(1)転生して魔王になりました。
光と轟音――それが、俺の最後の記憶だ。
まだ暗い早朝のビル街、徹夜明けの体は鉛のように重く、視界もぼやけていた。息を吐くと白く、それはすぐに空気に溶けた。
残業明け。とにかく帰って寝たい。ただ、それだけだった。
静かなオフィス街を、足元を照らす街灯に導かれるままに歩いていたとき――
光。叫び。ブレーキ音。
反射的に顔を上げると、交差点を曲がってきたトラックが猛スピードでこちらへ突っ込んでいた。進路の先に、小さな人影。女子高生くらいだろうか。俯きがちに歩いている。
動かない。
「――きゃっ!」
鋭い悲鳴に、体が先に動いていた。
……助けないと、後悔する!
そう思ったというより、もう走っていた。
重いはずの脚が信じられないほど軽く、地面を蹴った。風を切り、ただ一直線に彼女を目指す。
――間に合え。
あと数歩。手を伸ばし、背中を突き飛ばす。
少女の体が宙に浮き、車道の外へ弾かれた。
それを見届けた瞬間、
俺の世界に、轟音と衝撃が叩きつけられた。
熱い。痛い。でも、もうどうでもよかった。
体が、感覚が、バラバラになっていく。意識が遠のくのと同時に、肉体から何かが剥がれていくような奇妙な心地に包まれる。
痛みも、思考も、全てが曖昧になり、ただ温かい、しかし抗えない大きな流れの中に自分がいるのを感じる。
光の粒になって、宙に漂うような浮遊感。それは、どこか遠く、満ちた場所へ、俺の魂を強く引き寄せていく。
抗う術もなく、その流れに身を任せる。
どこへ行くのかは、分からない。けれど……人を助けたんだ。後悔は、してない。
そんな、最後の思考が、闇の中に溶けていった。
意識が崩れ落ちていく。音も、光も、すべてが闇へと沈んでいった。
そして。
――その闇の底に、光があった。
* * *
ぼんやりと意識が浮上する。
ここは……どこだ? 重かった体が嘘みたいに軽い。
いや、軽いというより、自身の体ではないような、馴染みのない感覚だ。
まぶたを開くと、石造りの天井が見えた。豪華絢爛な装飾が施されたそれは、どう見ても俺が住んでいたアパートの天井じゃない。まるで中世の城のような一室だ。
混乱が、ゆっくりと脳を支配していく。
「陛下! お目覚めになられたのですね!」
声がした方を見る。
そこには、見知らぬ二人の人物がいた。一人は銀色の長い髪の若い女性。白く知的で端整な顔立ちだが、どこか感情の読めない表情で俺を見つめている。もう一人は、ローブを纏った――骸骨……だ? 額に漆黒の石が埋め込まれていて、暗い紫の光を宿した眼窩が俺を捉えている。
「……ここは……どこ……です?」
かすれた声で尋ねた。自分の声なのに、なぜか、いつもより低い。
「ここは魔王城、陛下の私室でございます」
銀髪の女性が、恭しく答えた。魔王城? 陛下? 何を言っているんだ、この人たちは。頭の中で情報が整理できない。混乱したまま、もう一人の骸骨に視線を移す。そのローブの裾から、微かに黒紫の瘴気のようなものが揺らいで見えた気がしたが、すぐに意識の外に追いやられた。それよりも、目の前の現実が理解できなかった。
「あなたたちは、……誰だ? 俺は、確か……トラックに轢かれて……」
「ダルヴァン殿、秘術は成功した――の、ですね?」
俺の言葉を遮り、銀髪の女性が興奮した声で骸骨――ダルヴァンとやらに話しかけた。
「フフフ……ああ、確かに成功したようだ。魂の符号も十億分の一の精度で一致……間違いない」
ダルヴァンと呼ばれた骸骨が、妖しく輝く眼窩を細めて呟く。秘術? 魂の符号? 彼らの会話を聞くほどに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。――ある恐ろしい可能性が脳裏をよぎった。
寝台から身を起こした。
隅に控えていた、助手らしい女性が、俺を支えてくれる。
自分の手を見た。白い、見慣れない指だ。筋肉質な、しかし自分の記憶にある細腕とは全く違うものだ。足も身に覚えのない足。
これは、なんだ? 俺の体じゃない。
彼らが、俺を誰かと間違えている?
いや、陛下一と呼ばれた。魔王城、秘術……まさか?
「俺が……魔王、だと?」
口から漏れたのは、自分でも信じられない言葉だった。全身を悪寒が駆け巡る。目の前の二人は、俺の問いに答える代わりに、安堵したような、あるいは歓喜したような表情を浮かべていた。
「はい、陛下――魔王ゼルヴァ=レグナス=ノクス様。このベリシア、再び貴方様にお仕えできること、心より光栄に存じます」
銀髪の女性――ベリシアが、再び恭しく頭を垂れた。ダルヴァンと呼ばれた骸骨は、何も言わずただ静かにこちらを見ている。しかし、その紫の光には、確かに新たな魔王への期待のようなものが宿っているように見えた。
魔王。異世界。そのうえ、この体。全てが、現実離れしていた。トラックに轢かれて死んだはずの俺が、なぜここに? なぜ、魔王の体の中に? 頭が割れそうだった。
試しに、と全身に意識を集中させる。すると、体の奥底から湧き上がってくる、禍々しいほどの力が感じ取れた。
この力も、俺のものではない。
「待ってくれ! あんたたち、何か勘違いしてないか!?」
混乱のまま、声を張り上げた。
「俺は魔王じゃない! 相沢直人だ! 日本人で、……ただの人間だったんだ!」
故郷の名前を口にした瞬間、ベリシアの表情が凍り付いた。ダルヴァンの眼窩の光も、僅かに揺らぐ。彼らが期待していた反応ではないことを、本能的に悟った。
「……アイザワ……ナオト? 人間……だと?」
ベリシアが戸惑った声で呟く。その様子を見て、ダルヴァンが一歩前に出た。妖しく輝く紫の光が、俺の全身を値踏みするようになぞる。
「フム……? 確かに、魂の波動が……いや、しかし魂の符号は完全に一致していたはず。それこそ奇跡的に……」
ブツブツと、理解不能な言葉を呟いている。その声には明らかに困惑の色が混じっていた。
「ダルヴァン殿、まさか……」
ベリシアが、恐る恐るダルヴァンに問いかける。ダルヴァンは沈黙し、しばらく俺を観察した後、ゆっくりと首肯した。ローブの隙間から漏れる瘴気が、僅かに濃くなって見えたのは気のせいか。
「……ああ。この魂は、我々が求めたものではない。魂の選別において、何らかのイレギュラーが発生したらしい」
「そんな、秘術が失敗、と……?」
「失敗ではない。肉体は完全に復活し、魂も定着した。ただ、定着した魂が、我々が呼び戻そうとしたゼルヴァ=レグナス=ノクスの魂ではなかった、それだけだ」
ダルヴァンの言葉に、ベリシアが絶望したような顔になる。その言葉は、俺自身の状況も明確に示していた。俺は、魔王の体に入ってしまった、全くの別世界の人間だ。
俺じゃない? 十億分の一の魂の一致? イレギュラー?
つまり、俺は、たまたま魂の符号が一致したせいで、死んだと思ったら異世界の魔王の体に勝手に転生してしまった、ということなのか?
あまりにも、現実離れした話だ。だが、目の前の状況は、それを否定する要素が何一つなかった。魔王城、魔族らしき二人の部下と、この異様な体。
俺は、本当に魔王に、なってしまったらしい
意図せず、望みもしない形で。