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(29) とても……苦しんでおられます

 サーヴァの広場に、同じようにアノンが立ちはだかっていた。

 ミルザの身体も相変わらず黒い根に囚われたままだ。その姿を見るたび、胸の奥で複雑な感情が渦巻く。救わねばという使命感と、目の前の敵への強い警戒心が交錯する。

 鼻腔を突くのは、瘴気に満ちた世界樹の甘く腐った匂い。すでにここが命の輝きを失いつつある場所であることを、嫌でも実感させられる。視界の端では、カルナスが無言で剣の柄を握りしめ、ミルティナスは青光を宿す鋭い眼差しを向けていた。ベリシアは冷静な表情のままだが、その瞼の奥に宿る覚悟は隠せない。リィゼルは悲痛な気配に耐え、白い巫女服の袖を強く握りしめている。

「よくぞ、この場まで辿り着かれました」

 アノンの声が、どこからともなく響いた。姿は朧げな半霊体。全身を覆う闇色のローブの合間から、世界樹の根が脈打つようにうごめいている。顔の輪郭は曖昧で判然としないが、その奥に浮かぶ赤い光に、かつてのミルザの面影が残っていた。だが、笑みは狂気に染まり、見る者を戦慄させるほどの陶酔に歪んでいる。

「何度来ても無駄ですよ。我はすでに、この世界樹そのもの。万象すべてを掌握し、過去も未来も、この手の中にあります」

 その宣告と同時に空間が軋む。アノンがわずかに意識を向けただけで、足元の大地が裂け、虚空から黒い根が鞭となり飛び出した。これが《根侵》か。黒根の使徒――かつての黒エルフの成れの果て。腐敗に呑まれた半人半樹の異形が、唸りを上げて姿を現す。

「……ずいぶん自信満々のようだな、アノン」

 静かに応じる。声は魔王ゼルヴァとしてのそれ。

「だが、その過信こそが最大の隙。お前の“全知全能”が幻であることを、今ここで証明してやる」

 アノンの気配が揺れるたび、胸の内に深紅の光が灯る。

 言葉を交わさずとも、ベリシアがすでに動いていた。銀髪が揺れ、紫紺の瞳に決意が宿る。

「第一段階、空間防御結界、展開。精神干渉障壁、起動!」

 細い指先から魔法陣が編まれ、透明な結界が空間を包み込む。歪みがわずかに制御されるが、アノンの力は強大だ。結界は軋む音を立て、今にも崩れそうだった。彼女の額に汗が浮かぶが、表情は揺るがない。

 カルナスも抜刀していた。鋭い横顔に迷いはなく、琥珀色の眼差しには精霊の紋が灯り、緑の光が瞬く。

「遅れは取らぬ!」

 雄叫びと共に剣を振るい、使徒の核を正確に撃ち抜く。深い緑の短髪が動きに合わせて舞い、瞬時に一体を無力化。だが敵は、次から次へと現れる。

 ミルティも素早く結界術を展開。

「後衛はお任せください!」

 金色の髪が空色の魔法陣に照らされ、小さな結界がいくつも浮かび上がる。経験に裏打ちされた防御魔法が、仲間の隙を巧みに補っていく。額には血が滲み、魔力の酷使が明らかだったが、空を映すような瞳には確かな意志が宿っていた。

 ラズもケープを翻し、鋭い視線に決意を宿す。

「みなをお守りいたします!」

 片手を掲げ、神聖魔法と暗黒魔法を同時に紡ぐ。漆黒の空間から現れたワイバーンとケルベロスが、唸り声と共に使徒へ襲いかかる。魔獣たちが敵を引き受け、進路を切り拓いていく。

 リィゼルの顔色は、瘴気とミルザの苦痛にさらされ、青ざめていた。それでも、透き通るような翠の視線は、深い集中に包まれている。

「今、精霊たちと共に、ミルザ様の意識の深層へと……」

 銀髪がゆるやかに揺れ、小さな精霊たちが彼女の周囲に集う。これが《真巫聴》。この作戦の鍵を握る彼女の役目に、心の中で強く願う。

(頼む……リィゼル。ミルザを……)

「くたばれ! 魔族の分際で、我の領域に踏み入るとは!」

 アノンの怒声と同時に空間が激しく揺れる。天井や壁から噴き出す黒い根が、こちらを包囲してくる。物理攻撃が通じにくい半霊体――それより恐ろしいのは、空間そのものを操る力だった。

「チッ……!」

 舌打ちし、エクス=ルミナを構える。刀身が青白い光を放つ。

『アイザワ! 油断するな! 奴の空間歪曲は、魔法か我が力でしか相殺できん!』

 剣が脳裏に直接語りかけてくる。傲慢な相棒だが、この局面では頼れる存在だ。空間操作魔法を起動し、アノンの歪みを相殺する。しかし完全には打ち消せない。世界樹と融合したアノンの力は、あまりにも強大だった。

 足元に隆起した根を斬り払う。剣の魔を断つ力が、半霊体の根にもわずかに届く。切断された根からは黒い液が滲み、鼻を突く悪臭が立ちこめた。

 リィゼルが苦悶の表情を浮かべていた。

「――ミルザ様は……とても……苦しんでおられます……孤独だと……誰にも理解されない……ずっと一人だったと……!」

 震える声が空間に広がる。利用されるだけでなく、深い孤独を抱えていた――その事実に胸が締め付けられる。

「フフフ……そうですよ、そうです、ミルザは孤独でした。その寂しさに付け込んだのは我ではございません。――高慢なエルフどもが、この偉大なる世界樹を道具として扱ったからです! その孤独こそが、我とミルザを繋ぐ、最高の絆でございます!」

 アノンの言葉が、融合したミルザの声をもって響く。おかしい――彼の精神は、ミルザの孤独と憎しみに侵されているのか……。

「黙れ! お前もミルザを道具として利用しているだけだ!」

 怒りに任せて叫ぶ。これは偽らざる、本心からの怒声。

「なにをっ!」

 アノンは激昂し、空間をさらに歪ませた。回廊全体が唸り声を上げ、壁や天井から無数の黒根が蠢き暴れまわる。

「違う……違う! 我は世界樹の新たな法則! 全てを取り込み、誰も孤独ではなくなる! 全てが我の一部となるのだ!」

 声が甲高く響き渡る。全能感に裏打ちされた狂気。世界樹と回廊に存在するすべてを取り込もうとするその思想は、まさに「秩序なき進化」の暴走。巻き込まれるわけにはいかない。

 俺は唇を引き結び、内側で静かに闘志を燃やした。

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