の光に満ちていた。二人の手は、未来への再会を誓い、しっかりと握り合わされていた。

 ――記憶は、そこで途切れた。

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