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冬なのに汗が出る

ピッ…ピッ…ピッ…。


スキャナーの音が、店内の雑音に紛れて響く。外は真冬。けれど、光希の額にはじっとりと汗が浮かんでいた。


(また…来た)


背中から首筋、そして額へと、熱が一気に駆け上がっていく。顔だけがカッと熱くなって、目の奥がぼうっとする。レジの前には、マフラーを巻いた客。光希の額を一瞥し、不思議そうな顔をしていた。


「……お箸、おつけしますね」


笑顔をつくるつもりだったのに、口元が引きつる。制服の内側はもう汗でびっしょり。どれだけ冷暖房を調整しても、体は言うことを聞いてくれない。


「次のお客様どうぞー」


自動的に声を張る。いつも通りのふり。けれど、動くたびに汗が滲み、接客のたびに視線が刺さる。


(なんで…なんで私ばっかり)


自分でも理由がわからない苛立ちが、胸の奥で燻っていた。



家に帰ると、キッチンの照明だけが点いていた。夫の浩二は、リビングでスマホを見ながらソファに沈んでいる。


「おかえり」


その一言が、妙に薄く感じられた。


「……」


光希は無言で買い物袋を置き、コートを脱いだ。背中はまだじんわりと湿っている。熱が残っている気がした。


「なあ、夕飯まだ? 腹減った」


その何気ない言葉に、心の奥でピリッと音がした。


「……いま帰ってきたばっかりなんだけどっ!」


「だからって、そんな言い方しなくてもいいだろ。こっちだって仕事で疲れて帰ってきてるんだよ」


浩二の声が少し荒くなった。光希は思わず言い返したくなったが、口を閉じた。言葉が、出ない。


(ああ、もう、まただ)


夕方のスーパーでも、こうして家に帰っても、誰もわかってくれない――そう感じる瞬間。


「……うるさいな」


そのままトイレにこもった。


ドアを閉めて、鍵をかける。便座にもたれるように腰を下ろすと、ふうっと深いため息が漏れた。


(なんでこんなに…しんどいんだろう)


下着の背中はすでに湿っていた。脱ぎたくなる衝動を押さえながら、顔を両手で覆う。鏡に映る自分の顔を、今は見たくなかった。


5分、10分――どれくらい時間が経ったのか。


「……おい、光希。大丈夫か?」


ドアの外から、浩二の声。心配しているというより、少し苛立っているような声色。


「……」


返事をせずに、ゆっくりと立ち上がった。何ごともなかったようにドアを開ける。


廊下には、腕を組んだ浩二が立っていた。


「なにしてんだよ。さっきからイライラして。飯の支度もせずに…」


その一言に、張りつめていたものが切れた。


「……こっちだってね、ずっと我慢してたの! 汗が止まらないの、眠れないの、イライラも止められないの!」


声が震える。言いながら、もう涙が出そうだった。


「……更年期なのよ!!」


怒鳴った瞬間、浩二はほんの少し目を見開いて、けれどすぐに眉をひそめて言った。


「……それ、病気じゃないだろ?」


静かな、でも決定的な一言だった。


心臓の奥を、ぐっと握られたような痛み。


言葉が出ない。怒りとも、悲しみともつかない感情が、胸の奥で暴れ始めた。


(……この人には、何も伝わらない)



ゆっくりとキッチンへ向かった。


(……作らなきゃ、食べるものないし)


お腹は正直だった。空腹の感覚が、冷えた胃のあたりにじわりと広がっていく。


冷蔵庫を開けて、ありあわせの材料で簡単な夕飯を作った。いつもなら、浩二の好物を一品くらい足すのに、今日はそんな気になれなかった。


ふたりとも、何も言わなかった。テレビの音だけが、ぽつぽつと食卓を埋めた。


箸の動きだけが忙しい。会話もない。まるで、感情まで噛みしめるように、光希は食べた。


食べ終わると、食器を流しに運び、そのまま浴室へ。湯船に浸かる気にはなれず、シャワーで汗を流した。


髪を乾かし、パジャマに着替え、ようやく――ようやく、深く長いため息をひとつ、ついた。


(……疲れた)


何に疲れているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、頭の奥がずっと重く、体の芯がざわついていた。



光希はそっと寝室のドアを開けた。


浩二とは寝室が別になってもう何年にもなる。更年期が始まってから、夜中に何度も目が覚めてしまうようになり、気を遣ってそうしたのだ。最初は「そのほうが気楽でいい」とお互い言い合っていたけれど、気づけばもう、それが当たり前になっていた。


電気を消して、布団にもぐりこむ。


部屋は冷えていた。なのに、じっとりとした汗がまだ背中に残っている気がする。


天井を見上げて、目を閉じて、深く息を吐いた。


(なんであんな言い方しちゃったんだろう……)


(なんで、こんなことでイライラするんだろう)


(なんで、わかってくれないんだろう……)


頭の中を、ぐるぐると思考が回る。反省と怒りが交互に押し寄せて、どれが本当の自分の気持ちなのかも、わからない。


(私って……こんなにめんどくさい人間だった?)


(いや、前はもう少し穏やかだったはず……)


(壊れてる……私、壊れていってるのかもしれない)


枕に顔をうずめると、静かに涙がにじんだ。

真冬のレジ業務中、光希は止まらない汗に苦しむ。家に帰れば、疲れた夫とのすれ違い。苛立ちを抑えきれず、つい八つ当たりしてしまう。ひとり寝室に戻った光希は、自己嫌悪に沈みながら、「自分が壊れていく」不安と向き合う。

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