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最終話 おかえりなさい、お兄ちゃん(1)

 息吹が退職届を出したのは、翌日のことだった。

 嵐のように現れ去るのが決まった購買のお兄さんに、どこからか噂を聞きつけた生徒が連日殺到した。

 残念がる声から激励する声、叱咤する声と様々だったが、どれにも息吹は「ありがとう」と笑っていた。

「また戻ってきてね。応援してる。そんなに待遇悪かったの。今日も色々声をかけられたよ」

 夕食を囲んで交わす今日の何気ない出来事に、芽吹は呆れたように肩をすくめた。

「嬉しそうで何よりだよ。それにしても、後任の人がこんなに早く決まるなんて驚きだったよね」

「うん。最近知ったんだけど、購買員の仕事ってかなり倍率高いんだって」

「……え。それなのに、どうして息吹が受かったの」

「ね。俺も不思議」

 もしかしたら、元担任の智子に付きまとっていたストーカーを撃退したことが考慮されたのかな、と芽吹はぼんやり思った。そんなわけないか。単純に運がよかったんだろう。

 和やかな夕食を済ませ、会話もそこそこに2階の自室に戻る。

 扉の向こうに入るほんの一瞬だけ、開かれたままの隣の部屋に視線を馳せた。

 荷物は、まだ詰められていない。元々数は少ないものの特別整理された気配は見られず、芽吹の心は密かに安堵した。

 そろそろ荷造りを進めなくちゃまずいんじゃないの──そんな言葉をかけようか迷って、迷って、結局かけられずにいる。

 自室のベッドに体を沈める。

「兄のことを、どうぞよろしくお願いします」

 きっかり1週間後に現れた谷に、息吹を遮って芽吹は言った。

 芽吹に続いて「よろしくお願いします」と頭を下げた息吹に、数秒後、谷は涙腺が決壊したみたいに号泣した。

 よかった。浩さんはいい人だ。息吹を大切に思ってくれている、いい相棒だ。

 仕事の引き継ぎやあれこれで、実際この街を離れるための時間をもらった。

 それもいよいよ大詰めになり、息吹がこの家を去るまであと1週間を切っている。

「ほんと、たった数か月だったのになあ」

 どうして、息吹がいない生活が想像できないでいるんだろう。天井に向かって溜め息を吐き、その重みを顔面で受けとめる。

 でも、後悔はしていない。兄を応援できない妹なんて、居ない方がましだ。何度となく頭の中で繰り返した言葉を、今一度自分に言い聞かせる。

 大丈夫。私の決断は、間違ってなんかいない。



「学校辞めるんだってね。あんたの兄さん」

 部活上がりの更衣室。いつもは事務的な会話しかない空間で、思いがけず飛んできたのはマネージャー仲間の百合の言葉だった。

 半端に持ち上げたままになったTシャツに気づき、よいしょと首から抜き取る。

「そうなの。うちの兄とは、その節は色々とあれこれあったよね」

「さて。何のことだか」

 視線を絡ませることなく、横顔のままで百合がうそぶく。

「で。あんたがどこか覇気がないのも、それが寂しいからだったりするわけ?」

 あ、この方にもバレてたのか。

 奈津美や華はもとより、安達からも噂が広まるより先に心配の声がかけられた。もう何度目だろう。最近の芽吹は周囲からの心配を集めすぎている。

「はは、心配させちゃってたか。ごめんね」

「謝らないでよ。気持ち悪い」

「相変わらず辛辣」

「別に興味ないけど。職場変えたところで、家に帰れば嫌でも顔合わせるじゃない。そんなしょげることなわけ?」

「……家、出るんだ。ずっと離れて暮らしてたんだけど、また、遠くに行くの。地球の反対側くらい遠いところ」

 本当は、反対側は言い過ぎなにかもしれない。それでも、芽吹には違いはさしてないほど遠くに感じられた。

 思わず滑り出た言葉に、いつの間にか百合の視線がこちらを向いていた。

 あれ私、泣いてないよね、無意識に目元をさらう。人前で泣くのが癖になってはいけない。

「寂しいんだ?」

「うん」

「そんな風に弱みをみせるようになったのも、あのシスコン兄の影響なんだろうね」

 唇に薄付きの桃色リップを引き終えた百合は、すでにいつもの美少女高校生のなりを完成させていた。

「寂しいなら、寂しいって言えばいいんじゃないの。どうせそんな遠くに行っちゃうなら、恥ずかしがる必要もないでしょ」

「え」

「高校生なんてまだ子どもじゃない。精々その若さを利用して、大人を困らせてやればいいのよ」

 唇の淡い色合いとは真逆のふてぶてしさで、百合が吐き捨てる。

 しかし言葉尻に感じたわずかな気恥ずかしさに、芽吹はふっと口元を綻ばせた。

「ありがとう。励ましてくれて」

「……感謝とかしないでよ。気持ち悪い」

 至極嫌そうな表情を浮かべ、百合は女子更衣室の扉に手をかける。

 長い髪をなびかせ去っていく百合の後ろ姿は、いつも通り美しかった。



「そっか。親御さんたちも、ちゃんとお前の1人暮らしを許してくれたのか」

 星が瞬く帰り道、安達の隣で芽吹は「はい」と頷いた。

「もともと1人暮らしをする予定でしたから。それに、特にお母さんは、息吹がカメラマンに復帰したことの方が嬉しかったみたいです」

 20年以上前──母が初めて息吹に会ったときから、その小さな手には余る大きさのカメラがあったらしい。

 息吹がようやく日本に戻るとの報と同時に聞かされた、カメラマンを辞めるという報は、母の心を大いに揺さぶった。

 そっか。また仕事に戻るんだ、よかった、よかった──と。電話の向こうで何度も繰り返す母に、息吹は居心地悪そうに苦笑していた。

 この歳になって母親を泣かせることになるなんて、息吹も思ってなかったのだろう。

「必要以上に私のことを心配してるのは、両親より息吹の方。警護システムをいれるべきとか真顔で言ってくるから、宥めるのが大変で」

「でも、年頃の女が1人なんて、どう考えても安全とは言えねーだろ」

「はは。今の先輩の台詞、昨日の息吹の台詞とおんなじですよ」

 クスクス笑みを漏らす芽吹に、安達は不本意そうに息を吐いた。

 ここ最近はいつの間にか、安達と下校するのが習慣化していた。

 安達の家は、高校と芽吹の自宅のちょうど中間地点の別れ道で逆方向に曲がる。部活で疲労困憊なエース様を、わざわざ自宅まで付き合わせるわけにはいかない。

 それでも時々、芽吹の表情をつぶさに観察して、半ば強引に家の前まで送っていく。

 家と真逆方向のドラッグストアに用があるなんて、どう考えても付け焼き刃の言い訳だ。そうわかっていながら、芽吹もついその優しさに甘えてしまう。それほどに、安達の観察眼が絶妙だった。この辺りは、さすがエースと言ったところだろうか。

 そして今日は、ごく自然に分かれ道で芽吹は安達と別れる。百合の励ましが功を奏しているようだった。

「ありがとうございます。それじゃあここで」

「ああ。くれぐれも気をつけてな。マジでな」

「はい。防犯ベルも持たされてますから」

「ん。それじゃあ、また明日」

「はい」

 また明日。こんなやりとりすら、実は当たり前ではないんだと、最近はつくづく思う。

「……息吹」

 名前を呼ぶことも、数日後には殆どなくなる。

 私も──息吹も。

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