第8話 獣
第8話 獣
その距離は未だ遠くであったが、トラは猛然と疾駆した。トラの性別は不明であるが、それでも自分に似た獣のメスを嗅ぎ分け、疾駆したのである。ところが、脇にいるクマに似たオスとその背後の獅子に似ている獣を視認すると、クルリと背を向け、猛然と疾駆し戻った。つまりは、逃げ帰ったのである。
トラの映像は胡蝶のものでもあり「ここ、動物園?でも、それならトラが逃げて帰るはずはないし、いいわ、上空から偵察と行きましょ」と、羽ばたいていってしまった。残された者たちは「いいよ、ゆっくり行きましょ」ということになり、一行は2つに分断されてしまったのだった。
一方「貅に似た獣らしきものが、一瞬見えたがあれはなんだったのだろう」と思う狻猊は、龍生九子の中でも飛び抜けた身体能力を持っており“獅子の猊下”と呼ばれていた。傍らに貔貅(ひきゅう、豼貅)が屯していたが、貔はクマに似たオスであり、貅はトラに似たメスであった。尚、かれらについての情報はカイロといえども知ってはいない。『知らないことを知る術は、何者といえども持つこと叶わない』
狻猊も貔貅も地上戦なら、いかんなく実力を発揮できたのだが、空を飛ぶことはできなかった。それを見て取ったのか胡蝶は、自分の印の射程に留まった。しかし、狻猊の跳躍力は、そこを上回っていて、危なくその爪に引き裂かれるところだった。
「ずるいわ。跳躍力をわたしの射程より短く設定しなさいよ!」
いけない。胡蝶を怒らせてはいけないのだ。胡蝶が怒り、感情爆発を起こすと、これ以降の文章の保証はできなくなる。
胡蝶は怒りを鎮めて、自分の射程より高い位置に留まることにした。
「これで、思う存分試せるわ。まずはキノコから」
無事にキノコが、狻猊に生えて、この世界の生物のほとんど全てが遺伝子にキノコのプロテオームを持っているだろうと予測できた。しかし、キノコに警戒を強めたのか狻猊も貔貅も動きが素早くなった。
胡蝶が“象徴”の印を発効しても、照準が定まらない。しかも、反撃してくるではないか。狻猊は火をおこし、煙で胡蝶を燻そうとするし、貔貅は破邪の術を向けてきた。煙は燻いし、破邪の術は、胡蝶の邪まな気(つまり邪気)を削ぎ、やる気は無くなるしで勝負の行方はわからなくなった。
「もっと、無邪気にならなくちゃ」
この想いが通じたのか、破邪の術は効力を失い、煙もあまり気にならなくなった。しかし“象徴”の印は相変わらず効かず、双方膠着状態となってしまった。疲れた狻猊から停戦の申し出があり、この勝負はなかったことと相成った。
――― 遺伝子から作られるタンパク質1つのことをプロテオームと呼ぶ。プロテオームは実存するタンパク質とその遺伝情報であると言い換えてもいいのかもしれないが、ここいら辺がはっきりしない。理由を考えてみると、染色体、遺伝子、DNA、タンパク質など列挙すれば切りがないが、学問上の用語がよく理解、分別されていないせいだと気付く。さらに生物学なのか化学なのかさえ、判じられない時がある。興味はそこになく、ただ組み合わせ(重複順列)について考えたいだけなのだが、それだけでは、上手く考えが定まらないようだ。従って、プロテオームなどという、よく理解できていない用語が飛び交うことになる。
また、胡蝶の望みは、薬たる酵素のプロテオームを探すことであるが、これは無茶というものである。プロテオームは生物に与えられたものであり、探すものではないのだ。何故なら探す時、1の次に何百というゼロが並ぶ数字の量から1つを探さねばならないからだ。 ―――




