少年の回顧
初めてアンドロイドが起動した朝の約1ヶ月前、少年の最低の1日が始まろうとしていた。目が覚め、昨夜泣き通して重くなったまぶたをしぶしぶ開けた。カーテンの隙間からは、いまにも雨が降りそうな、黒に近い灰色の空が見える。カーテンを全開にする気は起きなかった。しばらく横たわっていたが、仕方なく上半身を起こそうと息を吸い込むと、昨日いじめっ子らに殴られた胸が軋んだ。息を吸い込むたびにずきずきと痛んだ。
学校に行くために少年は渋々準備を始めた。ビリビリに破れた教科書と、何十回も折られるたびに買い替えた鉛筆をカバンに突っ込んでいると、下の階から叔父の怒声がとんだ。
「おい、まだ飯の準備がすんでないのか小僧!」
少年はカバンを持って下の階に降りた。
「ごめんなさい、いますぐ準備します」
「ちんたら起きてくるんじゃない!お前をこの家に置いているのはなんのためだと思っているんだ」
少年はコーヒーを淹れ、トーストを焼き、自分はコップ1杯の水を飲んで家を出た。
通学時の少年は、ひたすら俯いて歩くことに集中した。以前は学校の裏口まで迂回して登校していたが、それもいじめっ子らに気付かれ、裏口を張られた。今はただ陰を潜めて正門を無事抜けることに賭けている。
しかし、少年の最低な1日に幸運は望めなかった。いじめっ子は常に3人で行動している。ボス格の通称ボスは、年齢の割に縦にも横にも大柄で、ドクロの絵が描かれたシャツを毎日着ている。ボスの取り巻きの2人はミミタブとウデクミだ。ミミタブは常にボスの後ろでケタケタ笑っているが、学校の先生の前では急に緊張して耳たぶをいじりはじめる。そのせいか、彼の耳たぶはでかい。一方、ウデクミはしかめっ面をしながら腕を組み、たまに苛ついたように指を弾く。
今日は少年が俯いて歩いていたのが仇になった。通行人がいる中で、いきなりボスにずぼんを脱がされ、下着一丁になった。ボスからずぼんを取り返そうと腕を伸ばした瞬間に今度はミミタブにカバンを盗られた。
「待って。そのカバンだけは」
少年の叫びは虚しく、3人はカバンを持ったまま大声で笑い、学校にかけて行った。ボスが仲間に叫んでいた。
「このカバン臭くてかなわないぜ、ほら嗅いでみろ。おう、そういえば、今日あのギャング映画のリメイクドラマをテレビでやるってよ」
「録画してきたよ、もちろん」
「お前のお気に入りのアイツが出るってよ、ほら。赤いアフロの」
「その録画ダビングしてくれよ」
いじめっ子たちにとって、少年をいじめることは日常のひとつだった。少年が惨めにズボンを履きなおしていると、黒色の空から大粒の雨が降り出した。
授業が始まってもいじめっ子たちが少年にカバンを返すはずはなかった。傘ごとカバンを盗られたため、少年はびしょびしょだった。筆記用具と教科書と宿題を忘れたと先生に告げ、叱られた。先生は少年がいじめられていることに気づいてはいたが、彼の味方ではなかった。彼は孤独だった。家族である叔父も、学友も、町の皆も、まるで彼を顎の下にできたニキビのように、無視するか嫌なものとして接した。彼の心の支えは、勉強と、納屋の秘密の工作物だけだった。
少年は勉強が好きである。好奇心が強く、幅広い分野の物事を知ることが好きだった。もちろん、学校は彼にとって勉学の最適な場所ではなかった。汚れ破れて一文すら読むことのできない教科書や、彼を劣等生としか認識しない学校の先生は、彼の知識欲を満足させない。そのため彼は本をよく読んだ。児童書から専門書まで、手に入ればそれを何度も読んだ。手に入れるというのは、町のゴミ箱を漁ったり、図書館の本を長期間拝借したり、あるいは、本屋から新品を半永久的に拝借したりすることである。お小遣いを持っているわけがなく、お金がないならそうするしかなかった。彼の悪行を、愛を持って咎める者はこの街にはいなかった。
少年とそのバイブルが出会ったのも町の本屋である。少年は前科があったため本屋を出禁になっており、書店内に入ることはできなかったが、そのバイブルは店頭前の今月の新刊コーナーにあった。著名な科学雑誌の特別号で、アンドロイドの紹介がされていた。そして、この雑誌には最大手ロボット企業トヨテックの簡易的な人工知能が付録のおもちゃとして付属していた。電卓サイズの機械に話しかけると、液晶モニターに返事が表示されるという代物である。少年はこのおまけと、なにより、雑誌のキャッチコピー「万人に寄り添うアンドロイド、その開発秘話」に強く惹かれた。少年には友人が必要だった。この惨めで孤独、そして単調な生活から抜け出すには、例えどんなに微力でも誰か話し相手が必要だと感じていた。それがアンドロイドなのは逆に都合が良いのかもしれない、そう少年は考えた。そのまま慣れた手つきで雑誌を持ち帰り、それは彼の宝物となった。
少年は雑誌に登場する開発中のアンドロイドに憧れて、本を何度も読み返した。トヨテックはロボットの業界大手の会社である。重作業、そして軽作業が人からロボットに取って代わり、国内のロボット産業化が加速したのはトヨテックのおかげであった。少年の住むこんな田舎でも町を見渡せば、花屋にはアームだけの会計ロボットや、国道の通る交差点には上半身だけの旧型の交通誘導ロボットがいる。来月からは学校の清掃員もロボットになるらしい。ボスたちのいじめ先がロボットになってくれれば良いが、と密かに少年は願っていた。
トヨテックの次なる挑戦はアンドロイド開発であった。特定の作業のプログラミングにただ従って行動をとるロボット技術を応用して、自ら考え人間のように振る舞う人工知能を、人形ロボットに搭載することをゴールと雑誌に書いてあった。身体パーツはロボット部品の流用で既に完成しているが、人工知能部の調整に手こずっているらしい。雑誌中ではそこまで詳しくは書かれていなかったが、少年があとでインターネットで検索すると、アンドロイの自立人間性の確立がどうしても上手くいっていないとの噂を知った。少年は自分の手元にある雑誌の付録の簡易人工知能を見つめた。このおもちゃはインターネットに接続することで世論一般の知識に関する問答が可能である。
「人間性なんてよくわからない。そもそもぼくは人間よりアンドロイドの友人が欲しいんだ」
そして、少年は付録の簡易的人工知能の改良を開始した。インターネットに接続することで多少難しい問答も可能だとわかった。
「やあ、君はどこから来たんだい?」
と聞くと、ディスプレイには次のように表示された。
「こんにちは、わたしはトヨテック、東第7工場B区のライン12から来ました」
少年は鼻で笑ったが、久々に誰かと会話した気分になった気がした。
あとはこの人工知能に彼を満足させることのできる友人となるための基本的な人格をインプットすればいい。少年は開発元のトヨテックが公表しているのと同じ5つの感情を導入した。ただし、ここにひとつの制約を加えた。アンドロイドの感情は少年の感情を模倣するようにした。共感性能を向上させ、彼の意見をすべて肯定するとともに、彼の行動を模倣するようにした。彼が歌えば一緒に歌い、彼が怒れば共に対象を罵るようになった。アンドロイドの好奇心やユーモア性といった、少年とは独立したアンドロイド自身から発する自由発言性は低レベルに設定した。これについては実際に起動してみなければわからないことだと少年は思った。
次は身体パーツの収集であった。社会のロボット化が進み、ここ数年で徐々に家事や仕事の作業がロボットに取って変わっているこの町では、パーツの収集は難しくなかった。右腕と両足はロボットの廃品処理施設から、左腕は缶詰食品工場の倉庫から盗み出した。トヨテックのロボットは軽量化のためプラスチックの外殻で包まれている。彼が入手した四肢は経年による劣化や破壊でプラスチックがぼろぼろだが、稼働を制御する中の各軸パーツはなんとか無事だった。
胴体には、ディスプレイ等を取り外した人工知能を組み込み上からアルミ合金板をあてた。両腕を保持するだけの脇の接続部の強度を出すのに苦労したが、背骨に担持の役割を担う分厚い鉄板を設置し、なんとか自立するようになった。ただ、これにより身体が重くなり、また、内部バッテリーを組み込むだけのスペースが無くなってしまったため、アンドロイドの電源は電池とすることにした。トヨテックのロボットは内部バッテリーによる充電タイプがほとんどであるが、いくつかの外作業用のロボットにはリチウム空気電池が搭載されている。当時、非常に効果だったリチウム空気電池を汎用品に使用できるまで大量注文したトヨテックさまさまだな、と考えながら、少年は高所工事作業用ロボットから電池を拝借していた。
顔パーツは入手困難であった。町の介護施設や風俗施設には、顔パーツをもったロボットは稼働していたが、この業界は回収も早く、中々手に入れる機会がない。そこで、彼は学校の課外学習と偽って介護ロボットと接触した。この首を回収すると、さすがに警察署行きだったため、その仕組みを詳細にメモした。視覚、聴覚センサーと、表情を動かすモーターの箇所などを書き取り、これらのパーツをまた収集した。そして、残すは、顔の上から被せる人工皮膚のみとなった。
少年の今日のカバンにはその人工皮膚が入っていた。カバンは既に少年が再び手にすることのできないどこかへ捨てられているのだろう。放課後にまた病院へ侵入し、警備員の目を盗み手に入れるしかない。少年にとって孤独に生きるこの社会は、少年のためだけにあった。
少年はこの夜、再度病院に侵入し人工皮膚を盗み出すが、途中警備員へ見つかり、連絡を受けた叔父にひどく殴られる。最低な1日はとことんついていない。それでも咄嗟の判断で隠した人工皮膚は没収されずに後で回収できた。少年の希望はついえなかった。