第11話 重き荷
第11話 重き荷
――― 人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず (徳川家康) ―――
龍生九子である贔屓は、重きを負うことを好むといわれ、亀に似ていた。負屓もまた、重たい荷物を背負う事を好み、二人とも似たもの同士であった。
そもそも二人が、重きものを背負うことになったのは、財貨を求めることから始まった。集めた財貨はまた財貨を産み、その繰り返しで気がつくと重い荷を背負うこととなっていた。つまり、二人は大金持ちで、その代価として重い荷を背負っていることになる。
ところがいくら財貨を蓄えたとて、ここではその使い道は限られていた。誰かに分け与えようというつもりもなく、ただ財貨は増える一方であり、その財貨は重力への反逆となっていた。
財貨の重みに耐えきれなくなった二人の足は地面にめり込み、これに堪らず二人は財貨を集めることを止めたと言うが、二人の間では、財貨の遣り取りが始まっていた。これが商売の始まりとされているかもしれない。しかし、遣った方の荷は軽くなるのだが、取った方の荷は重くなるという当たり前の現象が起きていて、荷を軽くしたいがため、相手に財貨を与えるという振る舞いが頻繁となった。そうこうしている中に商売繁盛となり、二人の荷の総量はさらに増えていってしまった。
これは、単純な“遣り取り”という振舞いでも、一人が持つ財貨という部分に思わぬ作用を与え、元々持っていた部分を見掛け上増やすという『部分の総和は全体とならない』現象をおこしてしまった。
やがて、インフレやデフレも起こり、見掛け上の二人の荷の総量は増えたり、減ったりしていった。この時、変じたのは二人分の総和の量で、それぞれが持っていた財貨という部分の量が変じたわけではない。
贔屓も負屓も不思議に思ったが、これは『動くものは、部分と部分を交わらせ、複雑さを増加させる』という原理によるものだった。二人がこの原理を知らないのも無理はなく、知る者はこの世界にほとんどいない。
そんなある日、胡蝶が物語の進行に合わせてやってきた。胡蝶は二人を見て哀れと想い「ケルン、ついでだから、もっと重くしてやって」と哀れを通り越した苛めとも言える振る舞いに及び、ケルンも「そうだね」と言い、持ち合わせの蚩尤鋼を雨あられと二人に浴びせたが、これによって重さに耐えきれない贔屓の足の骨はポキリと折れて倒れてしまった。
この事実は、逸話として伝わらずに、誤って『贔屓の引き倒し』ということわざとなり、中国では“力を出す”“努力する”という意味となった。そして、日本では“特別扱いする”という意味になった。
本来なら、この事実は“亀でも足の骨を折る”か“財産を貯え過ぎると足に災いがくる”という教訓として伝わるべきであり、もっと悲しいことに贔屓の名より負屓の名は知られていない。負屓は、断固として『贔屓の引き倒し』ということわざに抗議すべきであると考える。
しかし、この話の最重要事項は『動くものは、部分と部分を交わらせ、複雑さを増加させる』という原理であり、逸話そのものではない。この原理は物語の将来普遍のものであり、物語の主軸を司る。




