わかってるよ、わかってるけど
自宅へ戻った光希は、急いでエプロンをかぶり、キッチンに立った。
鶏肉、玉ねぎ、ピーマン。冷蔵庫から適当に食材を取り出してまな板に置く。
何かをしていなければ、また考え込んでしまいそうで――。
でも、包丁を握ったまま、手が止まった。
ズドーン。
胸の奥に、鉛のような重さが広がっていく。
また今日も、ダメだった。
自分がどんどん嫌いになっていく。
「ただいま」
浩二が帰ってきた。玄関で靴を脱ぎながら、いつものように声をかける。
光希は、何も言わなかった。
「……なに? また調子悪いのか?」
リビングから顔を覗かせた浩二が言う。
光希は黙って、ピーマンの種を取っていた。
その手元に、浩二がにじり寄ってくる。
「おい、光希」
「……なに」
「いや、なんか朝も機嫌悪そうだったし、今も返事ないし……」
「べつに。機嫌悪くなんかないよ」
「いや、どう見ても悪いだろ。こっちが気をつかうわ」
浩二の声が、少しだけ刺々しくなる。
「……」
「なに怒ってんの? こっちは仕事してきて、帰ってきたばっかなんだけど?」
その言葉に、光希の中の何かがカチッと音を立てて外れた。
「怒ってなんかないって言ってるでしょ」
静かに、けれど、はっきりと。
「いやいや、十分怒ってるようにしか見えないって。
勝手にイライラして、勝手に落ち込んで……こっちはどうすればいいんだよ」
「……そうやって、またそうやって。私の気持ちなんか何も考えないで」
「だったら言えよ。何考えてるのか、こっちにはわかんねぇよ。
ずっと黙ってて、勝手に落ち込まれても困るって」
「……言ったって、どうせ“それ病気じゃないだろ”って返してくるくせに」
浩二は、ぐっと言葉を飲み込んだようだった。
キッチンに沈黙が降りた。
炒めかけの玉ねぎの香りだけが、むなしく漂う。
光希はゆっくりとコンロの火を止め、エプロンを外した。
「もういい」
そう言って、寝室へと向かう。扉の閉まる音が、いつもより大きく響いた。
寝室のベッドに腰を下ろし、ぽつんと天井を見つめた。
涙は出なかった。ただ、胸の中にずっと、鉛のような塊がある気がしていた。
(なんでこうなるんだろう)
怒ってるつもりじゃなかったのに。
ただ、つらくて、苦しくて、言葉にできなかっただけなのに。
――トントントン。
キッチンから、包丁の音がかすかに聞こえた。
あれ? と思い、そっと立ち上がる。
リビングに戻ると、浩二がフライパンを手に、もやしと鶏肉を炒めていた。
「……あ、戻ったの?」
「……うん」
浩二は振り返らず、少し照れくさそうに言った。
「途中だったし、もったいないから。味付け、適当だけど」
光希は黙って、椅子に座った。
テーブルの上に、出来上がった皿が置かれる。
湯気が立ち上り、食欲が少しだけ戻ってきた。
「いただきます」
小さく呟き、一口運ぶ。
……ちゃんと、おいしい。
「ありがとね」
その言葉は、素直に出てきた。
夕食を終え、お風呂に入ると、少しだけ体が軽くなった気がした。
髪を乾かし、パジャマに着替え、ベッドにもぐりこむ。
スマホを手に取り、「更年期 症状 緩和」と検索する。
たくさんの記事、たくさんの意見があふれていた。
「バランスの良い食事」「適度な運動」「ストレスをためないように」
(そんなの、どうすりゃいいのよ)
ため息交じりに画面をスクロールしていくと、「ハーブティーでリラックス」という見出しが目に留まった。
ラベンダー、カモミール、レモンバーム。
画面をスクロールしていくと、「自分を労わることが大切です」「ポジティブな気持ちを意識して」
そんな文字が、次々と目に飛び込んできた。
「わかってるよ……わかってるけどさ」
布団の中でつぶやく。
スマホをぎゅっと握った手が、汗ばんでいた。
「劇的に改善できる方法、なにかないのっ!」
思わず声に出してしまった。
小さな寝室に響いた自分の声に、自分で驚いた。
何やってるんだろう、私。
せっかく夕食、ちゃんと食べられたのに。
浩二だって、何も言わずに作ってくれたのに。
なのに――。
「また……自己嫌悪か」
スマホを枕元に置く。
目を閉じても、胸の奥のもやもやはまだそこにいた。
でも。
それでも、明日、ハーブティーだけは買ってみようと思った。
誰にも言えないもやもやを抱えて、それでも日々をやり過ごす。
ちょっとした優しさが沁みる夜もあれば、自分に腹が立って眠れない夜もある。