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(2)

「は……」

 真正面から覗き込む瞳の昏さに、ぞっと背筋が凍る。

「4日前に部活中の芽吹と話したときは、何もない、普通だった。それが部活から帰ってくると、様子がおかしすぎた。今でもそれを引きずってる」

「……」

「一応芽吹はあんたのことちょっと特別みたいだったから、今のは外したけど──、」

 答え次第じゃ、今度はあんたのど真ん中に入れる。

 絶対零度の冷たい氷が既に腸に突き立てられたように、苦しくて、痛い。

「……そういうあんたこそ、あいつのこと、ちゃんとわかってんのかよ」

 しかし、それも全部覚悟の上だ。

 小さく深い呼吸をついた後、安達は真っ直ぐに放つ。

 目の前の瞳があからさまに不快に歪んだのがわかった。それでも、ただ引き下がるわけにはいかない。

 自分もこの4日間、心の空白を抱えながら、必死に平静をかき集めて過ごしてきたのだ。

「俺はあの夜、芽吹に気持ちを伝えた。あんたのことも含めて全部。それが全てです」

「……俺のこと?」

「あの後のことは、あんたの方がずっと知ってるはずでしょ。一緒に住んでて、兄なんだから」

 しれっと敬語を忘れる安達に気づかず、息吹はしばらく虚空を見上げて記憶を巡らせた。あの日の夜は、確か。

「……家に帰ってからも、あんた、何か芽吹とコンタクトを取ったわけ」

「取ってない」

「本当に?」

「あのねぇ……そもそも俺、あいつとの連絡手段はないんですよ。番号すら交換できてない。信じないなら、スマホの中見ます?」

 少し自棄になりつつ、安達は自分のスマホロックを解除した後それを息吹に投げ渡す。息吹はそれをしばらくじっと睨みつけ、何か短く操作をした後に安達に返却した。

「少しは信用してもらえました?」

「いんや。あんたのことは端から信用してないしね」

「目の敵にされてんな。……まあ、それも当然だけど」

 弱気な言葉が出た。

 あの日の夜に、芽吹に告げた言葉。

 自分で散々悩んで、考えて、これが最善と思ったはずだった。それなのに、告げた瞬間から後悔が波のように押し寄せたことに、酷く動揺した。

「……俺の言ったことが、あいつを追い詰めたのかもしれない」

「そっか。歯ぁ食い縛れ」

「でも、もしそうなら、」

 芽吹の途方に暮れた表情が、いつまでたっても離れない。

 だからこれは、自分の贖罪だ。

「それを解放できるのは──きっと、あんただよ息吹さん」

「──……」

「俺じゃない」

 次の瞬間、再び安達の頬すれすれに拳が打ち込まれる。

 細く長いと息がようやく消えていくのを聞いていると、「なるほど」の言葉とともに息吹が顔を上げた。

「戦線離脱したってわけ。意外と根性なかったね」

「っ、てめえ……っ!」

 綺麗な笑顔で煽られ、たがが弾け飛ぶ。

 感情のままに突き出された安達の拳は、壁にめり込んだ方とは別の手によって易々と受け止められた。ぎり、と容赦なく爪を立てられ、眉が歪む。

「無理しなくてもいいよ。どのみちそんなんじゃ、やっぱり芽吹は渡せないし」

「……あんた、あいつに惚れてんのかよ」

「そんな言葉じゃ足りない」

 思わず投げた質問だった。

 それでも笑顔を崩すことなく、息吹は安達の拳を投げ捨てる。

「どんな言葉で表現されるかは知らないけどね。芽吹のためなら俺は、何にでもなれる」

「あいつの恋人にも、か?」

「……芽吹も、案外見る目がないね」

 壁から拳が離される。今度こそ滅茶苦茶に血が滲んだそれをしばらく眺めた息吹は、出血が続く箇所に舌を這わせる。

「まずい」と顔を歪ませた。

「そろそろ授業も終わるね。もう、行っていいよ」

「授業終わり際に解放って。どこまでもあべこべな人だな、あんたって」

 諦めとも感嘆ともとれる溜め息を残し、安達はその場を後にした。同時に、角の塔屋の陰からのそりと影が動く。

「血、垂らすなよ。床が汚れる」

「だって出てくるから。小笠原先生がチョコレート食べすぎて吐き出したってことで解決しない?」

「誰が見たって血の朱だろ、くそが」

 本気で汚いものを見るような目をした後、小笠原は口に含んだ煙を吐き出した。

 この場所は、小笠原の密かな喫煙所になっていた。勤め始めてすぐに、小笠原に付きまとっていた息吹にばれた。それ以来、この場を知る人員が増え、小笠原は機嫌がよくない。

「んで? お前は一体何をイライラしてる」

「今の話を聞いてたなら、わかるでしょ」

「わからねえな。あんな年下にまで八つ当たりする餓鬼の考えることなんざ」

「そう? じゃあ大人なら、大切な妹の考えてること、わかるのかな」

 小笠原がケースに押しつけようとした焼き切れを手に取り、胸いっぱいに吸い込む。大きく咳をした後、勢いづいてむせ込んだ。

 その場にしゃがみ込み、呼吸を整える。

「はは、にがい」

「やめとけ。来宮が煙いお前を快く許すとは思えねえ」

「でもさ、もう今芽吹は……」

 項垂れるようにして再び咳き込む息吹を、小笠原が静かに見下ろす。

「初めて見たんだよね。あんな、消えそうな笑顔」

「……」

「どうしたもんかなあ」

 芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな。

 乾いた笑いが、残った燻し香とともに空に溶けた。

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