第12話 うつ
第12話 うつ
――― 不自由を 常と思えば 不足なし (徳川家康) ―――
その結界から出る事叶わず、胡蝶は焦っていた。
「このトラップどうなってるのよ!」
胡蝶らは、誤って椒図(椒圖、しょうず)の結界に足を踏み入れ、不自由の身となっていた。椒図の結界の術式はやはりこの世界のものであり、印によって脱出することは、不可能に見えた。
龍生九子である椒図は、姿が蛙でもあり、タニシやサザエのような巻貝やカラス貝でもあった。しかし、他所者が自分の結界に入ることを酷く嫌ってもいた。つまり、胡蝶らが、結界の中にいることは、予期せぬエラーであり、不本意でもあった。椒図は、早くその異物を結界から出したいと想い、あらゆる手を打ちたいとは思っていたが、それは己の持つ病との闘いでもあった。
うつ病を発症した椒図は、自分の結界の中に自分一人いることが願いであり、本望であった。
「なんびとたりとも、我が結界を侵すものは許せん。とっとと立ち去れい」
これは、胡蝶らの願いとも合致していて、何も問題はないように見えるのだが、根本的に双方の意思の疎通が欠けていた。
椒図に積極的な意思の疎通を求めるのは酷である。うつ病と診断された者は、ただそれだけで、症状が何倍にも膨らむことがある。それは、自閉症や引きこもり症候群を誘発し、ついには、得体のしれない恐怖に脅かされることもある。うつ病の診断が誤診であると気付いたのは、間もなくであったが、それから誘発されたと思われる他の症状は、相変わらずに残ってしまった。診断や誤診とは、恐ろしいものである。
幸いなことに胡蝶は積極的であったため、椒図とコンタクトを取ろうと試みた。
「椒図さん、どうしたいの?」
「ええィ、とっとと立ち去れい」
「そうしたいわよ。でも、どうすればいいのかわかんないの」
「どうもいいから、立ち去れい!我が閉じこもりを邪魔するでない!」
「はっは~、あなた引きこもりね?わかったわ。わたしが癒してあげる」
この“癒してあげる”に椒図は騙された。椒図は少し思案した末、1つの簡単なことに気が付いた。
「我の結界を僅かの間だけ解くから、その隙に出ろ。そして、我を癒して見ろ」
(椒図さんはいい人だわ。ここから出して、しかも実験台になってくれるなんて)
胡蝶に癒すつもりはあった。しかし、そこには実績も根拠もなく、ただ想いとしての“癒し”だけがあった。
キノコは生えた。ここまでは、いつものようにできて、不足はなかった。しかし…
「おぉ、これが癒しか?」
キノコは椒図の大好物であり、生えたキノコを食べ始めてしまったのだ。
「それじゃ、タコが自分の足を食べてるようなものだわ」
キノコは椒図の遺伝子の特定のコドンセットを発現させた結果であり、キノコは椒図の身体の一部と言えたが、それでも椒図は喜んだ。
「気分がいい。治ったようだ」
病は気からとは言え、現金なものである。胡蝶も真に受け「ほら、ごらんなさいよ」などと言っている。胡蝶はそれに留まらず、キノコに関係しそうなコドンセットを椒図から採取した。実は、このことが、胡蝶の“治癒”の印の会得に重大な関係を持っていた。まだ“抽出”や“調合”の印を覚えなければならないが、これが大きな足掛かりとなっていた。
――― 一部のキノコは、生薬として用いられ、マジックマッシュルームなどは、幻覚剤として指定されている。また、抗うつ薬としての期待も高まっている。椒図の治癒はこのキノコからの抗うつ成分かもしれない。 ―――




