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(6)

 世間話のようなのどかな口調が、頭上から降ってくる。

 とっさに視線を動かすと、少し離れた地面に複雑に寝転がる男の姿があった。

「あ、うあ、いででで……っ」

「ねえ、誰がブスだって?」

 男を見下ろしながら、再度同じ問いを投げる。ようやく体勢を整えた男が、今度は容赦なく懐のナイフを取り出した。

「おま、お前っ、お前も敵だな。俺と智子さんを引き裂く敵だな!」

「息吹!」

 もはや視点も定まらない男が、悲鳴のような声をあげて駆けだした。危ない。とっさに伸ばした手は、息吹の背に届く前に動きを止めた。

 見慣れたお弁当袋が、高らかと宙を舞う。

 その軌道を追ったのは、壊れた歯車のように回るナイフだった。

「ねえ、言ってみせてよ。だ・れ・が・ブスだって?」

「い、っ……ででっ!」

 人の肩って、そんなに背中にくっつくのか。

 何やら鈍い音が数度聞こえたあと、傷をさらに増やした男を抑え、息吹は笑顔で三度問いかけた。

 初めて見る、息吹の強い瞳だった。

「ねえ。ブスってもしかして、この子のことを言った? 俺の妹のこと」

「う、ううっ、は、離してくれぇ……っ」

「んなわけないよね。ちょー可愛いでしょこの子。あんた馬鹿?」

 肯定しなきゃ殺られる。恐怖に染まった男は、異常なスピードで首を縦に振った。

 地面に刺さったナイフに、息吹の視線がちらりと向けられる。男の肩と背中の密度が、男の悲鳴とともにさらに増した。

「正当防衛って言葉知ってる? 下手な得物を持ってるとね、今度はその刃先で死ぬことになるよ。俺の予言ね、外れたことないんだ」

「よかったね。死ぬ前に教えてもらえて」吹き込むような囁きに、男は再度、異常なスピードで首を縦に振った。



 智子は、ストーカー被害に遭っていたらしい。

 最初何気なく交わした会話に勘違いした男が、異常な執着を繰り返し、妊娠した智子に気づきそれがさらに悪化。

 精神的に参り警察に相談・警戒してもらうとともに、旦那の転勤についていくという名目でこの地を離れる手はずだったようだ。

「へえ。それじゃあ『智ちゃん』は、もう引っ越す必要はなくなったわけ」

 自宅のリビングで事の次第を伝え終えると、息吹が瞼を閉じたまま口を開いた。

「ううん。もう手続きは済んでるし、新しく働く人も決まったらしいし。心機一転するためにも、引っ越しは予定通りするんだって」

「ふうん。まあ、それもいいかもね」

「あ、ちょっと」

 興味なさそうな欠伸のせいで、絆創膏を貼るの位置がややずれてしまった。

 夕食の片づけをしている最中、長い前髪の間から紅い線があるのを芽吹は見つけた。けがの手当てで家の救急箱を開けるなんて、一体いつぶりだろう。

「怪我をしたなら、その時言ってくれればよかったのに」

「ん。気づかなかったから」

「嘘。痛かったでしょう。ここ」

 男の持つナイフを弾いた息吹の頬を、わずかにかすめた。その後、警察が男を連行していってからも、息吹はあんまり通常運行だった。そのため、細かなところまで確認ができなかったのだ。

「芽吹が痛い思いをしなったなら、それでいい」

「え」

「妹を守るのが、お兄ちゃんの仕事でしょ」

 動揺が、解けていく。

 昼休みから授業も終え、自宅についてもなお続いていた、胸の不協和音。

 それが、息吹のさも当然という言葉に、いとも容易く解けていくのがわかった。

「お弁当箱、ぐしゃぐしゃになってたでしょ。思わず投げ出したから。今度は気を付けるね」

「……」

「芽吹?」

「ありがとう」

「うん?」

 何が、ありがとう? 表情が語る息吹に、思わず笑ってしまう。

 そして、恥ずかしい兄だと思った。他人様に、あんな明け透けに「ちょー可愛い」とか。

 どこのシスコンだって話だ。

「もう、外で眠るのはやめて」

 不協和音とは違う、心臓が胸を叩く音がする。

「お父さんとお母さんの寝室が、今はあんたの寝室でしょ」

「芽吹」

「ね。……お兄ちゃん」

 あまり甘ったるく響いた単語に、一瞬で芽吹の頬が赤く染まる。

 息吹は目を細め、ただ「うん」と頷いた。「ああ、そう言えば」

「仕事が、決まりそうなんだ」



 智子は、その後学校を辞め、この街を去っていった。

 最後に必要以上のお礼を告げられたが、芽吹の首は始終横に振られた。あの時助けたのは、私じゃない。

「にしても、あんたのお兄ちゃんって実はすごい人だったんだねえ。凶器持った暴漢をああも簡単に制圧するなんて」

「だから奈津美、息吹が関わったことは内緒だってば」

「でも芽吹、怪我がなくて本当によかった」

「ん。ありがとう、華」

「ちょっとちょっと。奈津美チャンも一応心配したんですけど?」

「はいはい、奈津美チャンもありがと」

 先日の非日常を微かに引きずった内容の会話が、体育館に溢れる喧騒に溶けていく。

 開かれた臨時の全校集会では、先日のストーカー騒ぎについて生徒向けの説明がされた。ちょっとしたニュースになったこともあり、学校側も対応に追われて気の毒だ。

 校長から当たり障りない報告がされる中、芽吹は1人全く違うことを考えていた。

 今日は、息吹が新しい職場に出る日だ。

 出勤前にむさっ苦しい髪をどうにかしろとせっついたものの、昨夜「出る前にちゃんと自分で切るから、大丈夫」と抜かしていた。どこも大丈夫じゃない。

 結局今朝も、見慣れてきたぼさぼさ髪で息吹は芽吹を見送った。どこも大丈夫じゃない。

 クビになっちゃった。なんでかなあ――そんなセリフが、早くも頭をよぎる。今日帰ったら、無理やりにでも床屋か美容室だ。

 って、どうして自分がここまでしなければならないの。

「お、あれが、新しい購買の人?」

 クラスメートの誰かの声で、散り散りになっていた生徒の視線が壇上に集中した。少しの期待と、少しの揶揄をはらんだ目で。

 長身のスーツ姿が壇上を闊歩する。男か。思考とは別のところで認識した事実に、芽吹は目を見開いた。

 前髪の隙間から見える、どこか物憂げな瞳。スーツをまとっていても、どこか型にはめられない不思議な空気がある。

 出る前にちゃんと自分で切るから、大丈夫――あの言葉のとおり、ぼさぼさだった頭はなりを潜め、随分ましになった長さの髪を、ゴムか何かで後ろに小さく束ねていた。

東海林しょうじ息吹です。どうぞよろしく」

 ああ、ほら見ろ。全然大丈夫じゃない。

 聞いたことのない苗字とともに現れた家族の立ち姿に、思わず目がくらむ。

 1千人近くがひしめきあう体育館で、何故か一瞬、視線が絡んだ気がした。

「ね、ちゃんと髪の毛切ったでしょ」という幻聴とともに。

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