17. たかがキス、されどキス!乙女の純情!
わたしは抵抗できなかった。
しようとも、していなかった……。
わたしは、風上さんに心を許してしまっていたのだろうか。
そんなこと、あってはならないというのに。
風上さんは、妻子持ち。
わたしは、最低だ……。
風上さんが帰った後、わたしは、しばらく動けずにいた。
頭の中が真っ白で、何も考えられなかった……。
冷静さを取り戻した頃には、すっかり夜になっていた。
プライベートを本人に任せたらこれだ!! と、笹竹さんに怒鳴られるのではないかと思った。
いや、怒鳴られるとか、そういう問題ではない。
あの“不倫ランド”を現実にしてはダメなのだ。
飛鷹さんにも、釘を刺されてたのに。
風上さんは浮気者だと知っていたじゃないか。
きっと今日みたいに、どこでも、誰にでも……。
ねえ、「そらちゃんは子供みたいなもん」じゃなかったの?
もう、分かんないよ。
でも、ビジネスキスがファーストキスになるのは嫌だと言ったのはわたしだ。
してくれって、それは自分が言ってるじゃないか……。
違う。違うの。
わたしは、三栗屋さんに言ったの……。言いたかったの……。
バカバカ! わたしのバカ!
膝を抱えて、わたしは丸まった。
罪悪感に押し潰されそうだった。
ずっとスマホがブーブー言っている。
きっと、沢山の誕生日メッセージが届いているんだ。
ああ、返さなきゃ……。
やっと立ち上がった時には、夜9時を回っていた。
わたしはケーキしか食べていない。
でも、おなかはちっとも空かなかった。
ん? 不在着信……?
やっと見たスマホの画面には『三栗屋翔太』の文字があった。
み、三栗屋さん!?
それは一番来てほしい人からの連絡だった。
わたしが倒れている間に、電話が鳴っていたのだった。
バカ、なんで出なかったのよ!!
もう自分のすべてに嫌気がさす。
三栗屋さんからの着信って、そういえば初めてなのでは?
普段は、絵文字一つない業務連絡のメッセージしか来ない。
何かあった?
いや、わたしに伝えないといけない何かなんてあるはずがない。
絶対に来るはずがないと思っていた相手だけに、わたしの体は震えていた。
メッセージを順に開いていく。
そこには、爆エン! メンバーや、神谷さんからも、誕生日おめでとうのメッセージが届いていた。
あの笹竹さんからもだ。
あぁ、さっきまでの出来事は絶対に誰にも言えない……。
三栗屋さんからのメッセージは入ってなかった。
あぁ、こんな、不在着信だけを残して……。
「三栗屋さん……」
わたしはどうしたらいいかも分からず、とりあえずスタジオ内を片付けた。
こんな状態で、今日は曲作りなどできるはずがないからだ。
気付けば10時前だ。
再び着信が鳴った。
わたしは慌てて電話に出る。
「は、はい! 佐藤です!」
「よかった、出てくれて」
「み、三栗屋さん!?」
「そらちゃん、今から、会える?」
「へっ……!?」
電話は外からかけているようだった。
そして、三栗屋さんの息づかいからして、彼はおそらく走っている。
「あっ、会えますけど……、えっと、そのぉ……」
「今、そっち向かってるから!」
「!!」
わたしは頭の中が整理できず、ずっと困惑していた。
やがて、三栗屋さんが飛び込むようにスタジオにやって来た。
「ごめん、待たせてた?」
「え、あ、いや、そんなことは……」
三栗屋さんは、スタジオの時計に目をやった。
「よかった、まだ今日だ」
「え……?」
「0時過ぎたら、意味ないもんね? 仕事ですっかり遅くなっちゃったよ」
「へっ……」
「ほら、誕生日」
三栗屋さんは、そういうと笑った。
わたしは胸が締め付けられた。
く、苦しすぎる……。
「はい、これ、プレゼント」
三栗屋さんは、プレゼントをわたしの前に差し出した。
これまでの誕生日、三栗屋さんがこんな形で、ちゃんとしたプレゼントをくれたことはなかっただけに、わたしの受け取った手は震えていた。
わたしは包みを剥がし、お高そうなケースを開け、息を呑んだ。
「正直、何が正解か分からなかったんだけどさ」
三栗屋さんが、わたしの表情をうかがっている。
彼がくれたのは、真珠のネックレスだった。
「こ、こんな高いもの!!」
「見た目よりそこまで高くないから」
「いや、でも……!」
「ほら、ネックレスとか宝石とか全然持ってないって言ってたし、大人になったらひとつくらいあった方がいいのかなって思って?」
「あ、ありがとうございます」
わたしは、すべてに驚いていた。
三栗屋さんは、ネックレスをくれるようなキャラじゃない。
誕生日に、お菓子を「ほいっ」と、そっけなくくれるような人だ。
大人……。
わたしは子供ではなく、今、あなたの目に大人として映ってるの?
「それ、誰かに貰ったの?」
「へっ?」
わたしの首には、指輪のネックレスがついていた。
「あ、いや、これは、ちが……!!」
わたしは慌てて外そうとし、もたついた。
おおよそ見当はついている。
三栗屋さんは、そんな顔をしている気がした。
わたしのバカ!
「代わりに、つける?」
三栗屋さんは、慣れない手つきで、真珠のネックレスをわたしにぎこちなくつけてくれた。
自分の鼓動が、聴こえてるのではないかと心配になった。
わたしは鏡の前で自分の姿を見ると、三栗屋さんの方を振り返り、再びお礼を言った。
「ありがとうございます!」
「おいで」
三栗屋さんの低音が、わたしの鼓膜に響く。
言われるがまま、わたしは三栗屋さんの前に行った。
「似合ってる」
三栗屋さんが、わたしを見つめ微笑んだ。
わたしは、三栗屋さんの前でくるりと回って見せた。
「わっ!」
「危なっ!!」
わたしは足がもつれ、気付けば、彼に支えられていた。
「す、すみません……!」
顔が近い。
慌てて離れようとしたが、彼はわたしをグイッと引き寄せる。
へっ……!?
「ホントはさ、ここまでにしとくべきなんだろうけど」
「!?」
「今日だけ……な?」
彼は、そのまま、わたしにキスをした。
部屋に戻り、わたしは窓を開けた。
秋の虫の音が聴こえる。
月がすべてを見透かしたように、こちらを見ている。
わたしは、一体何をしてるのだろう。何を望んでいたのだろう。
キスしてしまった。
でも、ファーストキスは……。
もし、風上さんが今独身だったら?
三栗屋さんより先に、彼に出逢っていたら?
ねぇ、わたしは、どうしてた?
ただの下心で、遊びだったとしても、風上さんの普段から見せるその優しさに、心を奪われてないとは言えなかった。
三栗屋さんは、真逆で、感情が読めない人だ。
いつも何を考えているのか、わたしのことをどう思っているのか、全然分からない。
でも、時折見せる、さりげない優しさに惹かれていた。
あと10年早く生まれていて、あなたと同じくらいの歳だったら、また世界は違ったのだろうか?
もっと対等につり合っていて、恋人にでもなれたのだろうか?
コスモスの花言葉は、乙女の純情。
この季節にぴったりだった。
わたしの心は、三栗屋さんにも、風上さんにも揺れている。
月明かりが、罪なわたしを照らした。
× × ×
「本番、はい、よーい、スタート!」
わたしは泣き腫らした顔で、すっぴんのまま、ゴミを捨てるために外に出た。
太陽は、わたしには眩しすぎた。
ネットをかけられた、このゴミの方がお似合いだ。
背後から、近づくバイク音。
わたしは、振り返る。
そこには、バイクを走らせるライダーの姿があった。
バイクは、わたしの前で止まる。
「え……?」
フルフェイスのその男は、ヘルメットを取ると、こちらを見た。
「水無瀬君……!」
「変身! トゥーー!!」
わたしの目の前で、戦隊もののヒーローが変身した。
「迎えに来たぜ!」
「えっ?」
「最初に乗せるって約束したろ? 俺はついに本物のライダーになったんだ!」
彼はご機嫌で、少年の頃と変わらず、無邪気だった。
「彼女は?」
「彼女? なんだよそれ?」
「え?」
水無瀬君に彼女はいなかった。
あれはわたしの勘違い。
でも、彼を振り向かせたい女性は沢山いる。
「何かあった?」
また、こんな酷い顔を見られてしまった。
ああ、嫌われちゃう。
わたしはその場から逃げ出そうとした。
彼はわたしの腕を掴むと、強引に引き止めた。
「追いかけて来たんだから、もうどっか行くなよ」
「だって……。わたしは、こんなダメなとこばっかり、水無瀬君に見せて……。もっと強くならなくちゃ……」
やっと止めたはずの涙が、また溢れてくる。
「見せちゃいけないの?」
「へっ……」
「もう、俺のそばを離れんなよ!」
彼は、わたしを強く抱きしめた。
わたしの手から、ゴミ袋が滑り落ちる。
彼はそのまま、わたしに優しくキスをした。
Fin
× × ×
「さっきの、ファーストキスじゃなかったよね?」
「へっ?」
撮影を終え、神谷さんからの衝撃の一言だった。
「どうでしょう……」
「やることはやってんでしょ?」
「!」
「なんてね? 初めてだったら、それはそれで嬉しいんだけど」
「!!」
「だって、このまま付き合っちゃえば、これが、素敵なファーストキスに変わるでしょ?」
「!!!」
「で、考えてくれた?」
「へっ……」
「忘れてないでしょ? 付き合うって話」
「それは……」
「冗談だと思ってた?」
「いや、そんなことは……」
忘れていたわけではない。
むしろ、わたしの脳内を圧迫するように、いつもわたしの頭の中にあった。
あの日からずっと……。
いや、更にその後、いろいろあり過ぎて、ぶっ飛んでいたかもしれない。
神谷さんは、優しくて素敵な人だ。
誰もが憧れる人だ。
ドラマの中でも、この現実世界でも。
告白されて嬉しくない人なんていない。
なのに、このキスシーンがファーストキスなのは嫌だなんて、わたしは口にした。
でも、それが、答えだったのかもしれない。
「ごめんなさい。付き合うのは、橋本そらだけにしておく」
「そっか……。まさか、振られるとはね。結構優良物件だったと思うけど?」
「すみません……」
神谷さんは、少し残念そうな顔をした。
でも、想定内としていたようなリアクションにも感じられた。
「そらちゃんには、他に好きな人がいるんだね?」
「え……」
「顔に書いてある」
「!」
「じゃ、お疲れ。またいつか、共演しよう!」
神谷さんは、そう言うと、爽やかにわたしの前から去って行った。
わたしは、その背中をただ見つめていた。
わたしはそっと、自分の唇に触れた……。
自分が、はしたない人間に思えた。
『生きる』は、視聴者を魅了し、惜しまれながら完結した。
爆エン! が終わる……。
さよなら、三栗屋さん。
来週に続く