だれにも褒められなくても
朝、職場に着いたときから、なんとなく気分が沈んでいた。
昨日は眠れなかった。暑くて寝汗をかいて何度も目が覚めたし、肩は凝ったままで重たい。
鏡に映った自分の顔は、むくんでぼんやりしていた。
ロッカールームで制服に着替える手にも、どこか力が入らない。
ただでさえ気分が落ちているのに、同僚からの声が追い打ちをかける。
「おはよう。今日、あの荷出しの当番、お願いできる?」
その一言に、反射的に言葉が刺さった。
「今言われても困るんだけど」
自分でもきつい言い方だと思った。けど、もう止まらなかった。
同僚はしばらく黙ったあと、少し呆れたような声で言った。
「……別にいいけど、最近ちょっと感じ悪いよ」
その言葉が頭の中で何度もリフレインしていた。
休憩に入るまでの間も、作業をしながらずっとその一言が心の中をぐるぐるまわっていた。
「感じ悪い」――そう思われるような態度をとった自分が情けなくて、でも、どうにもならなかった。
どうして、こんなに余裕がなくなってしまったんだろう。
(たぶん、更年期なんだと思う。でも、それってどこまでがそうなの?どこまでが自分の問題?)
腑に落ちない気持ちが、自分をさらに責め立てていく。
そして迎えた昼休み。
たまたま、久保さんと時間が重なった。
滅多に一緒にならない久保さんと、静かな休憩室で顔を合わせる。
「久しぶりですね、一緒になるの」
そう言って微笑んだ久保さんに、思わず言葉がこぼれた。
「……最近、たぶん更年期なんだと思います。イライラするし、ホットフラッシュもあるし、気分が沈んだり、肩こりや頭痛もずっとで……」
言葉にした途端、胸の奥のつっかえが少しだけ軽くなった気がした。
けれど、まだそれは心の中に残っている。
なにかが引っかかったままで――。
久保さんは、何かを思い出すように、優しく微笑んだ。
そして、ふたりの静かな会話が、ゆっくりと始まっていった。
「……私もね」
久保さんが、ぽつりと口を開いた。
「五十歳になる前くらいからかな。急に、何をしても楽しくなくなって、気分の浮き沈みもひどくてね。家族にも八つ当たりばかりしてた。そんな自分が嫌で、毎晩寝る前に反省して、でも朝になるとまた繰り返して……」
言いながら、久保さんは遠くを見るような目をした。
「それでも仕事には来なきゃいけないし、表では平気なふりをして。でもね、ある日、出勤前に味噌汁をぶちまけて、それ見て涙が止まらなくなって、床に座り込んじゃって。何が嫌ってわけじゃないけど、もう動けなかったの」
静かに語られるその情景に、胸が詰まる。
「夫に“そんなに辛いなら休めば”って言われたけど、それも嫌で。
私、家にいると余計ダメになる気がしたのよ。ここに来て、誰かと話してるほうが、なんとか人間でいられる気がしてさ」
久保さんは小さく笑った。
「でね、あるときふと思ったの。元気だった頃の自分と比べるの、やめようって。昨日よりひとつできたらOK、今日は遅刻しなかったからOK、そんなふうにハードルをぐっと下げて。…そしたらね、少しだけ呼吸が楽になったのよ」
光希は黙ってうなずいた。
うん、うん、と何度も。涙までは出なかったけれど、心のどこかで、ふっと何かが緩んだ気がした。
「……つい、この前も家でイライラして、夫に“なんでそんな言い方するんだ”って言われて。
言われた瞬間、自分が自分じゃないみたいで、すごく悲しくなったんです」
すると、久保さんが穏やかに言った。
「それでも、ちゃんとこうして出勤して、仕事して、誰かと話してる。それだけですごいことだよ。
誰も褒めてくれないかもしれないけど、自分で“よくやってるよ”って、言ってあげていいと思うよ」
久保のやさしい声が、静かに光希の胸に染み込んでいく。
まだ、すべてを受け入れられたわけじゃない。
身体の不調も、気分の波も、自分を責めてしまう癖も、そう簡単には消えてくれない。
けれど——
「……ありがとうございます」
ぽつりと出た言葉には、ほんの少し力が宿っていた。
久保は微笑んで、湯呑をそっとテーブルに置いた。
「お昼ってね、案外、大事な時間よ。心まで空っぽにできるから。光希さんも、せめてここでは、ゆるんでいいのよ」
光希は小さくうなずいた。
笑おうとしたわけじゃないのに、口元がふっと緩んだ。
(それでも……今日、ここに来てよかった)
休憩室の窓から差し込むやわらかな日差しが、光希の手の甲をあたたかく照らしていた。
午後の仕事が始まるまで、あと少しだけ——この穏やかな時間に、身を委ねていたいと思った。
午後の仕事が始まる。
レジに立ち、繰り返される会計と袋詰めの作業。
人の波が途切れず、次々と流れていく商品と声と、ポイントカード。
「すみません、やっぱりこれやめます」
そう言って商品を戻す客に、光希は笑顔を作ろうとした。
けれど、その笑顔はひきつっていた。
(なんで今…)
その瞬間、胸の奥にじわりと熱がこみあげる。
暑い。顔が一気に火照り、汗が背中を伝った。
空調は効いているはずなのに、自分だけ別の空気の中にいるような気がした。
イライラする。止められない。
自分が「感じの悪い店員」になっているのがわかる。
(ダメだ、また…)
ふと、昼休みに久保が言ってくれた言葉が頭をよぎる。
——「誰も褒めてくれないかもしれないけど、自分で“よくやってるよ”って言ってあげていいと思うよ」
(……そんなふうに思えない)
レジを打ちながら、もう一人の自分が心の奥で静かに言った。
「なんで、あんな言い方しちゃったんだろう」
「また、イライラして…また、嫌な顔してたかもしれない」
止めたいのに止められない感情。
そして、それを責める自分。
閉店のアナウンスが流れるころ、光希はようやく深いため息をついた。
今日も、誰にやさしくできたわけでもない。
何かを乗り越えたわけでもない。
むしろ、また落ち込んで終わった一日だった。
エプロンのポケットからタイムカードを出して打刻し、ロッカーへ向かう。
脱いだ制服の下に残る汗のにおいと、つかれた身体。
(……明日は、少しだけマシになってほしい)
そう願うしかないまま、光希の一日が静かに終わっていった。
イライラも、汗も、言葉にできない不調も、全部ひっくるめて「自分」。
それをわかっていても、なかなか許せない。
そんな日々の、ほんの少しの救いと、また繰り返す自己嫌悪。
でも、ふとした誰かの言葉が、胸の奥で灯ることもある。