巻之四 「太刀風絵巻 悪霊女と帯刀少女」
-人智を超越した存在を前にしては、私共は我が子を守る事も出来ないのか…
そんな不甲斐なさに私と夫が歯噛みした、まさにその時でした。
「そこへ直りなさい、魑魅魍魎め!それ以上の乱暴狼藉は、この私が許しはしない!」
朗々と響き渡る、鈴を転がすような気合いの一声。
声のした方へ目を向けると、そこでは黒い漆塗りの鞘に納められた業物を腰間へ差した美少女が、留袖姿の女を真っ正面から睨みつけていたのです。
『襖の開く音が鳴らなかったのに、何時の間に?!』
胸中に沸き上がった疑問を押し殺しながら、私は謎の美少女の出で立ちに視線を走らせたのです。
年の頃なら高校生程度でしょうか。
二つ結びにした艶やかな黒髪が、雅やかな和風の美貌によく御似合いでした。
そして少女が巧みに着こなしている、波千鳥をあしらった桜色の振り袖は…
『わ、私の着物…?!』
それは蔵の中に保存されているはずの、独身時代の私が両親に誂えて貰った晴れ着なのでした。
しかし、不思議と悪い気は致しません。
娘時代の私よりも遥かに見事に着こなしてくれる者が現れて、振り袖までもが喜んでいるようでしたから。
『確か門下生には、こんな子はいなかったはず…!』
しかしながら、彼女の涼しい美貌には何処か懐かしさを感じさせるのでした。
邪魔者への怒りか、或いは動揺か。
ワナワナと身悶えする留袖姿の女性とは対照的に、業物を帯刀した少女は至って涼しい顔で、自身の敵を真っ正面から見据えていたのです。
「稀代の人形師、兄口動流斎…その娘が貴女である事は心得ております。流行病で失った我が子の後を追って自害した事も。その死を悼んだ人形師が、遺髪を人形に植毛した事も。相違は御座いませんね、節子さん?」
黒い留袖姿の女性-その本名は兄口節子というようです-を真っ直ぐに睨み付けながら、見てきたかのように人形の来歴を朗々と語る少女。
その立ち振る舞いには、寸毫微塵の隙も感じさせません。
「然れども…己が父親が丹精込めて仕上げた人形を飾る家の息子達を、事もあろうに祟り殺すとは…犬にも劣る不心得者。」
見事な和服の着こなしに、まるで隙のない足捌き。
そして何より、その古風な口調と佇まい。
その少女の姿は、江戸期の剣客を思わせる時代がかった物でした。
「前の持ち主の息子達に飽きたらず、我が姉様の弟君にまで手をかける料簡なのですか?」
少女の言葉を信じるならば、あの男の子達は留袖姿の女性に呪殺された子供達の、哀れな成れの果てなのでしょうか。
まかり間違っていれば、藍弥もあの子供達の仲間入りを果たしていたという事なのでしょうか。
「悪い事は申しません。我が子の待つ極楽浄土へ、潔く召されるのです。」
諭すような少女の声も、留袖姿の女性には届かなかったのでしょう。
「ヴアアアアッ!」
キッと向き直った女性は両手を広げて、少女に飛びかかったのです。
「既に理性を失い、悪霊と化しましたか…この痴れ者め!」
激しい怒罵と共に、少女の右手が腰間への業物と伸びました。
漆塗りの黒鞘を引き寄せて鯉口を切れば、サッと迸る氷の刃。
抜き連れた白刃は鎬造りに庵棟で、日本刀としては主流の造り込みなのでした。
「成敗!」
そうして電光石火の抜き打ちに浴びせた刀風が、黒い留袖姿の女性を袈裟懸けにザックリと切り下げていたのです。
「ウ…ガ?」
斬りつけられた女性が僅かに呻いた、その次の瞬間。
黒留袖を纏った肢体は斜めにスパッと分断され、畳敷きの床に落ちる直前で消失したのでした。
「お逝きなさい、節子さん。せめて安らかに…」
二つ結びにした黒髪を軽く揺らした振り袖姿の少女が、鍔鳴りの音も立てずに業物を静かに納刀した時。
床の間の方で、ピシッと何かが砕け散る音が小さく響いたのでした。
「こ、これは…!」
「ぬうっ…」
漸く動けるようになった私と夫が駆け寄ると、そこには鉞を取り落とした金太郎人形が、無残にも両断されて転がっていたのです。
赤い腹掛けを纏った胴体は仰向けに倒れ、袈裟懸けに斬られた肩から上は、虚空を忌々しそうに睨んでおりました。
買い求めた時は凛々しくて可愛らしく見えた御顔も、今では単なる虚ろな人形のそれにしか見えません。
それとは対照的に、取り落とされて畳に深々と突き刺さった鉞は、怨霊の執念深さを如実に物語っておりました。
このように、無残に両断された金太郎人形の姿は、先に消滅した留袖姿の女性を思わせるものがあり、私共夫婦の心胆を一層に寒からしめるのでした。
「これで最早、人様に祟る事は無いでしょう。さて、次は…」
こう呟いた少女が向き直った先には、虚ろな表情をした男の子達が残っているばかりでした。
いいえ…
「うっ…うわああん!」
少女と目が合った男の子達は、けたたましい嗚咽を漏らして泣き出したのです。
人間らしい感情の爆発が、そこにありました。
それまでの不気味な無表情が、まるで嘘のよう。
「さぞや辛かった事でしょう?口惜しかった事でしょう?悪霊に呪い殺されたばかりか、その悪霊の眷属として意思を封じられて操られていたのですからね…」
男の子達に歩み寄り、屈み込んで頭を軽く撫でてあげる、振り袖姿の少女。
その面構えたるや、悪霊を斬り捨てた時の猛々しい勇ましさからは想像もつかない、穏やかで慈愛に満ちた物なのでした。
「でも、もう大丈夫…あの悪霊は、私が滅ぼしたのだから。もう何人も、貴方達の成仏を妨げる事はありません。」
「ありがとう、お姉さん!」
「これで僕達、やっと眠れるよ!」
そうして満面の笑顔を浮かべた男の子達の身体が眩い光に包まれ、徐々に消えてゆくのです。