第3話 犀犬の術式
第3話 犀犬の術式
胡蝶の背中が騒がしい。ケルンは取り乱し、ただ喚くだけだった。
「ダメだよ、胡蝶」そう喚き、慌てふためいて撤退するケルンは速かった。しかし、速かったがそれは速過ぎ、シベルによってけつまずかされてしまうことになってしまった。
「なにを邪魔するのよ」
犀犬も同感であり、ケルンにも言い分はあったが、それは無視され、非難の的とだけなった。
「もう少しでわかったのに」
――― 21世紀の科学によると、生命体を構成するパーツは、タンパク質であるとされている。タンパク質はアミノ酸から合成されて、そこに各種の元素が修飾され完成するらしい。アミノ酸から合成される有機物の小さいものは、ペプチドやポリペプチドと呼ばれるが、タンパク質という呼称との境界はよくわからない。また、タンパク質でない有機物にホルモンなどがあるが、その呼称や分類方法もよくわかっていない。触媒たる酵素は、タンパク質を基に生成されて、生命体の化学反応に深く関与する。
タンパク質は、生命体の設計図と呼ばれるDNAを基に作られるが、DNAはアミノ酸の種別を羅列したものに過ぎない。遺伝子は、DNAを媒体として1つの遺伝子が、1つのタンパク質に対応する。染色体は、数多の遺伝子を格納するデータベースとされる。染色体中の遺伝子は、人体では数%だけが活性化されていて、残りの遺伝子は眠っている。この眠っている遺伝子を活性化させることを“発現”と呼ぶ。つまり、人体に潜在的に存在するタンパク質の多くは、役に立っていない事になる。
犀犬の術式は、2つから構成されていて、1つは患者が本来持つ遺伝子を“発現”させて、酵素を作らせ治癒へと向かわせるものであり、1つは犀犬が独自に作った遺伝子を患者の局部に送り込むものであった。犀犬が作った遺伝子は、遺伝子ではあるが、遺伝子ではなかった。その遺伝子は遺伝せず、ただ酵素を生成し、薬としての効能のみが実作用として存在した。―――
胡蝶は1つのことは、直ぐ理解できた。“発現”の印を知り、無意識とはいえその印を発効させたことのある胡蝶にとってそれは“発現”の意味を深くし、認識を深くするものであった。もう1つに手間取り“生成”の印をようやく会得した時、ケルンがけつまずいたのだった。結果として、胡蝶は“生成”の印を会得したが、何を生成すればよいのかわからず「邪魔とかもう少し」の言となったのである。
それとは別に問題があり、蠱雕が間近に迫っていた。胡蝶も現実に気が付き迎撃態勢にはいったが、それはどう見ても遅すぎたようだ。フラクタル・トラップを築き、いくつかの蠱雕をトラップに放り込んだものの、蠱雕の大群は大群過ぎた。弱き者から襲われるのであろうか、あわやシベルはこれまでかと思われた時、老婆が忽然と現われ、それはただ手をさりげなく振っただけに見えたが、蠱雕は踵を返し散っていった。
「どうやら、この小僧が邪魔なようじゃのう」
「そうよ、邪魔ばかりするの。なんとかしてよ」
胡蝶はケルンのことを言ったのだが、老婆の小僧とは、シベルのことであり、胡蝶にとっては、いい大人である青年なのだが、老婆にとって小僧は小僧なのだろう。
「わしが暫く預かろうかのう」
この時点で、老婆の視線がシベルに向けられていることを胡蝶は知った。
「煮るなり焼くなり好きにしていいよ」
これは胡蝶の本心でもあり、老婆に害意がないことを知る判断でもあった。このままではシベルは遠からずこの世を去ることになるだろうし、この老婆の元で何か進歩でもあれば好都合という胡蝶の想いもあった。だが、シベルにとっては辛い日々が続くことになる。




