第1話 胡蝶
第1話 胡蝶
印を結びながら宙を彷徨う「胡蝶」の遥か眼下には、濃い霧の中から見え隠れする激流が迫っていた。眼を上に向けると、そこには既に過去の居場所となった崖の縁が見えたであろう。印を結んでは解いて、異なる印を結び直すことに懸命な胡蝶には、そのような上下のことなどどうでもよく、ただ父の言い付けを守り、実践しているだけだった。印の願いが成就せず、激流に飲み込まれたならば、自分が死ぬのだとは胡蝶には思いもよらぬことだった。
胡蝶は、この時5歳半になろうとしていて、これが3度目の試練となるのだが、4度目の試練は無いも同じだった。確かに、これまで4度目の試練を受けた者はこの集落には存在していなく、正に死に臨む最終試練となっていたのだ。
おそらく赤子の頃から印の結びを母と父の手を借りながら学んできたのであろうが、胡蝶の記憶は、その途中からしかない。乳を飲みながら印を結んだようだが、記憶に残っているのは隣にいた双子の兄のことだけだった。その兄は一度目の試練に合格し、集落の中で更なる学びに励んでいる。兄と会ったのは、乳を一緒に飲んだときだけで、その後遊んだ記憶も、食事を共にした記憶もない。それが当然のこととして育ってきた胡蝶にとって、印の成就が全ての生であった。
胡蝶を崖の上から躊躇いもなく突き落とした父は、71人の子供を持ち、集落の父なるもの七人の一人に数えられていた。何人かの妻を娶り、強き子を育てることが、生きる意味であり、生きる宿命であった。父も何十人という兄弟姉妹を持っていたが、今存命なのは僅かである。父の父も数年前に他界し、孫なる者を持つ長老は1人しか集落に存在しなかった。
この集落では、強き者だけが父となり、愛はよすがにすらならない。ただ一人の長老は、もはや子を為すことを許されず、ただその経験と知識だけが利用されるだけだった。
父の知る限りの近隣世界では「弱肉強食の法」が全てであり、約束などという軟弱な法を知る術もなかった。強き父と母が強き子を産み育て、集落を維持することが定めと知った父は幾人もの子を崖の下の激流に失っていた。
子への試練は3度のチャンスがあり、そのどれかで合格すると、集落の一員と認められる。一度目の試練は、印を結びながら集落の誰かの心を盗めばよい。心を盗まれた者は、試練を受けている者と心で会話し、父なるものに伝える。父は自分の心を解放し、その事実を確かめれば、合格となり、この試練が最も安全で安心なものであった。2度目の試練は3日の間、集落の誰にも触れられないというものであったが、これは「触れる」の程度によっては、致死となることがあった。集落の未だ力の加減の出来ない者は「触れる」と「殺す」の境がわからずにこの試練に参加しているだけだった。
未だ胡蝶の人の姿しか見た事のない父は、その変化に期待を寄せていた。父の頭部は牛であり、身体は鋼のような毛で埋められ、手足の爪は、岩石をも切り裂いた。
崖の上から激流まで10秒足らずのものであり、既に3秒が経過していた。
4・5・6秒と胡蝶になんら変化はなく、忙しく動く手指だけが、父の目には映っていた。
7と数えようとした時、父の目に、陽炎のような錯覚が起こっていた。その陽炎は、胡蝶が発したものか定かではなかったが、8を数え忘れて9に移った時、胡蝶は背に薄い羽根を纏って飛翔していた。
晴れて集落の一員となり父に抱き留められようとした時、胡蝶はそれを拒んだ。拒んだ理由は胡蝶にもわからなかったが、その感情は、ただ受け入れ難いというただ鮮烈なものだけだったようだ。拒まれた父は、それもよしとし、微かに襲う眩暈の中、視野の片隅に映る集落からの炎を視とめた。