表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/63

(4)

「意気地なしの情けねえ三十路はとっとと失せろ」

 辛辣な旧友の言葉が、授業時間の保健室に明瞭に響く。

 息吹はむくりとベッドから顔を上げると、心底不快そうな小笠原と視線が合った。

 その通りだなと内心賛同しつつ、視線から逃げるように再びベッドに身を投げる。

「お前がそんなだと、妹の方だって何の覚悟もできやしねえだろ」

「覚悟なんてそもそも必要ない。俺はもう、カメラを持てない人間なんだから」

「その逃げる余地を残した言い振り、妹が気付いてないとでも思ってんのか」

 小笠原の容赦ない指摘が、昨夜の芽吹を彷彿とさせた。

 居てもたってもいられない。そんな表現がぴったりだった。いつもはあんなに感情的にならない質な妹なのに。

 あの後は手渡されたらしいサンドイッチを腹に収めた後、一昨日と同じように同じベッドで眠りについた。

 一緒に寝ようと言った芽吹は、昨日もベッドでは始終息吹に背を向けていた。

「今日の朝一で、安達が駆け込んできた」

「ああん?」

 嫌悪を隠さない息吹に、小笠原も気付かないふりを決め込んで口を動かす。

「お前たち兄妹が血の繋がりがないこと、妹から聞いたみたいだな」

 別に、言う必要なんてないのに、と息吹は思った。

「へえ。それで?」どうせ、今までの兄貴節に文句でも漏らしていったのだろう。続く展開を察しながら促すと、続いた言葉は意外なものだった。

「嬉しそうだったな。不謹慎かもしれないと、自分でも言ってたが」

「……嬉しそう? どうして」

「真意は聞いてねえ。面倒な兄貴に口答えできる、口実が見つかったからかもしれねえな」

「あいつはそんな奴じゃないでしょ」

「へえ。庇うのか」

「そんなんじゃない」

 安達は気にくわない。

 それはきっとずっと変わることがないだろう。芽吹が安達のことを、あんな目で見続ける限りは。

 でももし俺が──そう考えかけた例え話に気付き、くしゃりと前髪を握りつぶす。

「いらいらしてんな」

「誰かさんが要らない情報をぶっ込んでくるからだ」

「心配か。妹が」

 わかりきった問いかけに眉を潜める。そんな息吹に、小笠原は小さく鼻を鳴らした。

「自業自得だろ。自分が決意さえすれば、いつでも何でも、そう都合よく離れることができると思うなよ」

 言葉尻に込められた感情の震えに気付く。

 小笠原は真正面の窓の向こうに視線を馳せている。しかし、その目が真実見ている光景は、到底測ることはできなかった。

「自分の折り合いさえつければ、跡形もなく消えてなくなれるなんて思うな。現にその相棒とやらはお前を追って、こんな面白みのない街にまでやってきたんだろうが」

「葵」

「甘えんな。悩んで傷ついて傷つけても、結局は覚悟するしかねえんだ。……互いにな」

 旧友のこんな横顔を、息吹は前にも見たことがあった。

 記憶が曖昧だから、恐らくは中学の頃。進学先を東京の全寮制高校に決めたと告げたとき。

「……もしかして葵、俺が上京しちゃって寂しかった?」

「死ね」

「保健室の先生が言っていい台詞じゃないでしょー」

 けたけた笑う息吹に、小笠原の口元も自然とつられる。

 それは十数年経っても変わらない2人の光景だった。



 あれから数日過ぎた。例のリミットまで、あと3日。

「っ……すごい」

「うん。1枚の絵みたい。素敵」

 久しぶりに訪れた昼休みの屋上。

 華とともに自然に引き出された短い感想に、奈津美はとても嬉しそうに目を細めた。

「ありがとう。これもそれも全部、みんなのお陰だよ。私の個人的な夢のために、たくさん力になってくれたから」

 そんなことはない、と芽吹は笑い、手元の写真を見た。

 まだ記憶に新しい工場の廃墟と、青く澄んだ空、そして自分が纏った白いワンピース。

 ひとつひとつは何も繋がりのない存在のはずなのに、この写真の枠に閉じ込められたそれらは、まるで当然のように手を取り合い、1つの世界を作り上げていた。

 ああ、すごいな、と心から思う。

 構図や経験なんて理屈だけじゃない。溢れるほどに感じる写真への思いが、安易な感想さえ塞いでしまう。

「息吹さんにも、後でちゃんと伝えるよ。心から感謝してるってね」

 唐突に呼ばれた兄の名に、芽吹ははっと我に返った。

「そんな、いいよ。そんな大げさにしなくても」

「ううん、絶対伝えるよ。私には、きっとそのくらいしかできないからね」

 見上げるとそこには、予想外に真剣な奈津美の眼差しがそこにはあった。

 思わず目を見張る芽吹に、奈津美が小さく息を吐く。

「息吹さんも、早くカメラに復帰できるといいよね」

「……え?」

「あの人も、本当は撮りたいんだよね。撮りたくて撮りたくて、堪らないんだ。私なんかよりもずっと」

 淡い晩夏の風が、辺りに立ちこめる。

 いつになく穏やかな奈津美の言葉が、じんわりと胸に染みるのがわかった。

「この写真を撮ってるときもね、ずっと隣にいてくれたけれど、ずっとずっと感じてた。本当は、自分が今の芽吹を撮りたい。自分の手でこの瞬間を切り取りたい。シャッターを切りたい……ってね」

「奈津美……」

「難しい事情があるんだろうなって思う。でも、いつかまた、復帰できたらいいよね」

 だってあんなに、カメラが好きなんだから。

 そう言う奈津美に、華も静かに頷いた。その純粋すぎる思いが滴って、こびりついていた子どもみたいな意地を優しくふやかしていく。

 そうだ。私も、本当は知っていた。

 だって毎日、息吹の撮った写真を見て育ってきたから。

 リビングでいつも私たち家族を見つめてくれていた。フレーム越しに、何も言わなくても、言葉がなくても。

「うん。私も、そう思ってる」

 ようやく吐き出した本音に、情けなく笑顔が歪む。

 知っていたはずの本音を耳にしてようやく、見えなくなっていた自分の芯がすっと伸びた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ