藁にもすがる夜に
朝、ロッカールームで制服に着替えていると、同じ時間に出勤してきた井川さんと一緒になった。
年齢も近くて、レジパートとしての勤続年数もほぼ同じ。
特別に仲がいいというわけではないけれど、なぜか気を許せる相手だった。
「最近さ…なんかもう、すぐイライラしちゃってさ」
自分でも驚くほど、あっさりと本音が口から漏れた。
井川さんは、ちょっと目を丸くしてから、すぐに頷いた。
「ああ、それ、めっちゃわかります〜。私もですよ、朝からだるいし、気分の波が激しくて」
「そうなのよ、そうなの。なんか、コントロールできないんだよね」
「そうそう! わかります、もう、誰かに聞いてほしかったくらいで」
笑いながら言い合っているうちに、心の重たさが少しずつ溶けていくような気がした。
(ああ、私だけじゃないんだ)
たったそれだけのことで、どれだけ救われるんだろう。
午前の仕事が一段落し、バックヤードに戻る途中、店内の健康食品コーナーの前を通った。
ふと目に入ったのは、「女性のリズムをサポート」「リラックスタイムに」と書かれたハーブティーの棚。
(……はあ、こんなのでほんとに変わるのかな)
そう思いながらも、足は自然と止まっていた。
袋を手に取って裏面を見る。「カモミール」「レモンバーム」「セントジョーンズワート」
(どれも聞いたことはあるけど…)
レジに並びながら、自分で苦笑いする。
(ほんと、藁にもすがる思いってこういうことか)
財布から小銭を取り出しながら、どこかで「これで少しでも落ち着けたらいいな」と思っていた。
夕方、台所に立ち、煮物の味を見ながら湯を沸かしていた。
買ったばかりのハーブティーの袋を開けると、ふんわりと草のような香りが広がる。
(こんなの、気休めだってわかってる。でも、何かにすがりたいのよ)
湯気の立つカップを手に、ひと息ついたそのとき——
「ただいま〜」と、息子の声が響いた。
「おかえり、卓也。早かったじゃん」
「うん、明日の電車混みそうだからさ、今日のうちに」
「ゆっくりしてってね。夕飯は…ちょっと頑張るわ」
一人暮らししている息子の卓也が久しぶりに帰ってきた。
そこへ、玄関がバタンと開いた。
「おう、寒い寒い。腹減ったー」
浩二が、コートを脱ぎながら声を張った。
「おかえり」
「メシ、できてんの?」
「……今、作ってるとこ」
「ったく、毎日同じこと言わせんなよ。俺だって働いて帰ってきてんだぞ」
その言い方に、胸の奥がざらっと逆なでした。
「私だって、仕事して帰ってきてるんだけど」
「は? お前のはパートだろ。たいしたことしてないくせに、疲れた顔ばっかして」
「……なによ、それ。じゃあ、たいしたことしてない人間は疲れちゃいけないの?」
「言ってねーだろ、そんなこと!」
「言ってるじゃない!」
ハーブティーのカップが小さく揺れた。
自分の手が震えているのに気づく。
(まただ…またこうやって言い争いになる)
「母さん、落ち着いて」
卓也の声が割って入る。
「父さんもさ、そういう言い方やめなよ。母さん、明らかに疲れてるじゃん」
「俺は事実を言ってるだけだ」
「それが問題なんだよ。“どうした?”って、ひと言聞けばいいだけなのに、なんで突き放すの?」
浩二が黙る。
卓也が、いつのまにか成長していることに、光希は驚きと感謝が入り混じった気持ちになる。
「母さん、今日、仕事終わりにハーブティー買ってきたんだよね?」
「うん……ちょっと、気分が落ち着くって書いてあって」
「俺も飲んでみていい?」
「え? いいけど、あんた、そういうの興味ないでしょ」
「母さんが飲んでるから、なんとなく飲んでみたくなった」
そう言って笑う息子の顔に、救われた気がした。
たとえ夫にわかってもらえなくても、自分をちゃんと見てくれる存在がいる。
その事実が、なによりも心に沁みた。
「……ちょっと草っぽいけど、悪くないね」
「でしょ。おいしいってほどじゃないけど、落ち着く感じするよね」
「母さん、がんばってるね」
そう言いながら、光希は笑おうとした。けれど、その頬を、涙が一筋、伝った。
「あれ……?」
卓也が気づいて、のぞき込む。
「どうしたの、母さん?」
光希は首を横に振った。
言葉にならない。
止めようとしても、ポロポロとこぼれる涙は止まらなかった。
苦しくて、寂しくて、悔しくて、それでも毎日をこなしてきた。
誰にも迷惑かけたくなくて、当たり前のようにがんばってきた。
けれど——
「がんばってるね」のひと言が、こんなにも沁みるなんて。
「母さん」
卓也は、優しくティッシュを渡してくれた。
そして、そっと隣に座り、静かに言った。
「……がんばりすぎなくて、いいからね」
その言葉に、また新しい涙があふれた。
返事なんてできなかった。ただ、ただ泣いた。
安心したような、ほぐれていくような涙だった。
すぐに答えなんて出ない。
でも、少しだけ楽になる瞬間はある。
その一杯と、ひと言に、今日も救われた。