巻之五 「守り刀の本分」
男の子の姿が完全に消えた後には、帯刀した和装の少女が1人残るだけ。
そして次の瞬間、少女は私共夫婦の前に跪き、恭しく頭を垂れたのでした。
「養宜様、茉穂様!御無事で何よりで御座います。藍弥坊ちゃまに於かれましても、御健勝の御様子で…」
その姿たるや、あたかも主君に傅く忠勇なる武士のよう。
「藍弥…良かった、無事で…」
ベビーベッドに視線をやれば、先程までの七転八倒が嘘のように、安らかな寝息を立てている我が子の姿を確認出来たのでした。
「何方とは存じませんが、息子を救って頂いて感謝します。」
「あの金太郎人形に宿る怨念は、私が浄化致しましたので、どうぞ御安心を。」
藍弥を掻き抱いて頭を垂れる私に、少女は静かに笑って応じるのでした。
その莞爾たる微笑みは、今宵初めて見る物でありながらも何処か懐かしく、そして心落ち着かされる物なのでした。
「しかし念のため、然るべき神社で供養する事をお勧め致します。何かの手違いか、あの人形の御魂抜きは行われていなかった模様です。」
そう思いますと、あの金太郎人形も被害者であったのかも知れませんね。
「何から何まで私共家族の為に…本当に、心よりお礼申し上げます。」
居合抜きの技に長けているだけでなく、怪異の知識にも明るい和装の少女は、正しく私共家族の救い主と言えました。
彼女がいなければ、本当にどうなっていた事か…
安堵に胸を撫で下ろす私の胸中に、ある疑問が頭をもたげてきたのでした。
-あの少女は、果たして何者なのか?
このような疑問を抱くのは、我が子の救い主に対してあまりにも不作法な振る舞いである。
それは重々承知の上なのですが…
「その業物…千鳥神籬だな?」
そんな私の疑問を解く糸口となったのが、この夫の一言でした。
「えっ…あの太刀は確か、蔵に納めていたはずでは…」
夫に促されて注視すると、黒髪の美少女が携えているのは、長女のかおるさんの誕生を祝して拵えられた業物に相違ありませんでした。
「仰せの通りで御座います、養宜様、茉穂様。この千鳥神籬、御家に報いるべく馳せ参じた次第に御座います。」
どうやら私共夫婦に恭しく頭を垂れている少女の正体は、娘の守り刀に宿る魂が具現化した存在であるらしい。
驚くべき事ですが、信じざるを得ないようですね。
「しかし、藍弥坊ちゃまを御守りするためとはいえ、かおる姉様の御身体を拝借する無礼を演じ、慚愧に堪えぬ思いに御座います。御着物にしても、茉穂様の晴れ着をお借りする始末で…」
「いえ…頭をお上げ下さい。貴女は藍弥を悪霊から守って下さった。だからこそ、娘も喜んで身体をお貸ししたのですから。」
初めてお会いしたのに、妙に懐かしく感じられた理由が分かりましたよ。
申し訳なさそうに俯いた白い美貌には、私共の娘の面影が確かに宿っているのですからね。
「しかし、かおるさんはまだ4歳にも満たないはずなのに…」
目の前で跪いている少女は、娘より一回りは歳上に見えるのでした。
「かおる姉様の今の御身体では、私を帯刀して抜き打つ事は出来ません。私の力で、かおる姉様には一時的に元服程度の年齢まで育って頂きました。私が憑依を解きさえすれば、かおる姉様は本来のお姿に戻られますので、どうぞ御安心を。」
守り刀の起こす奇跡には、目を見張る物がありましたよ。
そう考えますと、かおるさんは順当に成長すれば、高校受験の時期には今のような美しい御姿に育たれるのですね。
「かおる姉様、ですか…考えてみれば、かおるさんと貴女は同じ日に生を受けた双子の姉妹のような存在ですものね。これからも、かおるさんをよろしく頼みましたよ、千鳥さん。」
「有り難う御座います、茉穂様!この千鳥神籬、かおる姉様の守り刀として今後も御家の為に尽くす所存です!」
私と致しましては、今1人の娘に見立てて「千鳥さん」とお呼びしたのですが…
彼女の自己認識は、あくまで「千鳥神籬」という守り刀なのですね
簡単には意見を翻さない初志貫徹振りを誉めるべきなのか。
それとも、封建的な頑固さに呆れるべきなのか…
こうして一連の事件を終息に導いた千鳥さんは、かおるさんに身体の主導権を速やかに返却しようと考えている模様です。
「それでは養宜様、茉穂様。藍弥坊ちゃまが健やかな初節句をお迎え出来る事を、私も鞘の中でお祈り申し上げておりますから。」
漆塗りの黒鞘に納められた業物を、両手で携えて夫に携えているのですから。
「そうか…」
夫が太刀の中程を握るのを確認するや、娘に乗り移った千鳥さんは両手を下ろし、静かに目を閉じるのでした。
「いずれ御美しく育たれた姉様に帯刀される日を、私はお待ち申し上げております。かおる姉様なら、優れた剣客として立派に大成される。そう私は信じておりますから。」
「うむ…」
次の瞬間、青白く発光した千鳥さんの身体が形を無くし、波千鳥をあしらった桜色の着物が畳の上にフサッと崩れ落ちたのです。
「千鳥…!いいえ、かおるさん…」
そうして床に脱げ落ちた振り袖の上では、元の幼い姿に戻った娘が白い裸身をさらして気を失っているばかり。
「御師匠様、茉穂様!申し訳ありません!」
呆然としていた私の意識を現実に引き戻したのは、荒々しく張り開けられる襖の音と、焦燥感に満ちた師範代の声でした。
「この先山千光、一生の不覚!かおる御嬢様の御守りを拝命しておきながら、見失ってしまうとは…やっ!?これは、かおる御嬢様?何とあられもない御姿に?御師匠様、茉穂様。これは一体何事で?」
床の間では金太郎人形が両断され。
夫の養宜は業物を携えて。
4歳にも満たない娘は、サイズの合わない晴れ着の上で前後不覚に横たわり、一糸纏わぬ白い素肌を晒して。
私はというと、穏やかに眠る藍弥を胸に掻き抱いて。
千光さんがオロオロと狼狽えるのも、無理からぬ事でしたよ。
「終わったのですよ、千光さん。全て、終わったのです…」
私は万感の思いを込めて、狼狽する師範代に応じるのでした。