(30) ミルザ様……ご無事です……!
背後ではリィゼルの身体を包む精霊の光が激しく明滅していた。集中力は限界に近いはずだ。だが、アノンの精神防壁はそれ以上に強固だった。
「くそっ……! まだ邪魔をするか……! 我は……この回廊の全て……!」
狂ったような叫びと共に根が暴れだす。空間の歪みはさらに増し、大地に亀裂が走った。天井からは蛇のような巨大な根が襲いかかる。
「ちぃっ!」
舌打ちしながら、エクス=ルミナを振るう。聖剣の光が闇を切り裂き、根を斬り裂いたが、勢いは止まらない。怒りが回廊全体に染み渡っていた。
『アイザワ! 奴の力がさらに増している! このままでは結界がもたん!』
エクス=ルミナの焦りが伝わってくる。だが、怯むわけにはいかない。
ベリシアの展開する結界が、きしむ音を立てていた。華奢な体に秘められた魔力は計り知れず、視線は一点を射抜いて微動だにしない。顔色は青ざめていたが、そこに諦めの影は見えなかった。撤退も選べる立場でありながら、彼女はただ黙々と防衛に徹していた。
カルナスは、汗に濡れた精悍な顔で剣を振るう。精霊の加護を宿す剣が、黒根の使徒を迎え撃っていた。左目の紋様が点滅し、傷を受けた身体をものともせず、果敢に前線を維持する。
ミルティナスは切れ長の視線を研ぎ澄ませ、淡々と結界術を継続する。魔力の余波で逆立つ金髪が、状況の過酷さを物語っていた。直接の戦闘には不向きでも、その知識と判断力が防衛線を完璧に補っている。カルナスたちの動きを的確に支えていた。
ラズは苦悶の表情を浮かべながらも、神聖魔法と暗黒魔法を交互に放つ。赤く輝く視線には強い意志が宿り、彼女の内に眠る魔獣たち――ワイバーン、ケルベロス、ミノタウロス、フェンリルが咆哮と共に次々と召喚され、敵へ突撃していく。
咆哮を上げながら、空間操作魔法で距離を詰める。半霊体の相手に通常攻撃は通じないが、魔王としての力ならば干渉できるはずだ。視界の端で髪が逆立ち、鋭く研ぎ澄まされた視線に熱が宿る。
「《闇縛鎖》!」
放たれた漆黒の鎖がアノンを絡め取ろうと迫るが、空間の歪みによって弾かれ、軌道を逸らされる。
「無駄です! 我は、貴殿のような矮小な存在の魔法など、受け付けはしない!」
冷ややかな声が響く。だが、諦めない。打開の鍵は、アノンの「全能感」を打ち砕くこと。その肉体だけでなく、精神までも――。
身体に残った魔力を総動員した。エクス=ルミナの聖の力と俺の魔の力を混合させる。
聖剣を振るい、再び突撃した。光と闇の軌跡が弧を描き、敵を貫く。
「|聖魔穿つ終焉の一撃≪ディヴァイン・デマイズ・アポカリプス》!」
聖なる力と魔の力が融合した斬撃が、アノンの胸部を深く裂いた。赤黒い液体が宙に舞い、苦悶の叫びが響く。
「ぐおあああ……! この痛みは……なぜだ……! 我は全知全能のはず……!」
アノンがよろめく。確かな手応え。しかし、傷口はすぐに闇の根で覆われ、再生が始まる。その速度は異常だった。
「はぁ……はぁ……」
荒れた呼吸。これほど魔力を消耗したのは久しぶりだった。身体が重い。だが、止まるわけにはいかない。
『アイザワ! 奴の再生が早すぎる! このままでは、リィゼルの力が間に合わん!』
エクス=ルミナが切迫した声を上げる。
アノンの視線に、再び狂気が宿る。根と融合し、回廊そのものと同化しようとしていた。
「フフフ……もはや、手遅れです。もうすぐ世界樹のすべてが、我が一部となる。ミルザも、永遠に我と共に……」
反響する声と共に、大地が震え、天井から巨大な根が降り注ぐ。仲間たちの防衛線が押し潰されかけていた。
「くそっ……!」
歯を食いしばる。アノンの力は予想を超えていた。まだ、終わらせるわけにはいかない。
蠢く地が、根が、剣戟が、すべてが轟音を響かせる。
そこに――。
小さな、しかし力強い声が届いた。
「ミルザ様……貴女は、独りではないのです……!」
リィゼルから放たれる光が、鮮やかさを増していく。希望の輝きか、それとも命の灯火か――ただ、見つめることしかできなかった。巨大な根が、彼女をめがけて振り下ろされる。
その瞬間、翠の瞳が見開かれた。そこに強い覚悟が宿る。銀髪が逆立ち、彼女を中心に精霊の嵐が巻き起こった。
「今……断ち切ります……!」
決意の声が回廊に響き、解き放たれた力が黒根の猛攻を押し返す。
シルフィード、ウンディーネ、サラマンダー、ノーム、四大精霊だけではなく、ドライアドやシェイド、クロノスまでも。
いくつもの精霊が、豪流となって嵐を起こす。
アノンの半霊体が明滅し、ミルザの精神が解放されていく。
「ぐああああああああ!!」
絶叫が空間を震わせた。
アノンと世界樹を繋ぐ巨大な根が見る間に萎れ、アノンの身体が風に吹かれる砂のように形を崩す。
ミルザを捕らえていた根が完全に力を失い、音を立てて床に崩れ落ちた。カルナスたちが駆け寄り、ミルティが脈を確認する。
「ミルザ様……ご無事です……!」
安堵がにじむ声が漏れる。だが、根の残骸が地に吸い込まれていく光景に、胸の奥に重い不安が広がった。アノンの精神は、まだどこかに潜んでいる――。
「いや、まだ安心するな……!」
悔しさがこみ上げる。ミルザの奪還には成功した。しかし、暴走するヤツの精神体が世界樹と完全に融合しかけている。回廊は崩壊の兆しを見せていた。
ベリシアはわずかに焦燥をにじませ、崩壊を止める術を懸命に探っていた。仲間たちも全力を尽くすものの、状況は絶望的だ。リィゼルもまた、疲労に顔を曇らせていた。
リィゼルは安堵と疲労に顔を曇らせる。
「ミルザ様は……! 肉体は無事ですが……精神は……。おそらく、まだアノンに……!」
か細い声が震える。