巻之壱 「呪われた金太郎」
その金太郎人形が我が家に来たのは、長男である藍弥の初節句を控えた4月上旬の事でした。
本当の所、私の嫁いだ淡路の家には五月人形が既にあったのです。
夫の初節句のために、義理の父母が誂えた物が。
牛若丸を模した武者人形は、淡路一刀流剣術指南所の師範一家に相応しい、それは立派な造りでした。
しかし節句人形は本来、子供の身代わりのために飾る厄除けであるため、新たに産まれた子供に父母や兄姉のお下がりを与えるのは望ましくありません。
そのため、長男のために新たに買い求める次第と相成りました。
色々な人形店を回った結果、骨董品も取り扱っているお店で飾られていた金太郎人形に出会ったのです。
兄口動流斎という江戸末期から明治初期にかけて活躍した著名な人形師の製作で、お顔も凛々しくて可愛らしく、材料も上質の物が使われておりました。
「どうだ、茉穂…この人形の顔と来たら、藍弥に似てはいないか?」
「ええ、養宜さん…特に目鼻立ちなど、坊やに瓜二つで…」
夫も私も、この金太郎さんにすっかり一目惚れ。
少々値は張りましたけれども、喜んでお迎えしたのでした。
これに異を唱えたのが、藍弥の3つ歳上の姉にあたる私達の長女だったです。
「母上、これは…?」
「いかがです、かおるさん?藍弥のために買い求めた五月人形ですよ。」
-きっと娘も気に入るに違いない。
幼稚園から帰宅したばかりの娘を、藍弥のベビーベッドのある部屋へ招いた時まで、そう私は信じて疑いもしなかったのです。
「うっ…!?」
しかし、床の間に武者人形と並んで飾られた金太郎を一瞥するや、娘は黒髪を軽く揺らしてサッと目を背けたのでした。
市松人形を思わせる幼い美貌を、不機嫌そうに歪めながら。
「どうしたのです、かおるさん…?」
「あの金太郎人形…私には虫が好きません。」
苦虫を噛み潰したような姉とは対照的に、ベビーベッドで横たわる藍弥は無邪気に笑うばかりでした。
かおるさんの言動は、長男の初節句を言祝ぐ気分に水を差すような物でした。
それを私達夫婦は、「自分に注がれるべき両親の愛情を奪った弟への、幼い嫉妬心」と紋切り型の解釈で片付けてしまったのです。
早い段階で弟を持った姉ならば、誰もが経験する当然の通過儀礼。
そうとしか考えず、娘の言葉の意味など気にも留めませんでした。
ところが、我が家に奇妙な出来事が起き始めたのは、それから間もなくの事だったのです。
まずは、稽古に来ている小学生や師範代の先生方が、邸内で奇妙な人影を見たと囁くようになりました。
詳しく問い質すと、三十路過ぎと思わしき黒い留袖姿の女性と、幼稚園に上がるかどうかの小さい男の子の人影が出没するとの事です。
見間違いにしては具体的過ぎますし、どちらも剣術指南所には相応しからぬ身なりの人々。
何とも薄気味悪い話ですが、嫌な出来事はこれに留まりません。
不気味な人影の目撃情報が確認出来るようになった前後から、それまでは健やかだった藍弥の寝付きが悪くなり、頻繁にうなされるようになったのです。
まだ赤ん坊なのに、眉間には皺が刻まれ、落ち窪んだ目には隈まで出来て。
その痛々しい衰弱と消耗の有り様は、親として見ていられない物でした。
お医者様に診せても健康状態に異常は無く、「後は心因性位しか考えられない。」と言われる始末。
されど、言葉も満足に話せない赤ん坊がうなされる原因など、私共には思いもよりません。
家も指南所も重苦しい雰囲気に包まれる中、七五三の最初のお参りを昨年に迎えたばかりの娘だけが、冷静に事態を見据えていたのです。
「ですから私は申し上げたのですよ。あの人形は虫が好かないと。」
意味を成さない苦しげな呻きを上げる藍弥と、床の間に飾られた金太郎人形。
それらを見比べながら、かおるさんは忌々しげに吐き捨てたのです。
確かに全ての異変は、あの金太郎人形をお迎えしてから生じているのでした。