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「……はあ」

「それじゃ、おやすみ」

「はあ?」の疑問府部分が伝わるよりも前に、その背中はリビングから姿を消した。

 外で寝る? ホームレスになって野宿するとでもいうのか。

 慌てて後を追うと、自分の靴を履き終えた息吹が扉に手をかけていた。

「ねえ、ちょっと」

「さっき言ってくれた言葉、嬉しかったなあ」

 振り返った顔は、幸福そうな笑顔だった。

「おやすみ。芽吹」

 ぱたん、と扉が閉じたあとも、芽吹はしばらくその場を動かなかった。

 あいつ、本当に出ていきやがった。

 何とも言えない気持ちになりながらリビングに戻り、そっと窓のカーテンを引く。申し訳程度の広さしかない来宮家の庭に、息吹が寝転がるところだった。どこから調達したのか、ちゃっかり寝袋に体を収納している。敷地内にいることがわかり、何故かほっとした。

「……いや、風邪ひくでしょ」

 とは言うものの、息吹を家に呼び寄せることはできなかった。

 今あの「兄」と一つ屋根の下で就寝するのは、やはり抵抗しかない。兄妹なんだからという理屈だけでは、どうしても割り切れなかった。

 さっき言ってくれた言葉、嬉しかったなあ、なんて。あんなに喜ばれる言葉だったんだろうか。

 ――この人は、私の兄です。

 自然と出てしまった言葉に、小さな悔しさがにじむ。でも仕方ないじゃないか。

 信ぴょう性はどうあれ、2人を繋ぐ名前は、今のところそれしかないのだ。



 結局状況は変化しないまま、数日が過ぎた。

「すご。何その兄上。可愛い妹のために外で寝袋とか、メーター振り切れすぎでしょ」

 前の席の椅子をこちらに向けながら、奈津美が遠慮なく爆笑する。

 あれのメーターなんて、ファーストコンタクト時点で振り切れてる。そう返答する代わりに、間延びしたあくびが口いっぱいに広がった。

「芽吹、眠たそう。膝枕する?」

「うー、魅力的な提案をありがとう、華……」

 あれ以来、結局芽吹は満足な睡眠を得られていなかった。

 なかなか訪れない眠気を思っては、幾度となく窓から庭を見下ろす。庭の中央に横たわる寝袋を確認して、小さく息を吐く。

 一体何をやってるんだろう、私は。

「そんな就寝時の過ごし方してたら気まずくない? 朝はどうしてるわけ、来宮兄妹」

「私が起きたと同時に、家に入ってくる。その後はいつも通りの朝ごはん」

「んー。なんかねー。さすがにそこまでだとお兄さんもかわいそうな気もするねえ」

「いやでもね。同じ状況で、ドア数枚に隔てられただけで、君なら穏やかに眠れる?」

「うーん。私なら、いい男ならまあOKかな?」

「うちはたぶん、離れ屋で寝てもらうことになると思う」

「残念ながらいい男じゃないし、うちに離れ屋はないんだよ」

 罪悪感がないわけじゃない。それを抑え込むことを選んだというのに、結局睡眠不足。

 一体どうするのが正解だったの。誰あてかわからない弱音を心に吐き、胸の奥がじわりと湿るのを感じた。

「私は、お兄さんはいい人だと思う」

 紅い格子模様に鶴が描かれたお弁当箱を開けながら、華が言う。

「お兄さんは、芽吹の怒りも戸惑いも、全部理解してると思う。だから、いい人だと思う。芽吹を大切に思ってる」

「ああ、確かに他に人目はないんだもん、もっと横柄にふるまってもいいはずだよねえ」

「だから芽吹も、無理はいらない。それに甘えていいと思う」

「甘える……」

 それはまた、難しい課題だ。

 目の前の奈津美が手持ちのたまごサンドイッチに食らいついたとき、芽吹は「あ」と記憶の糸がつながった。

「やば。お弁当、家に忘れてきちゃった」



 そうだ。購買はしばらく休業してるんだ。

 智子の体調が思わしくないらしく、数日自宅安静になったらしい。いつも眩しい笑顔で迎えてくれる存在が、いかに大きかったのか実感した。

 この眠気に空腹がプラスされたら、いよいよ体調を崩しかねない。面倒だけど、坂の下のコンビニに行くか。

 ほんの一瞬、自宅に電話するという選択肢が浮かんだが、芽吹はすぐにかぶりを振った。お弁当を忘れたから持ってきてなんて、どの口が言えるというのか。

「いい人だと思う、か」

 友人の言葉を反芻しながら、芽吹は外履きに履き替えた。足取りが重い。瞼も重い。

 父も母が、あの男に娘を任せたんだ。何の迷いもなく。

 確かに、もっと信頼してもいいのかもしれない。でも信頼ってどうやってするの。体現するのはなかなかに難しい。誰か、教えてほしい、と芽吹は嘆息する。

 ぼんやり思案しながらふと顔をあげると、正門の近くに人影を見つけた。

「……息吹?」

 思わず口から名が出る。でも、すぐに人違いだとわかった。

 髪は短いざんばらで、背格好も一回り小さい。でも、うちの生徒でないことは一目でわかった。

 ああ。この男は、やばい。

 そう思ったのは、運悪く男と目があった直後だった。

「智子さん、呼んでもらえますか」

 気持ち悪い。思わず言葉になりかけた空砲を、ごくりと飲み干す。どす黒く濁った瞳が、芽吹を映し出しぬらりと光る。

 てか、聞いたことある、智子って確か――。

「すみません、私、その人知らないので」

 言いながら、ずっと頭の隅にあった疑問がすとんと落ちた。正門に立つ男に心底怯えていた人を、芽吹は知っている。

 きっと、あの夫婦の恐怖の対象は――この男だ。

「嘘つかないでくださいよ。本当は知ってるんでしょう。ここの購買で働いてる竹ノ内智子さんですよ」

「知りません」

「何度も同じこと言わせんじゃねえって。お前相手にしてる時間ねえんだわ」

 男の足がダンと地面に叩きつけられ、芽吹は小さく息を飲んだ。

「智子さん、仕事熱心で忙しいし不相応の旦那の送り迎えもあるし腹はみるみる大きくなるしなあ。いい加減どうにかしないと、俺と智子さんとの未来に邪魔になることばかりだからさあ」

 距離を詰めてくる。じり、と地面が鳴り、危うく体勢を崩しかける。何だこれ。何言ってるんだ、一体。

 話が通じない。こいつは、やばい。

 逃げる? 大声上げる? それにしても、このままじゃいずれ智ちゃんが――

「案内しろよブス。邪魔しかしねえってんなら」

 鈍く光る何かを男の懐に見とめ、絶句する。

「お前も、俺の敵ってことで、いいよな?」

「――」

 智ちゃん。逃げて。言葉にならない言葉を叫び、体の力が抜けた。

 何かが視界を横切ったのは、その時だった。

「誰がブス?」

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