表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

深川侵攻

陵辱 汚された記憶

 数日来霙混じりの雪が降り続いている。

 誰もが外に出かけることを億劫に思う空模様だった。

 朝早くに志乃へ千代屋の小僧がびしょ濡れになって直接文を届けに来たが、場所と刻限が書いてあるだけだった。

「拠所無き事情にてお出向き願い上げ候 新之助」

 無視しても良かったのだ。いや、無視するべきだったのだろう。

 駕籠から降りた志乃は、柳橋にある料亭万久楼の玄関の前で逡巡した。

 きっと娘のことでの相談だろうと志乃は雑念を払おうとした。しかし、万久楼の玄関に足を踏み入れた途端、二度と引き返せない奈落へ落ちていくような訳合いのない恐ろしさを覚えて身が震えた。

「茜屋の女将さんでございますね。お連れ様から少し遅れるとお使いが参りました。さ、お上がりくださいませ。お寒うございます。さ、どうぞこちらへ」

 客に気づいた年増の仲居が万事心得た風で志乃を中に引き入れた。

 志乃は二階の突き当たりにある小座敷に通された。

 数寄を凝らした書院風のつくりで雪中南天の掛け軸も床の間に飾られた赤土部釉の山椒壷も部屋に馴染んで一体となっている。案内してきた仲居が誇らしげにさり気なく古丹波焼きの壷の位置を直した。客との話をつなごうとした仕草に見えたが、視線が心の中を凝視している志乃には閑雅な装飾品の風情に浸ることなどできるはずもなかった。

 志乃の様子に不可解な戸惑いを残して仲居が出て行った。

 襖を閉て切られてできた閉塞の中に志乃は取り残された。一人になると今度は逆に迷子が自分の場所を確かめるように、外に向けて視線が部屋の中を無軌道に泳ぎ始めた。

 閉め切っているはずなのに下の庭園から添水の音が微かに聞こえてくる。その音は、段々志乃の心を掻き乱していった。

 時の経過に五感が研ぎ澄まされていくのが怖い。

 お茶を運んで来る仲居の足音にさえ臓腑が飛び出さんばかりに志乃の胸が高鳴る。

 罪悪感はあった。背信かもしれない。

 娘の婿になりたいと紹介された男にこれから会うのだ。

 それも誰にも内緒で出てきた。自分でも軽はずみな行動だと思う。疚しいことはないといえ、誰かに問い詰められても言い訳はできそうもない。

 最近やたらと昔のことを思い出すのは、きっと仙吉に似た新之助のせいに違いないのだ。

 今まさに志乃は、仙吉と過ごした追憶の中に迷い込んでいる。

――だが、新之助は、仙吉ではない。

 そう志乃は無理やり思い込もうとした。

 頭の中じゃわかっている。でも……

(新之助に会えば、私は、失ったものを取り戻せるかもしれない)

 志乃の心が一番熱かった頃を思い出すにつれ、ひどい喪失感に襲われた。この喪失感は突然に沸き起こったのではない。志乃のずっと深い所で永い時を費やし密かに増殖して志乃を蝕んできた。

(私は、この二十年、何をしてきたのだろう?)

 茜屋の娘番頭、女元〆と呼ばれ、先頭に立って采配を振るってきたつもりだったが、今わかった。志乃は霧に覆われたような喪失感を拭い去ろうと、無我夢中で働いてきたのだ。しかし、人に羨まれるほど身代を大きくしても、身体の中から乾いた砂が流れ落ちるように空洞が広がっていく。

『私の失ったものって、何?』


 閉めきった六畳の部屋から志乃は拒絶されているような気分におそわれた。襖も掛け軸も火鉢も全ての調度が傾斜を滑って志乃に襲い掛かってくる錯覚に落ち着かなくなった。

 うつろな眩暈に抗いながらやはり帰るべきだと、腰を浮かせた時だった。

「お連れの方がお見えです」

 辺りを憚る女中の低い声に、平静を保とうと志乃は何度も深く息を吸って咳払いを繰り返した。つまるところ仙吉に瓜二つの新之助はある意味苦手だ。

 かろうじて茜屋の女将としての威厳を取り戻した後、襖が開き新之助が入ってきた。

「こんなところまでおよび立てして申し訳ございません。女将さんにはどうしてもお願いしたいことがあったものですから。もちろん、今日の事はお嬢様のお珠さんにも内緒のことでございます」

 紺の紬の着流しで凛とした新之助は、丁寧に頭を下げた。


(……内緒のことでございます)


 新之助の口から出る声が、仙吉と重なった。

(お三津ちゃんにも内緒で来らさったんらね)

 あれは蒼い月の夜だった。明かりの乏しい暗い蔵の中で志乃の白い手が仙吉の頬を撫でた。仙吉の遠慮がちに震えた腕が志乃の腰にまわされた。志乃は仙吉の胸に顔を埋めた。好きだと言葉で言われなくても仙吉の気持ちがぐっと肌に沁みこんでくる。志乃の腰から力が抜けて体が火照りを覚えた。

 仙吉は、それ以上のことをしようとしなかった。ただ、いつまでも志乃を抱きしめたままだった。

――仙吉のいくじなし……

 志乃にはそれがいじらしいと思いながらも不満であった。ただ、自分の方から仙吉を求めるような浅ましい真似はできなかった。

 志乃は、ふとそんな仙吉を苛めたくなって顔を寄せた。

「覚えてる? あんたがここで昔、泣いてた時のこと」

「お嬢様が作ったむすびが辛すぎたかららて」

 志乃は、仙吉の腕を抓りながら、お嬢様と呼ばないでと甘えた。

「己いら、お嬢様はてっきりずっと辰ちゃんのことを好いていなさるのだとばっか思ってましたて」

 仙吉は、今こうして二人でいることが不安な様子で、志乃の気持ちが信じられないと辰太郎の名を出して問うてきた。

「どうして?」

「だって、辰ちゃんは、いい男らし、喧嘩も強いし、度胸もあるし……」

 志乃は仙吉の口を指で押さえた。

「それに、竹を割ったようなさっぱりした性格だしね。仙吉と大違いだ」

「だっけ、だっけ、なぁしてらろか?」

 だから、なぜと疑心暗鬼になって言葉を接いだ仙吉を志乃は制した。そして幼子に語りかける母のような口ぶりでゆっくりと話始めた。

「仙吉の言うとおり辰ちゃんはいい人だね。本当は優しくて人なんて殴れないのに幡随院の名跡を継ぐために頑張って、……頑張って、……頑張って強くなって、今じゃ喧嘩なんてしなくても睨んだだけで相手が逃げ出しちゃう。相手を殴らなくてもよくなったことを一番喜んでいるのは辰ちゃんなんだよ」

「お嬢様もそのことをわかっておられましたのか?」

 志乃は頷きながら仙吉のがっかりして傾げる首を両手で包むように戻した。二人の距離が息遣いの混ざり合うほど近づいた。

「でも、それだけじゃだめなの。見ている方向が違うのよ。辰ちゃんはいい人、かけがいのない幼友達だけど、それ以上じゃない。私が心から好きなのは、私と同じ方向を見詰めている人」

「お嬢様……」

 斜に差し込んだ月明かりに仙吉の目が潤んで見えた。思わず志乃は自ら仙吉の口に唇を合わせた。震える仙吉の歯と志乃の歯が不器用にぶつかって音を立てた。

「そうだ、仙吉。いい知らせがあるの。今年の茜屋が出す屋形船は仙吉が招待されるそうよ。私も行きたいって頼んじゃった」

「ほんき(本当)らろか? お嬢様」

「またお嬢様って言った……」

 志乃は、さらに強い力で抱きしめられるのを感じた。仙吉の歓喜が伝わってきた。



 仙吉の汗のにおいが鼻腔の奥によみがえって来た。そしてその後に起こった決して思い出したくない船の揺れと花火の音……



 女中が酒と肴を運んで来て、志乃は現実に戻された。

 志乃の前に甘鯛の一夜干し、鰻山椒煮、山椒じゃこ、岩のり佃煮などが所狭しと並べられた。酒は、杉樽の香りがよく移った摂泉十二郷伊丹の下り諸白であった。

 三十前後の女中は志乃と新之助に酌をすると、必要以上な愛想笑いを浮かべて出て行った。何か勘繰ってあんな笑い方をしたのだろうか。

 志乃は顔を上げることができなかった。今飲んだ一杯の燗酒が身体をさらに熱くした。

「どうしてもお願いしたい事って何だい? お珠のことかい?」

 わざと娘の名前を出すことによって志乃は、母親としても自覚を取戻そうとした。自分で聞いていても冷めた低い声色だった。

 あらためて新之助の顔を見た。細面の顔に仙吉よりも秀でた鼻が冷たい印象を与えている。この前は気が動顛していて気づかなかった。仙吉とは、違う。

「茜屋の身代を売って欲しいんで……」

 意想外な依頼に思わず聞き返した。あまりに突飛な申し出に志乃は自分の耳を疑った。

「訳がわかんないねぇ。どういうことだい? 別にそんなことしなくたって、お珠と一緒になれば行く行くは新之助さんの店になるだろうに」

「行く行くじゃあ間に合わねぇんです」

「間に合わない?」

 何が間に合わないというのだ。

 志乃には、新之助の狙いが見えない。ただ茜屋は自分の店だという自負が強い志乃にとって決して面白い話ではなかった。

「それにそんな話は、うちの旦那様にするのが筋じゃないかえ?」

 新之助が鼻で笑ったのを見逃さなかった志乃は、反射的に身構えた。新之助が暗い影のようなものに覆われているように見えて、志乃の背に冷たい汗が流れた。

「あんまり笑わせないでくださいまし。誰が見たって茜屋を仕切っていらっしゃるのは女元〆と呼ばれている女将さんだ。いえ、確かに正式には旦那様にお願いいたしますが、これを見ておくんなさい。どうしても女将さんに了解して貰わなけりゃならねぇんで」

 新之助が、濃紺の袱紗を広げた。中から薄汚れた小さな袋が出てきた。

「なんだい、それは?」

 問い返さずともその汚い袋が何なのか志乃にはわかっていたが、何故新之助がそれを持っているのかわからなかった。

「確かにそれはうちで昔使っていた物さ。着物をつくっていただいたお客様へのお礼の品だよ。しかし、随分古いもんだねぇ。それがどうかしたのかい?」

「さすが茜屋だ。女将さんのお知恵ですかい?」

 新之助は、志乃の問いをはぐらかし、去年の暮れ評判だった『あかね札』を話題にしてきた。値に応じて貰える枚数が変わり、一等は『お伊勢参り』だった。茜屋製富くじである。

「お伊勢参りは『おかげまいり』。江戸から十五日、一生に一度は旅をしてぇとみんな思ってる。家族二人まで同行が許されるとなるとこいつぁ大判振る舞いだ。ところがどういう絡繰からくりか、旅費に小遣い渡しても茜屋の損はねぇときてる。やはりあれも女将さんの思いつきですかい?」

 志乃は、上の空で新之助の話を聞き流していた。膝前でとかれた袱紗にのっている小物から目が離せないのだ。

――私が最初につくった物だ。あの加賀友禅のぼかし模様は少なかったから覚えている。

 志乃の様子に気づいた新之助は、小鼻を小さく鳴らして笑うと、その手垢に塗れた袋を志乃よりも先に取り上げた。

「親父が後生大事に肌身離さず持っていた香り袋でさぁ、もうすっかり匂いなんか消えちまってますがね」

 我を忘れて膝を乗り出した志乃であったが、心の動揺を押さえながらも目の前にいる男と記憶の中の仙吉を比べて見た。長い沈黙が続いた。

(そっくりだ。目も口も、そして声まで)

「……やっぱり仙吉なのかい? あんたのお父っさんは!」

「今じゃ千代屋の政五郎と名のっちゃいますが、ご察しの通り昔はそんな名で呼ばれたこともあるそうでございます。理不尽にも茜屋をおん出された仙吉が俺の親父で」

 新之助の下から睨む凍てつく視線を志乃ははじき返した。

 理不尽にも追い出されたなどという台詞は、仙吉自身ならともかく、息子といえど軽々しく口に出して欲しくない。

「お珠とのことは、茜屋に近づくための口実かい?」

「まぬけな浮世絵の師匠に取り入って、紹介させていただきました。随分金を使わせていただきましたが、期待通りやってくれました」

「娘はその気になってるよ。どうしてくれるんだい? 事と次第によっちゃ許さないよ」

 志乃は思わず語気を荒げた。

「すぐに忘れますよ。誰かさんやうちの親父がそれぞれ別の家庭を築いたようにね」

 新之助の冷めた笑い顔に悪寒が走った。それは志乃だけでなく父親である仙吉への恨みも汲み取れる悪意を含んでいた。

「親父は、もうそんなに長くねぇ。おいらせめて最後は、親父を茜屋の畳の上で死なせてやりてぇのよ。親父を追ん出した茜屋の畳の上でね。そうして親父のこと、見返してやりてぇんだ」

「見返す? それで親孝行でもするつもりかい。仙吉が喜ぶとでも思っているのかい?」

「決まってるじゃねぇか、そんなこと。誰だってあんな仕打ちを受けりゃあ。親父は真っ当に商いで茜屋を追い越そうと無理して倒れちまいやがった。親父のやり方だと、何年かかったって茜屋を飲み込めねぇ」

「あんたに聞いてんじゃないよ。仙吉はどうだって聞いてんだよ!」

 すっくと志乃は立ち上がった。

「どこへ行くんでぇ?」

「千代屋だよ。仙吉に直接会って確かめるんだ。止めないでおくれ」

「まだ話は終わっちゃいねぇ!」

 出て行こうとした腕を後ろから強い力でひかれ、重心を失った志乃は新之助の腕の中に倒れ込んだ。そのまま羽交い絞めにされるのを抗おうと身をくねらせ乱れた裾から白く柔らかい脹脛を晒した。

 新之助に口を吸われた。

「何すんだよ!」

 そう叫んだ時には、志乃の右手が新之助の頬を張っていた。

 新之助は怯む様子も無くまた志乃の上に覆いかぶさった。再び新之助の頬が激しい音を立てて鳴った。何度も何度も音が響いた。衿からぐっと差し込まれた新之助の手に志乃の乳房が鷲掴みにされた。

「まったく娘みてぇな身体をしてやがる。親父は、この身体を抱けなかったことにまだ後悔してるんだぜ」

 逃げようとしても上に乗られた新之助から志乃の自由は奪われたままである。

「親父は、いつも寝言で『お嬢様、お嬢様』って繰り返しながら泣いてやがった。朝起きた時、お嬢様って誰だと聞いたら、ひどく慌てた親父は俺をぶん殴りやがった。おいらが九つの頃だ。おっ母が寂しそうな顔をしてたのを覚えてるぜ。女将さんのことだったんだな」

 裾を割られて新之助の腰が志乃の中へ落ちてきた。「やめな!」と強気に応戦していた志乃の声が「やめて……」と哀願するように変わった。

 新之助が力を込めた。

 志乃は息を強く吸い込み仰け反った。

 抗うのに無我夢中で時間の経緯がわからなかった。ただ下腹に熱いものが注がれて、志乃の体を嵐が通り過ぎた。志乃の頭が混乱し、心を殺されて放り出された。

 全身の力が抜けてしまった志乃は仰向けになったまま息を整えようとした。目を閉じると溜まっていた涙が頬に滲んだ。

――こんなことされにここまで来たんじゃない

 終わった…… と思ったのは志乃の思い過ごしだった。小さな悲鳴が自然に口から漏れた。新之助から着物の裾を乱暴に引き上げられ、体を返されると汗ばんだ志乃の白蝋のように白い臀が新之助の目に晒された。

 志乃の小振りだが柔らかい両の肉が新之助の手に強く掴まれて思いっきり横に大きく広げられた。

「恥ずかしい穴が丸見えだぜ」

 唾を吐きかけられた。

 体中に虫唾が走り、顔から火の出るような恥ずかしさに払い退けようともがくも足の上に乗られた新之助に殴られて手を出せない。

 新之助の口から出てくる野卑な言葉に志乃の精神が打ちのめされ衰弱していく。

 新之助は笑い声を高らかに上げながら志乃の臀部を何発も平手で張った。志乃は声も出せず袂を噛んで耐えた。新之助の増幅していく怒りが打たれるたびに伝わってくる。

 父親が母親を受け入れなかった恨み――

 その二人の子として生まれた恨み――

 親に可愛がられた記憶のない恨み――

 そして商人として父親を抜けない焦りと苛立ちが、志乃を責め立てる。

 私は…… 私は…… 私が仙吉を苦しめたの?

「もう、やめて!」

 志乃が低い声で乞うた途端、腰を引き上げられ四つん這いにされた。すぐに新之助が後ろから入ってきた。

「どうだ。雌犬になった気分は? お珠もこうされると喜んでいたぜ」

 娘の名を聞いて、頭の中が白くなった。突き上げられながら志乃は首を曲げて新之助を睨んだ。心底怒りが噴出してきた。

「娘も良かったが女将さんもなかなかなもんだ。おらおら、申し訳ございませんでした、私が悪うございましたって泣いて謝りなよ。そうしたら許してやるぜ。それで茜屋の身代を渡しな。只とは言わねぇ、そうさな、親父に渡した五十両ってとこかな」

 新之助の若い荒々しさに志乃は歯を食い縛って耐えた。気を行かせまいと憤りを募らせた。しかし、陵辱されながら志乃は羞恥と恥辱、そしてあまりの憤激に気が遠くなっていく。

 下が騒がしくなった。誰かが私を捜しているようだ……

 わたしは、ここにいるよ、た……すけ……て……

 遠ざかる意識の中で聞き慣れた声が聞こえてきた。


約束 押さえきれぬ怒り


 いきなり飛び込んできた三津が、志乃の上に被さって腰を動かしていた新之助を突き飛ばした。そのまま志乃を抱き起こすと志乃の頬を激しく平手で張った。

 大きな音が六畳の小座敷の中を反響した。

 力なく一点を見詰めていた志乃の目が急に慌しく動いた。

「何をやってるんですか? 早くに千代屋の小僧が訪ねて来たと思ったら、女将さんがひとりで万久楼に入っていくのを見たって言う人がいたんだ。嫌な予感がしてとんできたら、こんな逢引きみたいなことをして。女将さんはお珠ちゃんのおっ母さんじゃありませんか」

 三津の顔を見た志乃はしどけない姿のまま大声をあげて三津にしがみついていった。

 仙吉……仙吉……仙吉……仙吉……

 志乃はまだ夢の中にいるのか同じ名をブツブツと繰り返している。

「もう、二十年以上も前のことじゃありませんか」

 三津は子どもをあやす様に志乃を受け止めると、そのまま新之助を敵意丸出しで睨み付けた。

 新之助は、立膝をついて空惚けた顔をしている。

「おまえさん、どういう料簡なんだい? ちゃんと説明おしよ!」

 新之助は、茶碗で冷めた酒をぐっと喉に流し込んだ。

「俺のおっ母さんは、とうとう死ぬまで本当の女房にはなれなかったんだ。どうしてだか知ってるかい? 親父も親父だ。千代屋本店の大旦那様からの縁談を断りきれず夫婦になったくせに、女将さんのことを一日たりとも忘れたことはねぇ。挙句の果てにおっ母の名前を間違えて呼んじまう。お志乃ってな」

 三津の胸で泣いていた志乃が顔を上げた。三津も思わず新之助に向き直った。

「まさか! あんたの親父さまは、千さんなのかい?」

 三津の目と口が大きく開かれた。

「気安く呼ぶねぇ。手前等親父を追い出した張本人だろうが!」

「ろくすっぽ知りもしない若造が、知ったかぶりの口をきくんじゃないよ!」

 脹よかな身体をさらに大きく膨らませた三津が恐ろしい形相で怒った。

「女将さんと千さんがいったいどんな想いで別れたと思ってるんだい。この唐変木が!」

 志乃が三津を制して前に出た。三津の凄まじさで冷静な心を取戻せたようだ。身頃の乱れをさっと直すと茜屋の女元〆の顔に戻った。

「私を虐めて、おっ母さんの恨みは晴れたかえ?」

 新之助は前も肌蹴て弥蔵を拵え、そっぽを向いている。返事はなかった。

「私を怒らせちまったね」

 志乃は小さく呟くと袂の中で腕を組み、睨みを利かせた

「お父っぁんから聞いたことがあるかい? 浅草寺の境内で仙吉と別れた朝のことだよ。私が最後に言った言葉を教えてあげるよ。江戸に戻って来たら、ぶっ潰してやるって言ったんだよ。ぶっ潰してやるよ! 千代屋をぶっ潰してやるからね。覚悟をしっ!」

 新之助が怒りで顔色を変えて立ち上がった時、志乃は既に身を翻し小走りに階段を降りていくところだった。すぐに三津が続いた。

「潰せるもんなら潰して見やがれ! 面白れぇじゃねえか。その勝負受けてやるよ。返り討ちにしてやる。ほえずらかくな!」

 新之助の罵声が聞こえた。

 いつの間にか表通りは本格的な雪に変わっていた。

 積もり始めた雪に踝まで埋まる歩きづらさがもどかしかった。志乃は辻駕籠を二挺見つけるや片方に三津を押し込んだ。

「花川戸は茜屋の女将さ。駕籠代は、はずむよ!」

 きりりとした声で駕籠かきに行き先を告げた。

 駕籠は柳橋から一気に永代橋を目指した。

 永代橋を渡れば、門前仲町の千代屋はすぐだった。


侵攻 岡場所深川


 先回りして戻った新之助の制止を振り切り、志乃と三津は千代屋の暖簾をくぐった。

 行く手を阻もうとする手代達は、般若の形相に変わった志乃に恐れをなして後じさった。

 勝手に当たりをつけ奥の襖を力一杯開けると、すえた臭いが鼻をついた。まさに病人の臭いであった。

「なんでこんな風通しの悪い部屋に寝かせてるんだい」

 志乃は、枕元に片膝をついて顔を覗き込んだ。仙吉の面影を微かに残している痩せさらばえた老人の顔がそこにあった。骨が皮を着ているようだ。志乃とひとつしか違わないはずなのに、重い病が仙吉を老衰させているのだろう。顔の右半分が脱力して表情が死んでおり、半身の麻痺もひどかった。起きているのか意識がないのかわからない。しかし、ひどく苦しんでいるのは確かだ。

――顎で蝿を追うような病人になっちまってさ。わたしも昔と変わっちまったかい?

 志乃の中には十八の仙吉がずっと歳を取らずに生きていた。会うのではなかった。素人目にも長くは持たないだろうと思った。

 入ってこようとする新之助を三津が怒鳴りつけ体を張って押し返している。二人の罵声を背中で聞き流しながら、志乃は仙吉の耳に顔を寄せゆっくりとした低い声で仙吉に話しかけた。

「働きすぎで頭に血が詰まっちまったんだね。こんなになるまでほっとかれて、本当に息子に嫌われちまったんだ、仙吉は。おっ母さんのことで相当恨み言を聞かされたよ。馬鹿だねぇ、そんなに昔に縛られていたのかい?」

 とめどなく溢れる涙を志乃は拭おうともせず、変わり果てた仙吉へ優しく慈しむように語り続けた。

「あたしといっしょだね。仙さん、ひょっとしてあんたも私と同じものを失くしちまったんじゃないのかえ?」

 志乃はしばらく沈黙して仙吉の顔を眺めた後、背を伸ばすと後ろの新之助にも聞こえるほどの強い声を出した。

「でも、覚えているだろ? あたしゃ容赦しないよ。約束だ。あんたのこの店を潰して見せるからね。悔しかったらかかっておいで。いつまでも臥せってるんじゃないよ!」

 今まで口を開いてぜいぜいと短い息をしていた仙吉の左目がかっと開いた。涙が皺だらけの頬に滲んだ。喉の奥から音が聞こえるが声にはなっていない。

 志乃が見えているのか、声が届いているのか定かではなかったが、顔に赤味が差してきたのは確かだ。

「そいつは無理な相談ってもんだ。悔しいが親父のつくった千代屋の土台は、ちょっとやそっとじゃ崩せねぇ。それに恋焦がれた男の城を攻められるのかい?」

 顔を真っ赤にした新之助が三津を押しのけて志乃の後ろに立った。

「今じゃ腐ったあんたの城だろ」

 志乃はずっと肌身離さず持っていた自分の匂い袋を取り出して、仙吉の弛んだ皮と骨だけの右手に握らせた。

――仙吉…… これから私の失くしたものを取り戻す戦さを始めるよ。止めることができたら、あんたの勝ちだ。

 仙吉の手がかすかに握り返してきたような気がした。



侵攻 志乃の訓示


「赤ん坊から腰の曲がった年寄りまで、深川の女という女たちを全員取り込んじまうよ! 門仲に目障りで邪魔っけな小間物屋があるけど、潰しっちまいなっ!」

 茜屋の大広間に集めた八十名の男達を前に志乃が立ち上がった。黒羽二重の五つ紋を着た志乃の勢いに、臙脂の鮮やかなお仕着せ半纏の男達が一斉に野太い気合の入った返事で座敷の空気を振るわせた。

「詳しいことは、大番頭の喜兵衛さんから指図があるから、よっくお聞き! これは戦さなんだ。性根をすえてかかるんだよ!」

 新之助の噂を聞いている何人かが訝しげに首を捻るのが見えた。その内のひとりに志乃は腕組みをしたまま歩み寄った。

「なにか言いたいことでもあるのかい?」

 もうすぐ小番頭に昇格する予定のその男が、言い淀みながらも志乃をしっかり見て答えた。地味な性格で出世が遅れ歳も四十前だが、実直で正直な仕事をすることでじわじわと評判を上げてきた男である。

「千代屋の若旦那は、……お嬢様のお相手では?」

「破談にしたよ」

 すかさず応じた志乃の勢いに声を発する者はいなかったが、破談という言葉が大広間の空気をざわつかせた。

「調べてみたんだ。この中の何人かは手伝ってくれたね」

 数人の手代が黙したまま頭を下げた。志乃から直々に指令を受けた彼らは幾分誇らしげであった。

「どうも最近の千代屋の評判がよくない。そもそもあの店の先代政五郎さんは、越後生まれで昔は仙吉といってね、お前らも名前ぐらい聞いたことがあるだろう? 茜屋が大きくなる土台を築いたお方だ」

 茜屋の仙吉――

 古い馴染みの客や古参の奉公人の口に時折上る伝説の名だ。

「そのお方が上方で修行し、お江戸に戻ってから深川にどっかと根をおろし渾身込めて店を開いた。小間物商いの千代屋をね。古くからある店とも喧嘩せず譲り合い、お互いにしっくりとつりあいを取りながら力を合わせて店を大きくしていったんだ。腰の低い旦那様だとなかなかの評判だったらしいよ。その仙吉……いや、政五郎さんがひどい病に倒れなすった。

 その後を継いだのが息子の新之助さ。親の心子知らずっていうか、惣領の甚六っていうかどうしようもない男だ。代替わりしてからというものの、古参の番頭や気の利いた手代が新しい主と合わずに何人かやめたらしい。お客からの苦情もこのところ増えている。おまけに遊び人風の男達が我がもの顔で店に出入りするようになっているようだ」

 志乃は静かに坐中を睨み回し、語気を荒げた。

「そんな店が、この江戸の中にあっちゃいけないんだよ。そんな店をこのままのさばらせておいていいのかいっ!」

 志乃は、しばらく間を置いた。全員に考える時間を与えた。それから静かに話し始めた。

「私は、私の目の黒いうちに茜屋を江戸一番の店にしたいと思っているんだ。駿河町の越後屋、通一丁目の白木屋、通旅籠町の大丸屋、上野広小路の松坂屋さん以上の大店にね。私はお前達を小さい頃から鍛えてきた。辛くて逃げ出したい時もあったろうが、よっく辛抱してついて来てくれたね。ありがとうよ。お前達は自信を持っていい。どこに出しても恥ずかしくない子に育った。この私が保証するよ。みんなもっと力をつけたら将来は茜屋の暖簾を渡すから江戸中に散って店を出すんだ。暖簾の下にはお前達の名前を入れる。昌吉は、茜屋昌吉店。歳松は、茜屋歳松店だ。お前達の店だよ。お前達が切り盛りする店だ。それで江戸中に真っ当な本物の商いを教えてやるんだ。私の教えた茜屋の商いをね。さ、まずは手始めに深川を呑み込むからね」

 奉公人達の目が輝きを増した。

「本当ですか? 女将さん。俺達の店が持てるんですか?」

「茜屋…… 茜屋米吉店だってよ。そして、おめぇは朝太朗店だ。ちっきしょう! 己いら日本橋に店出すぜ」

「日本橋だって? あそこはもうだめだ。これからは、品川だ」

「己いら、会津に帰って、店を出す。おっ父とおっ母をこき使ってやんだ。こき使って、こき使って、今よりずっと幸せにしてやる」

「そうだ、日本全国茜屋にしちまおうぜ」

「そうだ、そうだ。江戸だけなんぞ、小せぇ、小せぇ」

 揃いの半纏を着た男達が一斉に立ち上がって、志乃を取り囲み、咆哮ともつかぬ声がいつまでも止まなかった。


 日を空けず、すぐに志乃は番頭等と相談し手代、小僧達を選び抜くと深川一帯の地区割りを決め行商に出した。遊郭を中心に四十八手の鮮やかな吉祥柄で手摺り友禅の緋襦袢を目玉に通常の半値で斡旋させた。それでも金のない女たちには金利を取らずに掛売りを認め便宜をはかるよう指示を出した。

 高級品しか扱わない茜屋の評判を知っている女郎たちは我先にと買い求めた。

「噂には聞いてたが、こいつが茜屋の赤かい? ため息がでるほど渋いねぇ。でも悔しいがこれでも私にゃ高値の花だね。一生に一度はこんな柄で着物を作ってみたいもんだ。いい夢を見せてもらったよ」

 寂しそうな顔をした若い女郎が手代の前へ反物をそっと押し返した。

「気に入っていただけましたか。お姉さんにその赤はよっく似合ってございます。そうだ、こうしましょう。お客様をお取り持ちいただいて決まれば、さらにその割り引いた値を半分にいたします。三人決まればただにしますよ。私とお姉さんだけの内緒の約束です。誰か存知よりの方はいらっしゃいませんか」

 女郎の顔がぱぁっと輝いた。

「あたしゃこう見えても顔が広いんだ。筆と紙を貸しな。さ、早く、早く」

 紹介から成約で割り引くというのは、事前に志乃と全員で確認しあった既定の方針である。皮肉なことにかつて仙吉の編み出した方式であった。



侵攻 早起きは十文の得


「茜屋の大盤振る舞い」は口から口へ伝わっていった。

 婀娜で粋な岡場所深川進出を目論む浅草一の呉服商茜屋の口明けであった。

 さらに門前仲町の一角で空き家になった小さな店を借りて出店した。信頼のおける番頭を通わせると、千代屋の五分から一割引で商いを始めた。

「千代屋と目と鼻の先だが、どうだい?」

 視察に来た志乃は番頭の憂鬱な顔を見て売れ行きを聞いた。

「女将さん、申し訳ございません。健闘しちゃあいるんですが、千代屋の間口十二間、売り場の奥行き八間。茜屋本店の半分もありゃあしませんが、何しろ急ごしらえのこっちはその半分以下。融通がききません。あ、申し訳ございません。決して言い訳しているつもりは……」

 口の滑った番頭は慌てて恐縮した。滅多に弁解する男ではないことを志乃は知っている。志乃に見込まれた男は志乃が何を考えているかわかっているので余計焦っているらしい。

「もっともだ。でも、ここしか空いてなかったからねぇ。頭を使いな。売り場を増やせばいいんだろ。何もここだけで勝負するこたぁないさ」

 若い番頭は、頭を捻って厳しい顔をしたが、すぐに「わかりやした」としっかりした返事を志乃に返した。

 考え抜いた番頭は、すぐに連れて来た手代と小僧に柳行李と特製の幟を担がせ深川中の異業種の店を廻らせた。大通りを中心に、通りから横道に入ったところまで米屋、味噌屋、醤油屋、雑貨屋、羅宇らう屋などあらゆる店の軒先を借りる交渉を続けた。

 茜屋の手代達は、預かって貰うだけでいいから置かせてくれと頭を下げて歩いた。委託して残ったものはすべて引き取り、売れた分はそれ相応の対価を支払うと約定書を交わした。

 志乃に育てられた手代等の熱心さと如才なさも手伝って予想したほどの苦労もせず協力が得られた。商売で絡むことはないが一人勝ちに深川中を跋扈して歩く千代屋をよく思っていない店が多かったこともうまく作用した。

「こんな紅や白粉は扱ったことがねぇが、売れるのかい?」

 味噌屋の軒先に「茜屋よろず小間物出店」の幟を縛り付けていた手代は、そう聞かれてにっこりと微笑み一枚の引札を渡した。

「これが早朝深川中に撒かれます。この引札を持ってきたお客さんには、そこの値からさらに十文引いて売ってください」

「早起きは、十文の得ってかい。面白れぇこと、考えるじゃねぇか」

「値引いた分はお客さんからの引札の枚数で埋め合わせしますから決して損はさせません。黙ってても売れるよう、こちらで工夫いたしますので大船に乗ったつもりで任せてくださいまし」

 三日に一度、安売りの案内に三千枚の引札が蜆売りの声よりも早く、早朝の深川界隈へばら撒かれた。

 千代屋の包囲網が完成した。商品を露出できる売り場の広さは、千代屋の二十倍以上に匹敵する計算である。

 極め付けは、茜屋から選りすぐって連れて来た手代達の役者と見紛う美男振りであった。その手代等が短期間のうちに紅や白粉の知識を徹底的に叩き込まれていた。特に笄や簪などの装飾品を扱う秀次の人気が日毎に高まっていった。

 さらに、応援に呼んだ茜屋小町には高額の買い物をしたお客に対してお茶と菓子を振舞わせた。流行の着物柄を着たその小町娘がさり気無く身に着けている櫛や簪、紅や白粉が話題になって売り上げに貢献した。

 若い娘は茜屋深川店の手代見たさに、男たちは思いを寄せる娘や女郎衆を引き連れて小町娘の前で見栄を張ろうと連日茜屋の出店を賑わす。

 すべて「深川を茜色に染めるよ!」と熱く指図する志乃の企てである。


 それに対し志乃を甘く見ていた新之助は、焦って在庫分の値下げで事態を打開しようと図った。

 一回り大きな値札に朱書きでどんどん茜屋よりも安い値を書き入れていく。その値で馴染みの客への行商を開始した。

 ところが行く先々で機動力と物量で上回っている茜屋とぶつかっていく。何より攻めているのは茜屋である。茜屋の手代達は、皆志乃に鍛えられた一筋縄では行かない若者達であった。千代屋の手代に対して値下げ合戦や景品合戦へとまるで蟻地獄のように巧妙な手口で誘い込んでいく。

 客を取られるという恐怖心が無意識に働いたのか、千代屋では元値を割ったものまで出る始末であった。

 志乃が託しただけあって怜悧な番頭は、千代屋が元値を割ったと見るや上手に自店の価格を調整して、客を千代屋へ誘導した。

「いえいえ、手前どもではこの値が精一杯でございます。遠慮なさらずに同じ品なら安い方をお選びくださいませ。それがお客様のため、また、どの店も繁盛することで深川が栄えてまいります。私どもも五日後には長崎より紅珊瑚の細工物が入荷いたします。精一杯勉めさせていただきますので、千代屋ともども御贔屓賜りますようお願いいたします」

 愛想笑いこそしないが役者まがいの若い番頭は、男気があると評判になった。その噂の陰で、千代屋が売れば売るほど赤字になるという構造をそつなく作りあげていった。

 流れが変わり、客が戻ってきたと無邪気に活気づく千代屋も夜になって算盤を入れると利益がないどころか損失を生んでいることに青褪めた。




侵攻 襲撃


「裏地は金通しの生地で、裾にたっぷり綿を入れとくれ」

 東雲楼で板頭と呼ばれる最上位の女郎、愛菊が紅色の緞子の地織りに鯉を金銀糸の糸で刺繍した高価な内掛けを予約してくれた。池の外では生きられぬ鯉に我が身を重ね合わせた女郎の覚悟なのだと問わず語りに笑った。

「鯉の滝登り、まさに板頭の愛菊姉さんにぴったりでございます」

 深川常盤町を割り振られた手代の誠吉は、畳に手をついて礼を述べた。

「照れるじゃないか、煽てるんじゃないよ。しかし、なんだねぇ花川戸の茜屋ともあろう大店が、どうしてこんな所まで背負い商いに来なすったんだい? わざわざこんな深川くんだりまで出かけて来なくてもお客が毎日ひっきりなしだろうに」

 蔓草を図案化した茜屋の定紋を半纏の襟に入れた若い手代が愛想良く頭を上げると、大きな買い物をしてすっかり打ち解けた気のいい女郎の心が開いた。

「実はここだけのお話ってことで聞いてください。ぜひとも皆様には内緒に願います。今度、富岡八幡宮の近くに小間物屋茜屋深川店を出そうと思っておりやす。小間物と申しましても呉服との合わせ売りで、ちょっと変わった趣向にしたいと考えております。開店の暁にはぜひご贔屓をくださいまし。今日はその顔繋ぎでして」

 愛菊が危うく飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

「千代屋に張り合おうってのかい? あきれ蛙の頬かぶりだね。悪いけど冗談は顔だけにしときな。あたしゃ五月の鯉の吹き流し。口先ばかりではらわたはないからポンポン言わしてもらうけど、いくら茜屋って言ったって千代屋の牙城を崩すのは、ちと難しいや。悪いことは言わない。大怪我しない内に花川戸へ帰ぇりな」

 話好きの板頭だった。お茶を酒にかえて手酌で舌を滑らかにするように潤した。

「もともと千代屋も他所からこの深川に入ってきた新参者だが、先代の努力でしっかりこの土地に根付いちまった。今じゃ岡場所の女達の痒いところに手の届く御用達だよ。何でも噂じゃ、千代屋の帳場には深川中の女達の趣味嗜好をまとめた書付が束で積んであるっていう話さ。何年何月何日に何を買ったかってこともね」

「客の帳簿…… そんなものがあるんで?」

 目の前の女が冷ややかに笑った。

「わちきのことも書いてるはずさ。仲の良かった幼馴染の姉さんが二年前労咳で死んじまってね。吉原三年、岡場所ニ年、ござを抱えて夜鷹が五年って惨めなもんさ。去年の盂蘭盆会に浄閑寺さんへお参りに行った帰り厄落としにって千代屋で鼈甲細工の簪と帯留めやらなんやから二両と一分と二百文で買ったんだ。一度書かれちまったら、季節ごとに千代屋の若い衆がご機嫌伺いにやって来るよ。どこで調べたのか、わちきの誕生日にお祝いを持ってきた。たいしたもんじゃないよ。赤い飾り房のついた筥迫はこせこさ。自分でも本当はいつ生まれたのかなんて覚えちゃいないってのにね。ついまた買っちまったよ。とんぼ玉のかんざしと刷毛を二三本ね」

「……はぁ、ついまた買っちまったんですね」

 溜息を吐きながらも誠吉は体の芯が熱くなった。

 筥迫は紅やお守り懐紙などを入れる化粧小物入れである。あらかじめ中に何かを入れて渡したらどうだろうか? 茜屋らしくて喜ばれるもの。只で差し上げるものだからお金を出して買うほどではないにせよ貰えば嬉しいものがいい。誠吉の頭の中に閃いたものがあった。

 誠吉は、早く店に戻って中番頭に相談したくなった。

――しかし、まるで茜屋と同じだ。

 客筋人別帳の使い方のことである。誠吉の生まれる前の話だ。かつて、茜屋の若い手代が客の覚えを書き留めていた。それは見事なほど微に入り細を穿つ内容だったという。それを偶然目にして着想した当時の大番頭が店の者全員で使えるように改良し、今では茜屋一番の至宝となっている。正しい使い方をすれば幾らでも利益を生む打出の小槌だ。

 その大番頭は、早くに独立して人形町で「花信風」という呉服屋を営んでいるらしい。花信風とは、花の開くことを知らせる風である。自分の名前から信の字のつく屋号を考えたと謂われている。

 まめに客の記録を取る店は他にもあるかもしれない。だが活用の仕方が難しいのだ。それを肌で知っている誠吉は、会ったことのない仙吉と信蔵という茜屋伝説の名に思いをはせた。

 しかし、何故二人とも茜屋を辞めたのだろう。店の古老も何も教えてくれない。女将さんと力を合わせればとんでもなく大きな江戸一の呉服屋になっていたかもしれないのだ。

 女将さんが鬼で二人が金棒だ。

 なのに一本は人形町の商売敵。

 そして、もう一本の金棒を今茜屋の総力でへし折ろうとしている。

「そんなこまめな商売に元からあった小間物屋はみんな店じまいさ。茜屋も浅草界隈じゃ立派な大店で町家の、それも素人娘相手に綺麗な着物を売りつけるのが得意かもしれないが、この深川の女はちょっと事情が違うってもんだ」

 『素人娘』と吐き捨てた板頭の言葉に誠吉は、茜屋を見くびられたと思う以上に怨念のこもった響きを受け止めた。

 苦界に落ち、板頭まで上り詰めた女の気位と自尊心、それに相反する自由な浮世に住む未通娘おとめ等への羨望と嫉妬が入り混じった青く冷たい焔が、狭い女郎部屋いっぱいに広がったような気がした。

 誠吉は、目の前にいる年上の女が堪らなく愛しくなった。

(己いらの力で精一杯立派な内掛けを作ってやるよ、姉さん。そんじょそこいらの町娘が裸足で逃げ出すような、吉原の花魁にだって負けねぇ内掛けを姉さんに着せてやる)

 そう心の中で叫んだ誠吉は、思わず膝の上の握りこぶしに力が入った。

「まだ、板橋や千住ならとにもかくにも、千代屋の膝元の深川を攻めるってぇのは、あんたにゃ悪いけれど茜屋のお偉いさんに考えがなさ過ぎるよ」

 誠吉は可笑しさをかみ殺して頭を掻いてみせた。この仕事に入る前、愛菊の台詞をそのまま中番頭にぶっつけたのだ。いきなり頭を殴られた。「やる前から、あれこれ言うんじゃねぇ。与えられた仕事を精一杯やってから、あらためてそう言いな。おまえが知恵絞ってそれでもできねぇってんなら、その時はゆっくり話を聞いてやる。男の約束だ」

 誠吉は、中番頭に男の約束を果たしたくて、今頑張っている。

「それに千代屋の若旦那ってぇのがちょっと冷たくてなかなかの男前でさぁ、そいつ目当てにやってくる客も多いっていうじゃないか。わちきはあの手の男は嫌いだけどね。あんたも若くっていい男だけどまだ遊びが足りないよ。肩の力を抜かなきゃ。なんてたって小間物屋ってのは女商売さね」

 一息ついて板頭は笑いながら茶碗に満たした酒を飲み干した。

「それでもまさかのまさか、千代屋を黙らせることできたら、あたしゃ大川に石を流して葉っぱを沈めてみせてやるよ」

 正直でお節介の過ぎる女郎の忠告だった。

「そのまさかっていう坂を越えてみたいんで。ご贔屓にしてくださいまし」

 下から見上げる手代の真剣な表情に、板頭が口に手を当てて笑いを飲み込んだ。

「おっ、言ってくれるねぇ。誠吉さんって言ったかい? 気に入ったよ。あんたもこの東雲楼の愛菊姉さんのことをご贔屓にしておくれ。どうだい? 遊んで行くかい? 今夜は特別、お代は要らないよ」

「滅相もございません。お姉さんはあっしにゃ過ぎたお方です。残念だがまだ立ち寄らなきゃならねぇ約束もございますので。きっと吉原にも負けねぇ内掛けを作ってご覧に見せます」

 板頭の流し目を鍛えられた憎めない愛想笑いでかわした手代の誠吉は、茜屋の屋号を刻印したつげの櫛と蔓草を模った金の根付を差し出して深く頭を下げた。


 誠吉が東雲楼を出るといつの間にか月が隠れて小雪が舞っていた。

「寒いはずだぜ」

 背負い直した誠吉の行李の中には、高価な反物が何本か入っている。その内の今日売れた二本を、客の寸法を書いた紙と一緒に中番頭の斉蔵へ渡すまで今日の仕事は終わらない。

 仕立て上がった着物を届けた時に見せる客の嬉しそうな顔が誠吉の頭を掠めた。

 値引きしているとはいえ高額の注文を取ったことに、誠吉は雪を融かすほどの胸の熱さを覚えながら帰りを急いだ。

――昨日に続いて上がりの額はきっと俺が一番だろうな

 昂って慢心した心が、雪で人通りの少なくなった夜道の気構えを鈍らせたようだ。

 深川南森下町から長慶寺の横を抜けて弥勒橋に差し掛かろうとした時、つけてくる数人の足音に気づいた。

 誠吉は立ち止まり背中の荷物を背負い直すふりをして周囲の気配を探った。誠吉に合わせてついて来る足音も止まった。確かに自分に向けられている敵意に満ちた荒々しい気を感じる。別に掛取りに回っている訳ではないので懐の巾着にはまともな額の金子は入っていない。そうなると行李の中の高価な反物が危ない。

 体も小さく腕力に自信のない誠吉は、落ち着いて傘をたたむと柳に積もった雪が垂るのを避けるようにして一気に駆け出した。

「待ちな! 茜屋の小僧だろうが」

 険のある声が追いかけてくる。誠吉は振り向きもせず提灯を放り出して速度を上げたが、すぐに前へ回りこまれ、そのまま人影のない五間堀河岸に無理やり引き込まれた。暗い川は雪を飲み込んでか冷たい風を吹き上げ、水かさを増している。

「誰に断って深川で商売してるんだ!」

 いきなり殴られた誠吉は口の中を切った。同時に後ろからも腰を何発かしたたか蹴られ、激痛にのたうちまわりながらも背負った行李を本能的に守った。

「てめぇら、誰に頼まれた? まさかこんな卑怯な手を千代屋さんがなさるはずもねぇ。ただの物取りか!」

 声を震わしながらも誠吉は、身構えて遊び人風の五人を窺った。

「千代屋なんぞしらねぇ」

 即座に否定されたが、よく見るとそのうちの二人は凄みを効かせようと肩をいからせたり懐手に弥蔵を拵えたりはしているものの板についてはおらず、千代屋という言葉に反応して動揺を隠そうとしていた。

―あの二人は、きっと千代屋の手代に違げぇねぇ。あとの三人は雇われ者か? …… それにしても五対一だ。敵わねぇや。かといってこのまま川に飛び込んで逃げたとしても、この寒さだ。生きちゃいねぇだろうしな。だからおいら番頭さんに言ったんだ。最低二人組で歩かせてくれって…… それを深川は広いからなんぞとぬかしやがって

 千代屋に喧嘩を売って歩くような商売を仕掛けている以上、いつかはこんな目に合うかもしれないと覚悟はしていたものの実際遭遇してみると体の震えが止まらない。

―あの時、番頭さんは、「心配するな。ちゃんと女将さんが手は打ってなさる」とか言ってたが、いったいどんな手を打ったんだい。

「言わんこっちゃねぇや」と誠吉が小さく呟いた時、五人の中で一際残忍刻薄な面構えの男から襟首を締め上げられた。

「よそもんが深川で商売するときの挨拶の仕方を教えてやろうじゃねぇか。まずその行李の中の反物を渡しな」

 その細く吊りあがった狐のような目の男が、懐の中から匕首を引き抜いて誠吉の顔の前でひらひらさせた。口元が異常なほど楽しそうに笑っていて、吐かれる息が酒臭かった。何をしでかすかわからない危険な臭いだった。

「……何を……する……って言うんだ」

 匕首の刃が乏しい光を集めて鈍く光る。誠吉の背中に冷たいものが流れ、死を予感した。

「その反物でおいらの褌をこさえようと思ってよ。なかなかいい考えだろ? 絹の褌なんて江戸中探したってそうあるもんじゃねぇだろうな。おめぇといっしょに切り刻んでやろうじゃねぇか」

「てやんでぇ、こいつは東雲楼の板頭愛菊姉さんが生半可じゃねぇ苦労して貯めたお金で買ってくださったもんだ。ちゃんとした内掛けに仕上げて届けるまでは、誰にも指一本触れさせやしねぇ!」

 誠吉は、行李の上に覆いかぶさると首をもたげて、無頼漢を睨み付けた。が、彼の頑張りとは裏腹に体は勝手に行李を抱きしめたままずるずると後ろの川へ引き寄せられるように下がっている。脳裏に茜屋の暖簾と厳しい女将や自分を信頼してくれている中番頭の顔が浮かんできた。いや、勇気を奮い起こすために意識して思い浮かべたのだ。死んでもこの反物を渡さないという勇気が欲しかった。

―こんな所で死んじまうのかよ、己いらの店は持てねぇかもしれねぇな。でも…… 

 誠吉は、そっと拳を握りしめた。

「それじゃあ、てめぇが死んでその姉さんに詫びを入れるんだな」

 含み笑いの声に囲まれて、匕首の刃を舐めながら男がゆっくり寄って来る。

 刃物で脅されながら首根っこをつかまれ行李から引き剥がされそうになった。歯を食いしばって行李を抱きしめた。

「強情な野郎だ。でもいつまで行李にしがみついていられるかな」

 男に強い力で首を押さえられて跳ね返せなかった。

 誠吉は泣きながら行李に覆いかぶさっている。その姿を取り囲んでいる男たちが嘲り笑った。誠吉が大声で泣き喚けば喚くほど男達の陋劣な笑いが高まっていった。

 狐目の男が大仰に匕首を振りかぶった。

 突如、笑い続ける男達の後ろから、あたりが凍りつくような低い声が響いた。

「そこまでだ! その汚ねぇ手を離さねぇと怪我だけじゃすまなくなるぜ」

 笑い声が止まった。

「誰だ、てめぇは?」

 一斉に振り向いた先には、三人の男が立っていた。髪の結い方から着流しの着崩し方までどこから見ても本職の渡世人だった。

「いい格好するんじゃねぇ。すっこんでろい」

 狐目の男が、匕首を真ん中の男に向かっていきなり振りかぶった。

 男は動じることもなく、逆に一歩踏み込むようにして、狐目の腕を締め上げると、そのまま地面にたたきつけた。

 腕の骨が折れる嫌な音が空気を振るわせた。狐目の男は蝦に体を反らせて静けさを破るけたたましい声を出して転げまわった。

「使い方もわからねぇ素人が、こんなもん振り回しちゃいけねぇな」

 男は、息も上がった様子もなく、笑いながら取り上げた匕首を手の中で回転させていた。声は笑っているが目が笑っていない。平然と人を殺せる目だと気づいた狐目の仲間達が一斉に逃げ出そうとしたのを残りの二人の男が手際よく痛めつけて縛り上げた。

 腰を抜かした誠吉は、一番貫禄のある男の顔を漫然と眺めているうちに笑みがよみがえった。

「幡随院の親分さんじゃありませんか」

 同じ花川戸に住む口入れ家業の親分だ。何度か見かけたことがある。女将さんの幼馴染だって聞いたことがあった。中番頭さんの言っていた女将さんの打った手とはこのことではないかと思った。

「おめぇさんの名めぇは?」

「はい、茜屋の手代をやっております誠吉と申します。親分さん、ひょっとしてうちの女将さんに頼まれなすったのでしょう?」

 男は、さっきの冷たい目とは打って変わって優しい表情を誠吉に向けた。

「誠吉さんかい。察しがいいじゃねぇか。その通り、茜屋の女将さんに頼まれたのよ。余所者が商売するには信用が第一だ。悪い噂が立っちゃいけねぇ。奉公人等が女郎屋で遊ばねぇように見張ってくれってな」

 男が惚れてしまう笑顔に誠吉は惹きこまれた。下手な嘘も粋に聞こえる。体の隅々まで安堵が広がっていった。

「誠吉さんとやら、よく手練手管の愛菊姉さんの誘いを断りなすった。もし、愛菊に乗っかったなら襖蹴っ飛ばしてヤキを入れてやるつもりだったんだが、茜屋の手代は仕事第一、てぇしたもんだ」

 辰太郎の子分が親分の冗談話に合わせて笑った。

「幡随院の親分さんも人が悪いや。もっと早く出てきてくださいよ。体中ぼこぼこにされちまいましたよ」

 幡随院の辰太郎は、甘えそうになった誠吉の心を見透かしたようにすっと腰を伸ばして黒い川の流れに目をやった。思わずすがりつこうとした誠吉の心は、肩透かしを食った。

「おめぇの男を見させてもらったよ。てぇしたもんだ。しっかり反物を守ったじゃねぇか。さすがお志乃によっく鍛えられてるようだな。感心したぜ」

 腹にずっしり響く辰太郎の低い声に満更でもないのか誠吉は、照れて頭を掻いた。

「親分、こいつ等どうしやしょう?」

 辰太郎の子分の一人が荒縄で締め上げた男達を指差した。皆、何をされるのかこれからどうなるのか予想がつかない様子で顔が引きつっている。

「明日にでも、千代屋の若旦那を呼び出してくれ。場所はてめぇに任せるが、千代屋から離れた所が野郎にとっても都合がいいだろうよ。できれば酒と料理のうめぇ所にしてくんな。三ノ輪あたりがいいか。こいつらは、話がつけばその場で返してやる。それまでうちの物置にでも放り込んでおけ」

 心配げに誠吉は、辰太郎の顔を見上げた。

「千代屋の若旦那の男が見てぇのさ。千代屋とあろうもんが商売の戦は、商売で戦えと、ちゃんと釘を刺してやるから心配するな。二度とこんなことをさせやしねぇ。万一しやがったら、この幡随院の辰太郎が千代屋に乗り込んで店ごと叩き潰してやる」

 じっと暗い川の流れを見詰めている辰太郎の横顔が、誠吉には重く歪んで見えた。しかし、いくら考えても辰太郎のその思案に暮れた面持ちが何に起因しているのか推し量ることができなかった。




侵攻 千代屋の黄昏

 千代屋の狼狽ぶりが閉め切った奥座敷まで聞こえるようになった。

 玄関先で材木を打ち付ける音が臥せっている政五郎の耳に届く。

 大阪時代からの番頭を呼びつけた政五郎は何事かとまだ動く方の手で玄関の方を指差した。

「今日のお昼、今人気の女形瀬川菊之丞はんに上がってもらう舞台を作っておます」

「役……者に身につけ……させる……品はっ?」

 弱々しい息で政五郎は番頭を問い詰めた。

「……紅珊瑚の簪に帯止め、珊瑚づくしで」

「それ……は……」

 四日程前に茜屋が捨て売りに近い形で売り飛ばしていると聞いた品である。一緒に珊瑚の装飾品に合う反物が随分と売れたらしい。抱き合わせの反物は値引きの割合を低くしていたので損はないはずだ。

 茜屋の二番煎じではないかと怒りがこみ上げてきた。政五郎の精神が深くて暗い落とし穴に急落下していく。

――千代屋を潰す気か!

 今日ほど帳場に立って采配を揮えない自分を呪わずにはいられなかった。

「茜屋はんとは違います。珊瑚に真珠を埋め込んで細工しておます。二代目菊之丞はんの十八番道成寺の錦絵を刷り込んだ手拭も用意いたしました。一両以上のお買い物で、菊之丞はん手ずからお客さんの名前を手拭に書いてもらいます。誰々賛江ってなもんですわ」

 番頭は言い訳にしどろもどろになっていた。 

「ご承知の通り、珊瑚は先日向こうはんの店がやったばかりどす。ただ若旦那はんが一ヶ月も前からこの日のために注文しはってた紅珊瑚がやっと長崎から入って来たんどすわ。どこでどないして出し抜かれましたのやろか? わてらのことがどっかで洩れたとしか考えられまへん」

 政五郎の体が熱ってきた。その熱のせいで血の巡りが活発になると、混濁した頭の中が幾分澄んできた。

(元々呉服と一緒に小間物も商いしていた茜屋だ。蛇の道は蛇。うちの事情も筒抜けだろう。それにうちよりも早く本珊瑚を仕入れる伝手もあるに違ぇねえ。しかし、あっちの二番煎じでも新之助はやめねっていうのかい。こりゃあまずいてば! 絶対お足こと出しちゃあいけねぇ)

「どん……だけ、仕……入れ……た?」

 簪と帯止めそれに笄の仕入れ値は?

 人を集めるために支払う役者への報酬に、今日の日のために刷った引札の代金は?

 他に特売をかける商品は?

 以前安く仕入れた鼈甲の櫛はまだあるか? 抱き合わせて珊瑚を安くした分、鼈甲で取り返せ!

 矢継ぎ早に、政五郎は詰問し、指図した。

 政五郎派のその番頭は、ついに簪と帯止めの売値と仕入れ値について口を割らず、「申し訳ございまへん。若旦那はんをお止めできまへんどした」と額を畳に押し付けて悔しそうに泣いた。

――算盤に合わねぇってことらか。貧すれば鈍す……だて

「今日は……元値を割っちゃ……ならねぇ」

 息遣いの荒くなった政五郎は床の中で目を閉じた。

 その場にいたたまれなくなったらしい番頭の気配が奥座敷から消えた。

 すぐに帳場から番頭と新之助の値付けに関する激しい口論が聞こえてきた。

 金も物も茜屋の方が上だ。その茜屋が総力で攻めて来ている。

 なぜ、ここまで茜屋を怒らせたのだ?

 政五郎も、その後ろにいて指図している志乃を意識していた。

 志乃の高笑いする顔が目に浮かんだ。

――いやいや、そうではねぇれの。お嬢様はそんな笑い方はしなさらねぇ。お嬢様は仙吉の不甲斐なさ、情けなさに泣いていなさるこてさ。きっと、そうにちげぇねぇ。こんな所で寝てなんかいられねぇってのに……

 政五郎は焦れば焦るほど熱っぽくなり身体が疲れるばかりで襲って来る睡魔を跳ね返せなかった。


 突然、政五郎は昔の名前で呼ばれたような気がした。

 夢なのか現なのか判然としなかった。

「なんでい、なんでぃ、この辛気くせぇ座敷は! 仙の字、起きてるかい? 表に立派な仮舞台が出来上がったじゃねぇか。今評判の二代目菊之丞を呼ぶんだってな、聞いたぜ。誰の伝手でそんな有名な役者と渡りをつけたんでぇ。旬な役者だ。江戸中の女がきゃあきゃあ騒ぎやがる。路考茶の衣装に紅珊瑚は映えるだろうよ。お志乃とは真っ当な勝負をしているみてぇだな」

 聞いたことのない低く落ち着いた男の声である。だが、どこか懐かしい響きがあった。威勢があって、やや巻き舌、そして歯切れのよい言い回し。

――遠い昔、聞いたことがある声だこて。昔、この江戸に住んでいた頃ら

 つゆと忘れていたあの頃の風景が一度に頭の中へ流れ込み政五郎の心の升目を超えた分が閉じた目から涙となって溢れだしてきた。

 花川戸の満開の桜、遠く立ち込める霞、滔々と流れる大川、朝の豊饒な光がその川面で煌めく、そして刻を告げる浅草寺の鐘……

 そうだ。明け六つには、竹箒で店の前の通りを掃き終わり、きれいに箒目をつけていたあの頃だ。

「仙の字、江戸に帰ぇってきてたんなら、なんでおいらンとこに挨拶に来ねぇ。水臭せぇぜ…… 俺とおまえとはそんな付き合いだったのかい?」

――夢でん、見てるんらろっか? うん、こりゃあ夢に違げぇねぇ

 目を覚まそうと政五郎はもがいたが息遣いが荒くなるばかりで目が開かなかった。

「いいってことよ。そのまま寝てな。しかし、たまげたぜ。こんな立派な店を構えやがって。てぇしたもんだ」

 政五郎の心と体が勝手に藻掻もがいた。病のせいではない痛みが胸に広がる。そしてその痛みは味わったことのない甘酸っぱさを伴っていた。

 政五郎は既に仙吉と呼ばれていた時代を漂っている。

―辰さんかい? 辰さんらね! 会いたかったよ 忘れたことねぇよ ずっと、ずっと!

「仙の字の不義理を問い詰めようと、ここまで足を伸ばしたが、おめぇのしょぼたれた面見たら、何にも言う気がなくなっちまったぜ。なんでもっと早く教えちゃくれなかったんだい」

―すまねぇ、辰さん。許してくんなせや。本店の大旦那様から、江戸に店を出せと、暖簾を分けてもろてから、辰さんにはすぐに会いに行きたかったて。でも行けなかった。足がつっぱらかって前に進めなかったら。だって辰さんの家は花川戸じゃねぇか。いやでも茜屋の前を通らなくっちゃならねぇ。まっと立派になってから、江戸一っちの店にしてから会いに行こうと決心したんらども、この様ら。ほんき情けねぇもんだて。情けねぇ……

 辰太郎には、政五郎の心の声が届いていないようだった。政五郎は心が破裂するほど辰太郎の名を叫んだつもりだったが、体を硬直させたまま足掻いただけだった。

「苦しいのかい? 薬、飲んだ方がいいのか?」

 辰太郎の温かい手が布団に差し込まれ、政五郎の体をさすってくれた。

「お志乃から、おめぇのこと聞かされた時は、ずいぶん驚いたぜ。今度のいきさつも含めてな」

 辰太郎の声で仙吉の頃に戻った途端に、待乳山聖天の境内に吹く風の匂いがしてきた。米饅頭を頬張る目の大きなお三津ちゃん、肩をいからせ腕を組みいつも何かに怒っていた辰さん。よく辰さんとは相撲を取ったね。そして目を輝かせ将来の茜屋を語る振袖姿のお志乃お嬢様――

 みんな子供だった。

「お志乃が、わけのわからねぇこと言いやがった。なんでも自分を取り戻してぇんだとよ。難しいことは判らねぇが、何でもおめぇの築き上げたこの千代屋をぶっ潰すことでそれができるらしい。あの女らしい屁理屈じゃねぇか。そんなこたぁあるもんか。そんな道理が通るかよ。えっ、仙の字よう、そうは思わねぇかい?」

 辰太郎はしばらく間を置いた。言葉を捜しているような感じがした。辰太郎の沈黙に訳もなく仙吉の胸がざわついてきた。

「己いらはそんなことで自分なんてものを取り戻せはしねぇって何度も反対したんだが、昔からそうだろう? お志乃って女はよウ、こうと決めたらやってみなきゃ気がおさまらねぇ困った性分だ。自分勝手なコンコンチキよ」

 仙吉への謝罪とも言訳ともつかぬ辰太郎の言い草に、仙吉は待乳山から回想のねじれを越えてあの浅草寺五重塔へと瞬時に移動した。

「きっとあいつの心は、あの夏の朝から止まっちまってるんだろうよ。あん時だけだからな。あいつの我侭が通らなかったのは。焦って血迷ってるんだろうぜ。あれ以来お志乃は、おめぇに縛り付けられたままだからな。おまけに、そのことに自分じゃ気づいてねぇときたもんだ。きっと痛い目を見なけりゃわからねぇんだろうよ」

 耳元に顔を寄せてきたのか辰太郎の息遣いがすぐ近くに伝わってきた。

「許してやんな、おめぇが死ぬほど大好きだったお志乃のことを。あんな生き方しかできねぇ女に惚れちまったおめぇの自業自得だ」

 肩から背中にかけて擦ってくれる辰太郎の温かい掌を感じた。温かさは、まさに辰太郎の心だった。

「たいへんなことになっちまったが、こうなっちまったら仕方がねぇや。己いらも腹を決めたぜ。仙の字が築き上げたこの店が潰れるか、茜屋を飲み込むか。どっちにしても最後は己いらが負けた方の骨拾ってやるぜ。できれば、あの女のためだ。きっちり痛めつけてやんな」

 何故か、今しがたから仙吉の頬は湯をかけられたように熱い。

――己いらは、泣いているんらろっか?

「いきなり深川に攻め込んできて商売上手を見せ付けている茜屋に、それでもまだまだ地元の千代屋の分がいいと、訳知り顔で面白がっている連中が多いけどな悪いが己いらの振った賽の目はそうは言ってねぇ。仙吉! 簡単に潰されるんじゃねぇぞ。それじゃぁ、また近いうちに寄らせてもらわあ」

 快闊で男気に富んだ足音が上質な紬の衣擦れの音とともに離れていく。

――辰さん、まだ、帰らねぇでくれ! ずっとそばにいておくんなせっ

 強張った体を自由に動かせない政五郎はずっと耳でその音に追い縋った。するとまるで仙吉の志念に呼び止められたように辰太郎の足が敷居に懸かったところで止まった。辰太郎が振り返る気配がした。しかし、思い出したように発せられた無造作な一言で、辰太郎の袂をつかんでいた仙吉の心の手が撥ね退けられた。

「そうだ。新之助って言ったかい、てめぇの息子は。ありゃいけねぇな。仙の字も珍しく自分の子供の育て方を間違ったみてぇだな」

 それを聞くや、仙吉として感傷に浸っていた精神が潮の引くように政五郎へと引き戻されていった。



侵攻 政吉の死


 案の定、人気の役者を連れて来て集客が多かったにも拘らず売れた物は、極めて安い小物ばかりで起死回生の手とはならなかった。

 逆に茜屋よりも珊瑚製品の値を下げたために赤字を広げてしまった。

 政五郎こと仙吉は、新之助を枕元に呼びつけ苦しい息を吐きながら叱った。

「相手が値を崩してきたの……に付き合って値下げすれば、相手の思う壺……ら。そんなこと……していれば金をたくさん持っているほう……が勝つに決まっているこて」

 正座して神妙なふりをした新之助はそっぽを向いて聞き流している。

「今まで……千代屋は誰……に物をこうて(買って)もろていたのら。……もう一度しっかり考えてみよ…… 今まで千代屋に足を運んで来ていただいた方々にどうすれば喜んでもらえ、どういう接し方をすれば満足願えるか……一軒一軒小間物を担いで聞き込みにえんでまわれ。……その中から必ず千代屋の……いく道がみつかるこて。……見つけなければならねえ」

 いきなり政五郎は大量の血を吐いた。周りにいた番頭達が慌てて寝かせようとしたが、政五郎は体中の力を振り絞って聞き取りづらい声を張り上げた。

「値が安い方へ靡くのは…… 本当のお客様を掴んでいねぇ証拠ら…… 道理に合わない商売がいつまでも続くわけがないんだて。ここはよっく辛抱しねぇ…… 一体だれの気持ちを…… 満たせば商品が売れるのか。だれが千代屋…… にとって将であり、馬であるかの見極めが肝心だて。もう一度、客の台帳を作り直せ」

 しかし、新之助は引かなかった。周りが見えていないことは明らかだった。

 気づかぬ内に、大阪の本店からも見捨てられていた。


 このことは、千代屋の将来に不安を感じ始めていた番頭や手代達を密かに浅草の料亭に集め、その盛大な宴の中で志乃の知るところとなった。

「不思議なことに女将はんが千代屋においでなさった日から大旦那はんは少しずつしゃべれるようになったんでおます」

「若旦那はんは、大旦那はんのおっしゃることをちっともわかろうとしやしまへんのや」

「そうかい、困ったもんだねぇ。ま、旬にはまだ早いけど、どじょう鍋だ。浅草じゃこの駒留屋さんの泥鰌が一番美味しいって評判だよ。マルでもサキでも好きなもの、どんどん頼んどくれ」

 深川担当の番頭から千代屋を支えている若干の勢力があると報告を受けた。そして苦言を呈する彼等は新之助から疎まれている。志乃の意を受けた番頭が一人ずつ巧みに切り崩した後、一気呵成に取り込もうと手を打ったのがこのどぜう鍋である。

 志乃が手を叩くと深川芸者の綺麗どころが一斉に座敷へなだれ込んで来た。大宴会の始まりであった。

 汁の滲み込んだ葱と泥鰌のぐつぐつと煮立つ得も言われぬ香りが辺りに充満し、勧め上手の芸者達から差される下りものの酒で座敷中が微酔い機嫌の様相を呈しはじめた。志乃は彼等の思考能力が鈍った頃合いを見計らって千代屋の面々に語りかけた。

「むかし政五郎さんは仙吉といって茜屋の手代をやっていたのをご存知かい? 今の茜屋が大きくなる取っ掛かりを作ったのが千代屋の大旦那さんなんだよ」

「でもそんな大旦那はんの店をどうして潰そうとなさるんで?」

 座敷中の目が一斉に志乃へ向いた。不用意な発言をした若い手代は、隣に座っている先輩格の者から頭を殴られるのが見えた。

 志乃は笑いながら「いいんだよ」と制した。

「潰そうだなんて人聞きの悪いことはよしとくれよ。わたしは約束を果たしてるだけなんだからね」

 志乃は袂で口を隠すと大笑いした。約束という言葉に周りがざわついた。

「約束したんだ。今から二十年以上も前にね。仙吉さんが江戸の出掛けに言ったのさ」

 志乃はみんなを手招くと、低い声で心に向かって語りかけた。

「もし、この江戸に戻って店を出し、それが茜屋の名を汚すようだったら、すぐに正しておくんなさいってね。近頃の売り方を見てると、どうだい? 深川に店を開いた頃と違って今の千代屋はあまりにも仙吉の描いた夢と離れっちまってるんじゃないかえ? 最後にゃ呉服屋で江戸一になるって夢からね」

 志乃は咳払いすると、さらに声を潜めた。

「お前達、深川で評判が悪いよ。誰が原因かわかっちゃいるが……」

 この座敷にいる者たちは皆頷いた。

「実はね、私は仙吉と夫婦約束をしてたんだよ。それが些細な事で叶わなくなった。今でも仙吉のことは好きさ。おっと好きだって言うのは、仙吉の商いの考え方を尊敬してるってことだけどね。だから私は仙吉の夢を大事にしたいんだ。お客様に心底喜んでもらえる店を作りたいってぇのが今も変わらぬ仙吉の心じゃないのかい? そう教わらなかったのかい?」

 座の中心にいる志乃はぐるりと睨みを利かせた。真実と嘘と織り交ぜて話す志乃の威風に座敷中が自然と靡いた。

「お願いだからきっとお前さんたちの手で仙吉の夢を叶えておくれ。仙吉の夢を邪魔しているのがたとえ仙吉の身内であってもね。ここまできたら一度今の千代屋をぶっ潰さなきゃならない。その後で千代屋は茜屋と手を取り合ってもっと大きくなるんだ。いや、きっとなれる! 協力してくれたみんなには決して悪いようにはしないよ」

 番頭の下工作のお陰で千代屋を再生するために千代屋を潰すという志乃の詭弁を疑う者はいなかった。いや無理に志乃を信じ込もうとしているのかもしれない。先が読めずに政五郎を蔑ろにする新之助から心は離れているのだ。

「大旦那様は、値が安い方へ靡くのは本当のお客様を掴んでいねぇ証拠だ。道理に合わない商売がいつまでも続くわけがあらへんとわてらに諭されました」

 仙吉に心酔している一人の番頭がしみじみと志乃に語った。

――さすが仙吉だ。こっちも危ない橋を渡っていることを先刻ご承知らしいね。でも気づいただけじゃ駄目だよ。仙吉が自分の息子を説得できなければ、仕舞いだね

 志乃は艶然と千代屋の手代達に酌をしながら、茜屋への雇用を約束していった。


 それから、半月と経たない二月の中旬、仙吉は千代屋の回復を見ないまま他界した。寒の戻りがずっと続いて、病人には厳しい気候だったかもしれない。

 何もかも洗い流すような篠突く雨の中、通夜に出向いた志乃と三津であったが、物凄まじい剣幕の新之助から塩を投げつけられ、斎場となった千代屋の敷居を跨がせてはもらえなかった。

「どの面下げて来やがった! 親父を殺したのはあんただろうが!」

 志乃はその台詞をそのまま新之助に投げ返してやりたかった。

――親のことを何も知らないくせして、それでも息子かい? しっかりしとくれ。喪主のおまえさんがそんなことじゃ仙吉は浮かばれないよ!

 しかし、さすがの志乃も咽喉まで出かかった啖呵を呑みこんで、焼香を諦めた。意地を通して霊前を騒がし仙吉の旅立ちを汚したくなかったこともあるが、すてばちになりかけた志乃の後ろから帯を押さえ無言で諌めていた三津のおかげかもしれない。

 二人は千代屋の玄関から一間も離れていない辻まで戻り、板塀を廻らした小さな仕舞屋の軒下から傘も差さずに千代屋の紋の入った御霊燈の灯りを茫然と眺め続けた。厳しい台所具合を知っている志乃には盛大に過ぎる葬儀であることが一目瞭然であった。もし新之助の見栄からでなく親を思う気持ちからそうしたのであれば、心意気を褒めてやりたいと思った。だが一際華美な先代の葬儀に集まる弔問客は悲しいほど疎らだった。

 千代屋の奥から葬送の木遣が微かに漏れてくる。唄っているのは南二番組の町火消し達に違いない。

 志乃も三津も濡れるにまかせて、遠い昔に思いを馳せていた。

「もう二人とも若くねぇんだからよ、そんなところに何時までも、つっ立ってると風邪ひくぜ」

 肩を叩かれて振り向くと、丁度弔問に来た黒紋付姿の辰太郎が蛇の目を差しかけてくれた。

「なに鳩が豆鉄砲くらったような顔してるんでぇ。仙吉とは、おめぇらと同じくれぇ長い付き合いだぜ。俺が線香あげても不思議はあるめぇ」

「若くねぇは、余計なお世話よ。親分さんより年下なんだからね」

 三津がほっとしたように無理に悪態をついて辰太郎を見上げた。

 志乃は、辰太郎に弔意を託した。

「地獄に仏っていうか、どっちかってぇと渡りに舟だな」

「短気起こして、沈没しないでおくれよ」

「もう餓鬼じゃねぇんだ。大船に乗った気でまかせてくれよ」

 辰太郎は志乃と三津から預かった不祝儀袋の中身を自分のものへ移し変えた。

「豪勢な厚さになったぜ。三人分だからな。なんだか俺だけいい格好するみたいで申し訳ねぇ」

「私等の名前じゃ受け取って貰えないだろ。仕方ないさ。地獄に仏の辰太郎親分、帰りにうちの店に寄ってくださいな」

 志乃が仏様を拝む真似をして数珠を持つ手を辰太郎に合わせた。

 片目を瞑って舌を出す志乃に「よせやい」と鼻で笑った辰太郎は志乃に軽く頷いて鯨幕の内へ姿を消した。


「お志乃のつくった匂い袋を握り締めたまま、旅立ったぜ。ついでに己いらのお守りをふたつその袋の中に入れさせて貰った。あの世で迷ったら振って出た目に従えってな」

 辰太郎が問わず語りに、三津からお清めの酌を受けながら通夜の様子を語った。

 匂い袋の話に三津は、「まぁ!」と心底感激して見せたが、志乃は沈んだ気持ちを隠さず手酌を繰り返した。

「あたしゃ冷たいのかねぇ……」

 火鉢の上で炙っているするめを返しながら何気なくこぼした志乃の呟きに辰太郎が問い返した。

「お志乃が心優しく温けぇって話も聞かねぇが、どうしたんでぃ?」

 志乃は短い溜息を吐くと全てが空しい気分になってきた。そんな厭世気分を振り切るように早口な抑揚のない声で喋った。

「それとも死んだ仙吉の顔を見ていないから実感がわかないのかしら。悲しくも寂しくもなんともありゃしない。あんなことのあった仲なのにねぇ。泣かない女はかわいくないだろ?」

 志乃の居間には、辰太郎と三津の他には誰もいなかったせいで志乃に幾分甘えと我侭が出ていたかもしれない。深い溜め息をついて再び長火鉢の中のちろりに手を伸ばすと、それよりも早く三津が取り上げて辰太郎の湯呑みに燗酒を満たした。ちろりが空になった。

「お三津、台所からお神酒持っておいでよ。酒は憂さの玉帚ってね。親分さんもまだ飲み足りないって顔してるよ」

 だが首を振って三津は立ち上がらなかった。

「死に顔を見てねぇから悲しくも寂しくもねぇ……か。仙の字は己いらと蔵ん中に一晩閉じ込められてからの仲だ。誰も近寄らなかった己いらに最初にできたダチだ。奴が江戸を離れる最後の夜にゃ明け方まで二人でいろんなこと話し合った。でも己いら、白布を捲って仙の字の顔拝ませてもらったが、何ともなかったぜ。どうしてだか、わかるかい?」

 辰太郎が自分の胸を拳で二度ゆっくり叩いて示した。

「奴はここんところでずっと生きている。だから悲しくも寂しくもなんともねぇ。きっとおめぇもそうなんだろうよ」

 酒を飲み干した辰太郎は、しばらく沈鬱な面持ちで火鉢に手をかざしながら炭火を見詰めていた。赤い炭火が彼の顔に影を揺らめかせて照らす。知らないうちに辰太郎の眉と鼻のあたりが死んだ先代の潮七郎に似てきたことに志乃は少し驚いた。初めて志乃が潮七郎に会った時、鍾馗様が入って来たのかと怖かった。辰太郎が鍾馗様に似てきたというのではないが、歳を重ね辰太郎に貫目がついたということなのだろう。

――あのやんちゃな辰ちゃんが、一端の親分さんになっちまったね。私は変わったかい? でも何に変わりたいというんだろう。わからないよ。辰太郎親分、教えておくれよ

 無表情の辰太郎が燻ぶった炭を火箸で突付いて崩すと三津が炭斗からそっと炭を足した。

「……お志乃はお志乃のやり方で、ちゃんと弔いを出してやんな。悪いが新之助のやり方じゃ仙の字も浮かばれねぇ。迷わねぇで三途の川が渡れるように、きっちり今度の件に落とし前つけてやらなきゃあな」

 顔を上げた辰太郎と志乃の目が合った。背筋を伸ばして志乃は目だけで肯いた。



 七七忌(四十九日)の忌中の間こそ志乃は、表立った千代屋への攻撃を控えて見せた。しかし、それは安売りと派手な店売りは避け、徹底した行商で水面下に潜っただけであった。今までにできた得意先から新しい客の取り持ちの輪を広げさせた。

「深川を茜色にするよ!」という志乃の決心に揺るぎはなかった。

 感情を統御できないほど激しく怒り続ける娘の非難も受け流し、「やりすぎではないか」としたり顔で差し出口をはさむ夫の八兵衛に対しても真っ当な理屈で二の句を告げさせなかった。

 外から見ると千代屋はなんとか持ちこたえているように見えたが、それは精一杯の見栄であった。次の仕入れにも事欠く程の内情の苦しさは、内応者のいる志乃に筒抜けだった。



喪失 見つからなかった物

 深夜、深川へ送り込んだ番頭が裏口から訪う景色も見せずひっそりと入ってきた。

「どうしたんだい? 閻魔様が塩辛舐めたような渋い面してさ」

 辺りを憚りながら庭に肩膝をついて待っている番頭に、志乃は寝巻きに半纏を肩に羽織っただけの姿で下へ降りると顔を寄せた。

「千代屋が深川の権蔵親分に入れていた土地屋敷の書入れが流れやした」

 表情を変えない番頭が抑揚のない低い声で報じた。

 千代屋はとっくの昔にまともな両替屋から融資を断られるようになっていた。高利だとわかっていても地回りの博打打ちと二足の草鞋を履く金貸しを頼らざるを得なかった。

 志乃は、一息飲んだ。早々に千代屋は破綻するだろうとは思っていたが、実際にその知らせを受けると暫く言葉が出なかった。

「そうかい。手仕舞いだね。ご苦労さん、よくやったよ」

 部屋に戻りかけた志乃は、振り返ると表情を殺したまま番頭に指示を出した。

「千代屋の品物を蔵ごと買い付けてきな。権蔵から吹っかけられないように幡随院の親分さんに頼んどくよ。幡随院には権蔵も頭が上がらないはずさ。それから千代屋の客筋人別帳だけは忘れるんじゃないよ。これだけは絶対うちが貰うからね。それが済んだらみんなで打ち上げだ。金に糸目は付けないから日本橋辺りで旨い刺身でも食べながら一杯やるよ」

「蔵ごと買い付ける値は? 買い叩きますか?」

「おまえさんに任せるよ。あちらさんも色々物入りで困ってらっしゃるだろうしね」

 番頭は無言で頭を下げると裏木戸から静かに出て行った。

 後姿を見送りながら、あの子はきっと買い叩くだろうと志乃は思った。それで構わない。私の育てた子なのだから。

(終わったよ、仙吉……)

 不思議と志乃には何の感慨も湧いてこなかった。それなのに涙が一筋零れた。

「一筋しか流れないのかい。あたしも薄情なもんだね」

 そう思った志乃であったが番頭が視界から消えた途端、縁側ですとんと腰が抜けてしまった。

 一筋しか流れないと思ったのは、志乃の勘違いだった。

 堰を切ったようにとめどなく溢れ出す涙に自制がきかなかった。

 蹲ったまま立ち上がれなかった。

 気力が抜けてしまった。

 夜風を避けようと、肩に掛けた半纏を身体に巻きつけるようにして衿を両手で引いた。交差させた腕にまるで自分自身を抱きしめる格好になった。

 誰もいないはずの庭が朧気に光ると、小さな振袖の女の子が駆けて来た。

(あれは、私だ……)

 目の前の少女が志乃の子供の頃だとすぐにわかった。

 子供の志乃は、掃き集められた落ち葉を何度も蹴散らして笑いながら消えていった。仙吉が掃き集めた落ち葉だった。

「そんなことがあったねぇ……」

 仙吉はどの星になったんだろう。志乃は、夜空に向かって呼びかけた。

――約束通りだね。あんたの店を潰しちまったよ。怒ってるかい? そりゃあそうだね。でも……でも、良くやったって褒めておくれよ。

 あんたに褒めて欲しくって頑張ったんだからね。

 ごめんね…… ごめんね、仙吉……

 志乃は歯を食いしばった。訃報が届いた時でさえ泣かなかった志乃の嗚咽が止まらない。

(寒いっ!)

 夜の沈黙の冷たさにではなく、志乃の胸の内が凍てついていた。

――どうしてだよ! あんたに勝ったってぇのに何も取り戻せないじゃないか。あんたと私が失ったものを取り戻すための勝負だったはずなのに……

 志乃の心の中の空洞がもっと深い所まで穿鑿されて広がった。その中へ自ら落ちていったが、志乃が欲しかったものは何ひとつ探し出せなかった。

 志乃はそのまま誰もいない縁側で、朝露を炙り飛ばす曙光の暖気に包まれるまでその場を動けずに震え続けた。


終焉 離縁致し候


 久しく雨の降らない更待月(陰暦二十日)の夜であった。

 九つ時(午前零時)になると昼間は聞こえぬ墨田の川音も志乃の寝所まで届く。

 毎日のことだが特に今夜のとめどなく聞こえる流れは、お節介にも八畳の居間に一人で休んでいる志乃を現実に引き戻してくれた。

 川の流れる音は、志乃に忘れていた刻の流れを意識させる。

「逝く者は斯くの如きかな、昼夜を舎かずってお偉い孔子様でも時の流れがままならないことをお嘆き遊ばすんだから、私みたいな凡人がねぇ」

 墨田川が昼間と同じように時を道連れにして流れている。

 志乃自身、頭も身体もじっと小休止させているのに、その隙を狙って老いがすっと忍び込んでくるのではないかという何とも言いようがない怖さを感じた。

 いや、老いなど怖くはない。このまま自分を見失ったまま年老いていくことが耐えられないのだ。

 周りは誰もが静かな寝息を立てているはずである。

「川も夜には、眠るもんだよ」

 心の落ち着きを失った志乃は、諦めて昼間の売り上げを確かめようと帳面を引き寄せた。

 ちょうど行灯の灯を大きくした時だった。

 打ち鳴らされる半鐘の音で志乃は反射的に立ち上がった。

 俄かに騒がしくなり外を窺うと、裏塀から勢いよく火の手が上がっている。

 志乃は茜屋の半纏を羽織り、襷を掛けながら大声で下男の名を呼んだ。

「女将さん、ご安心ください! すぐに消しちまいますから」

 すでに住み込みの手代や小僧達が上手い連係を見せ立ち上る火炎に対処していた。

 花川戸町を受け持つ『ち組』の火消しが揃いの刺子半纏に鳶口を持って颯爽と駆けつけた頃には火事は勢いを失っていた。

 先頭を駆けてきた火消し装束の辰太郎が、矢継ぎ早に適切な指示を子分らに出している。

「辰さん、今日は結構凛々しいじゃないか」

「馬子にも衣装ってんだろ? 惚れ直したかい」

「ああ、惚れ直しちまったよ。ずっとその装束でいておくれ」

 四半刻過ぎて志乃が辰太郎に軽口が叩けるくらい火の気がなくなった。

 火の弾ける音のする所には夥しい水がかけられ、類焼を防いだ。

 騒々しく殺伐と変わった夜半の空気の中で町火消への労いや、近所への詫びに回っていた志乃の前に一人の男が捕らえられて引きずり出された。

 火事が近くであることを知らせるために続けさまに打ち鳴らされた擦り半鐘の音で近所からも多くの野次馬が集まっている。

「どこの誰だか知らないが、逆恨みはよしとくれ! まさか付け火は死罪だって承知の上なんだろうね。すぐに番所からお役人が来るよ」

 縛り上げられて地面に転がされている男の前に腕組みした志乃が立った。

 金の工面がつかず、何をしでかすかわからないと勘が働いた番頭の指示でずっと新之助を見張っていた手代等の手柄であった。

「汚ねぇぞ、二束三文で蔵ん中買い叩きやがって! おまけにうちの人間も引き抜きやがった。なりふり構わずかよ! 首くくりの足を引っ張ってそんなに楽しいかっ」

 男は亀のように首を伸ばし、志乃に向かって唾棄した。すぐに棍棒を持った手代の一人から思いっきり殴られた。

「うちの庭の木を貸してやろうか。本当に足を引っ張ってやってもいいんだよ」

 新之助の目が怒りに光った。

「調子に乗るんじゃねぇ。ばばぁの癖にいい身体をしてやがった。こんなことならもっとその身体を甚振っときゃよかったぜ。ケツの穴まで見られた俺の下でひぃひぃ喜んでたくせにこの仕打ちかよ」

「与太飛ばすんじゃないよ!」

 志乃の怒声と新之助の空笑いが同時に夜を突き破った。

 岡っ引に引っ立てられる新之助がさらに耳障りな悪態を吐き続けた。

「みんな聞いてくれ! 茜屋の女将は俺が自分のものにならねぇとわかって、俺の店潰しやがった」

 新之助の捨て台詞に野次馬達がざわついて一斉に志乃へ視線が集中したが、志乃の表情は変わらなかった。むしろ侮蔑に冷めた氷のような眼差しで新之助を見下していた。

 万久楼のことは何も知らない辰太郎が気遣う目で見詰めている。志乃は大丈夫だからと目で答えた。

 おろおろしているのは主人の八左衛門の方であった。

「お志乃!」

 八左衛門は、ひどく調子っぱずれな間の抜けた声で叫んだが、志乃はそれが聞こえないとでもいうように無視すると、ゆっくり辺りへ睨みを利かせまるで役者が見得を切るように、半分焼けた裏木戸から中へ戻っていった。

「聞き捨てならないよ。志乃! お志乃!」

 野次馬や手代たちの好奇な視線に耐えられなくなった八左衛門はすぐに志乃を追いかけた。



 五日経って志乃は早朝から夫の八左衛門に呼び出された。

 襖を開けると、火のない長火鉢の後ろで不愉快に顔を顰めた夫がいた。久しぶりに見る夫であった。食事も寝床も共に取らなくなってもう何年になるだろう。

「朝っぱらから、いったい何のご用です?」

 志乃の問いに答えず八左衛門は目も合わさないで文箱に手を伸ばすと、志乃の前に一枚の半紙を徐に広げた。八左衛門のおどおどとした目の下が徹夜したような疲労が浮かび黒ずんでいた。

 気の強い志乃に口頭で自分の意思を告げられないぐずぐずした性格の八左衛門が一晩かかって、自分の思いの限りを筆にしたのだろうと推察された。

 見慣れた八左衛門の癖のある文字であった。

 志乃は少し優しい気持ちになって、文字に目を落とした。

 何度も読み返していくうちに、自分の表情から微笑が消えるのがわかった。一度はひいた体中の血が頭の天辺に向かって逆流していく。

 志乃は、汚いものでもつまむように半紙を持上げてゆっくり首を傾げた。

「おまえさんの下手糞な字もこれだけ並ぶと唐風に見えるから不思議だねぇ。其方事我等勝手ニ付此度離縁致し候 然ル上ハ……ってなんだい、これは?」

 目の前にぶらさげた半紙を裏返したり逆さにしたりする志乃の態度は、八左衛門の怒りを増長させていった。

「さ、去り状だ」

 庭から吹き込んだ隙間風に離縁状が飛ばされていった。

「三行半ですかえ?」

「当たり前だ。娘の婿になろうかという男に母親が手を出したって評判になっている。川柳の集まりにも行けやしない。恥ずかしいったらありゃしないよ。お珠なんぞあれから部屋に籠もりっきりですよ。私の顔に泥を塗ってくれた」

 八左衛門は志乃と目を合わせぬまま、吐き捨てた。

「私の言い分も聞かず、引かれ者の小唄をおまえさんは信じていらっしゃるのですね」

 背筋を伸ばして意気地を通す志乃の落ち着いた物腰が、傍目からは平気で知らぬ顔をしている風に見えるのか、八左衛門の拳が怒りに震えている。

「蛙の面に小便とは、よくいったものだ!」

 八左衛門は、懐から面白おかしく志乃のことを書いた読売りを取り出し、そのまま志乃へ投げつけた。

 読む気はなかったが、視界に入ったそれは新之助と志乃しか知らないはずの料亭万八楼で起こったことが誇張されて書かれてあった。彩色鮮やかな淫らな男女の交合する絵が目を惹く。裾を上まで捲り上げて四つん這いになっている年配の女は、似ても似つかぬが志乃に違いない。

 おそらく新之助が阿漕な辻売屋へ売り込んだのだろう。

「火をつける前にこれでおまえさんを脅かせば新之助もうまくことが運んだかもしれないのに、きっと頭が回らなかったんだろうね。可哀相に……」

「いけしゃあしゃあとよくもそんなことが言えたもんだね。これを押さえるために幾ら使ったと思ってるんだ! 御奉行様の手も煩わせて版木を回収したんだ」

 志乃は、弁解する気が失せた。

 また、弁解すればどうしても志乃の心の奥底を洗いざらい披瀝しなければならず、それを男女の機微もわからぬ目の前の男にするのは屈辱でしかなかった。

 ひどく小さく見える自分の夫の態度に力の抜けた笑いが漏れた。

――私は、親を喜ばせるためにこんな男と一緒になったのかい

「私の生まれたこの茜屋を出て行けっとおしゃいますか。この店、この家はてっきり私の物かと思ってましたよ」

 志乃の笑い声が八左衛門の怒りの火に油を注いだ。

「うぬぼれるな、茜屋の主人は、わ、私だ」

 志乃は、笑いを消すと八左衛門を下から睨めつけて、抑揚のない低い声を出した。

「あなたに茜屋を廻していけますかしら? それに私が出て行った後、すぐに本所に囲っている若い女をこの家に上げちゃあいけませんよ。それこそ茜屋の旦那は女房を追い出すや妾を家に入れたって読売になっちまう。それじゃ私は荷物の整理がございますので」

 斜めにちょっと頭を下げて志乃は夫の顔も見ずに自分の部屋へ戻った。

 自分の見目が気になって鏡台に鏡をかけると志乃はすぐに顔を覗きこんだ。

 案外とさばさばした表情をしていることに僅かな違和感を覚えながらもほっとした。

「離縁だって?」

 無理矢理夫と過ごした月日を辿りながら、何か心に残る楽しかったことはなかったか、あるいは心を突き動かされるほど感激したことはなかったかと思いを馳せたが、悲しくも後ろ髪を引かれるものは何もなかった。

 長い溜息の果てに思い当たった。絶望的な気づき方だった。

 私のせいだ。きっと私の心のせいだ。仙吉が私の胸の内にずっと棲みついているせいだ。

 私が生きてきた永い刻は、私の嘘で積み重ねられたもの…… それが私の中の喪失感を育んできた。

「そうだったのかい。それじゃあいくら千代屋を潰したって、取戻せないはずだね」

 志乃は、鏡の中の自分に語りかけた。

 八左衛門が志乃の名を呼びながら甲高い声で何か叫んでいたが、腰が砕けて返事をする気力も沸いてこなかった。

 ふと鏡から目を逸らすと壁の染みが視界に入ってきた。

 お嬢様と呼ばれていた頃、三津と手習いの最中にふざけて汚した墨の痕跡だった。母の利久にひどく叱られて、三津と一緒に濡れた雑巾で拭いたが反対に薄く広がって残ってしまった。あの時三津の左の頬に志乃がひいた墨が髭のように伸びていて、顔を見合わせて死ぬほど笑い合ったことを昨日のように思い出す。

――そうだ、あの時私は半紙に『なきむしひょろ』って書いたのをお三津に窘められたんだっけ。それでじゃれあってる内にできた染みだ。

 他にもこの家の中には、私が刻み込まれている。

 私はここで育った。てっきりこの家で死んでいくものと思っていたんだけどねぇ。

 もっとも今回の事で少なからず店には大損させちまったから、仕方ないか。

 それに変な噂も出ちまったし、人の口に戸は立てられないって言うしね……。

――私と茜屋を切り離すなんざ、無駄飯食らいの宿六にしちゃあ、店の信用を守るためには、いい判断かもしれないね。

 茜屋の主権を争う気力が湧かなかった。もうどうでも良かった。

 これで私は何もかも失った。仙吉とは、刺し違えだ

 志乃は徐に立ち上がると、障子をいっぱいに開け空気を入れ替えた。

 そして、体の中の悪いものを押し出したくて大きく息を吸い込んだ。



 その日の内に志乃は、まだ焼け焦げて修理されていない裏の木戸口に立った。竹をあらく編んで作った籬が半分取り外されている。

 五つ紋の黒い羽織を羽織ったのは、茜屋の女元〆としての矜持を捨てていない証なのかもしれないと思われる。紋付は志乃の背をシャンとさせた。羽織紐を結びその房に軽く手を添えた時、あまたの他人から区別された自分を感じることができる志乃であった。

 番頭も手代も誰も志乃の見送りに姿を隠した。世間体を気にする幾分癇癪持ちの八左衛門に「見送り罷りならぬ」と厳命されたせいである。不人情だとは思いたくなかった。

――みんな生活があるからねぇ。それにしても千代屋の奉公人を引き取ってくれたのはありがたかったよ。おまえさんにもいい所があるじゃないか。これも世間体かい? って勘繰っちまうけどさっ

 千代屋から移ってきた番頭が志乃にそっと教えてくれた。

「大旦那はんは、最後に女将はんと勝負でけましたことで本当に幸せどしたと今際の際に申しておりました。心残りは病で体のいうことが利かへんかったことだと、……」

 志乃は自分の身に起きた変転に対して果てない感慨に浸りながら店の裏木戸をそっと閉めようとすると、三津が大きな風呂敷包みを背負って追いかけてきた。

「お三津は残っておくれよ。お珠のことも気になるし」

「何、薄情なこと言ってるんですか。私はお志乃様付きの女中ですよ。私がいなくなっても若い者が育っていますし、第一、私がいなかったら誰が女将さんのご飯を作るんですか。御三どんのたびに鍋釜焦がされちゃたまりませんからね」

 お三津は、自分の荷物と志乃の包みを背負って先に表通りへ向かった。重苦しかった志乃の胸のうちが幾分軽くなった。

「あんたがその覚悟なら、扱き使うよ!」

 お三津が振り向いてあっかんべぇをして見せた。


新生 弁天池から

 急に出てきたので行く当てもなかった。

 元気良く先を歩く三津も辻に来るたびに振り返って確認するように志乃を見た。

「さしあたって…… そうだねぇ、行ってみたい所があるんだけどさ」

 何気無い風を装い『弁天池』と口に出した志乃に、たちまち三津の胸には言い知れぬ重苦しさが湧き溢れ口が淀んだ。

「あの……、弁天池じゃなく米饅頭の待乳山にしましょうよ」

「いや、弁天池に行ってみたいんだ。あそこじゃなきゃだめなんだよ」

 あの朝、志乃の心を懸命にこの世に繋ぎ止めていたつもりの三津であった。手を離してしまえば志乃がどこか遠くに行ってしまいそうで気が動転していた。力を込めすぎて一時腕が上がらなかった不快な記憶がよみがえる。

 あの日以来、志乃がひとりでは浅草寺界隈に近寄らないことを知っている三津であったが、そこから始めたいという気持ちもわかる気がする。確かにあの日が分岐点だった。

「途中で焼き立ての煎餅でも買って参りましょう。八つ時は少し過ぎましたが」

 三津は咄嗟に空気が重苦しくなるのを嫌った。野点のように菓子でも食べながら池を眺めれば、感傷に浸ることなく気分も落ち込まないかもしれない。

「もうそんな刻かえ。今晩はどっかの料亭で旨いものを食べるつもりだからあんまり買い込んじゃだめだよ」

 仲見世通りでみたらし団子と焼き立ての煎餅をしこたま注文する三津に、志乃は半ば呆れて笑いながら財布の紐を緩めた。

 そのまま伝法院通りに入り、二人はその伝法院をぐるりと廻るようにして裏から弁天池に出た。

 そこからゆっくりと池の周辺を散策し、弁天山の鐘楼の下で腰掛けた。

 三津はすぐにみたらし団子の入った竹皮の包みを開ける。

「足手まといだって言われたんだよね」

 団子を頬張る三津を横に、独り言のような志乃の呟きが聞こえた。

「あんなに頭に血が上ったことはなかったよ。たとえ仙吉が私を茜屋へ帰す方便だとしてもね。あの言葉だけは許せなかった」

 志乃の精神は既にあの日を廻翔し始めている。

「だから私は一生懸命に働いたんだ。お嬢様って呼ばせないようにね。八の字と夫婦になる時もどんな旦那遊びをしようが構わないが、店のことに一切口を出すな、店は私が取り仕切るっていう条件を突きつけたんだよ」

 志乃はその見合いの席を思い出したのか薄く力のない笑いをみせた。軽く膝を抱いて池の上の一点を見詰めている志乃は、自分に言い聞かせるように続けた。

「お父っつあんもおっ母さんも口をあんぐり開けて呆れてたよ。親はどっちも仙吉のことで私に負い目があったからね。だから茜屋は私のやりたい放題。そいで、挙句の果てについた綽名が女元〆だよ」

「本当に…… あれから人が…… 変わっちまった…… ように店に出て…… ましたもんね」

「食べるか喋るか、どっちかひとつにおしよ」

 三津は聞こえなかったふりをして、二本目の団子へ手を伸ばした。

「その団子は親の敵かい? お茶も飲まずによくそんなに喰えるねぇ」

 志乃が三津を慈しむように笑った。志乃が笑うと三津は安心する。

「あたしが茜屋でやったことは、気がついてみるとみんな仙吉の受け売りだったよ。仙吉はこうしていた。仙吉だったらこう考えただろうってね。私が考えたものなんかひとつもなかった」

 池の水面を見詰めていた志乃がふいに黙り込んだまま空を見上げた。

 春の名残をとどめる柔らかい風に乗ってゆっくりと雲が流れていく。

 三津は志乃の横顔を見つめた。一筋の鬢の解れが池からの風に遊ばれている。眉をやや顰ませた、ぞっとする程の美しい顔容であった。

――元々お美しい方なのに、まるで白百合のよう……

 女は悲哀を心意気で耐えるとこれほどまでに気高くなるものなのだと三津は思わずにはいられなかった。そして志乃の持つこの高潔さを守り通すことが志乃付きの女中である私の役目なのだと信じた。

 そのままつい声をかけることも忘れて吸い寄せられるように三津は、志乃の横顔を見詰め続けた。

 志乃はそんな三津の視線を気にとめるでもなく、同じ言葉を繰り返した。

「何ひとつなかった……」

 消え入りそうな呟きであった。俯いてしまった志乃は、また自分の内側に落ちていこうとしている。

 三津は慌てて胸を叩きながら団子を飲み込んだ。

「そ、そんなことありませんよ。……待乳山の境内でも仙さんが女将さんの思いつきをよく褒めてらしたじゃないですか」

 志乃が力なく首を振って否定した。

「私の思いつきは、みんな仙吉が傍にいたから出てきたものなんだ。仙吉がきっかけをくれてたんだ」

 志乃が限度を超えた時の脆弱さを経験で知っている三津は、慌てて志乃の腕を掴んだ。

――何か話しかけなければ、話を変えなくっちゃ、行っちまう

「女将さん! 本当に行っちまうんですかい?」

 三津よりも先に後ろから若い男の声がかかった。

 志乃が深川に送り込んだ番頭の清次郎と六人の手代であった。装飾品の得意な秀次がいた。板頭の女郎にまさかの坂を越えてみたいと言った誠吉もいる。彼等は志乃に向かって慇懃に頭を下げた。皆志乃が手塩にかけて育てた者達であった。

「後を追いかけてきやした。ずっとお二人をつけて来たんですが、なかなか声をかけるきっかけがつかめなくって」

 清次郎が一歩前に出て声をかけてきた。

「こんなとこ見つかると大変だよ。私を見送っちゃ駄目だときつく言われてんだろ。おたくの唐変木はああ見えて執念深いからね。あたしゃよっく知ってるんだから」

 清次郎も六人の手代も、合わせたように皮肉っぽく口の片方を持ち上げて短く笑ってみせた。

「そんなこたぁ気にはしてませんや。それより最後に面白れぇ仕事をさせていただきやした。どうしてもみんなでお礼を申し上げたくて」

 清次郎が真顔になって腰を折り上目遣いに志乃を見上げた。

「お前達には、悪いことしちまったねぇ。お店を持たせてやる約束を守れそうにないよ」

「何をおっしゃいます。自分の店は、自分でなんとかしまさぁ。そんなことよりあっし等は、もう一度女将さんと一緒に仕事がしとうござんす。女将さんが店を出すときゃ、真っ先に駆けつけますんで。そん時ぁまた雇ってくださいまし」

 手代等が清次郎に合わせて一斉に深く頭を下げた。

「わかったよ。頭を上げとくれ。そん時は、私の方から頭を下げてお願いするよ。それまでは茜屋のことしっかり頼んだよ。お前達がいれば大丈夫だ。千代屋みたいに今度は茜屋をぶっ潰すから、壊しがいのある店にしておいておくれよ」

「おっと、そん時ぁ、おいらはどっちの味方をすりゃあいいんで?」

「そっかぁ、そいつは困ったねぇ」

 ひとしきり大声を出して笑い合った後で、清次郎が真面目な顔付きになった。

「あっしの知り合いの甚兵衛って爺さんが不忍池の近くで長屋をやっております。部屋が空いてるという話を聞きました。今夜はとりあえずそちらでお休みください。むさ苦しくって申し訳ねぇんですが。池からの北風が吹き抜ける吹貫横町っていうぐらいですから過ごしやすいかと」

「なに言ってんだい。ありがとうよ、明るく笑って見せちゃいるが、本当は今夜からどうしようか悩んでいたんだ。恩にきるよ」

 清次郎は池之端仲町の棟割長屋まで描いた地図を三津に渡すと、志乃に向かってもう一度深く頭を下げた。


 彼等の後姿を見送っていた三津が、感心したように志乃の顔を見た。

「店の中じゃ、愛想なしの冷たい番頭さんだと思っていたが、なかなかいいとこあるじゃないか。見直したよ」

「あの子はね、手綱さえ間違えなきゃいい仕事をするよ。もう少し私の目の届く所で育てたかったんだがねぇ」

 ともあれ清次郎の出現で志乃が立ち上がることができたと三津は思った。清次郎を始め何人かの手代は志乃の厳しい指導にも脱落することなくついて来た。志乃が茜屋に残した財産である。彼等が暫くは茜屋を回して行くだろう。

「さ、取り敢えず不忍池、不忍池っと。女将さんの新しい夢もわかったことだし」

「なんだい。そりゃあ?」

 志乃が不思議そうな顔を三津に向けた。

「だって、清次郎さんに言ってたじゃありませんか。茜屋を潰すって」

 長年世話になった茜屋を潰せなど三津にはできない発想であったが、考えてみれば志乃のいない茜屋など未練もない。きっと何年もしない内に澱んで行くだろう。

 そんな店は、潰して貰わねば……

「いっけない。本当だ。大変なこと言っちまったね。でも悪くない夢だ」

「そうと決まれば! まずは腹ごしらえからですよ」

 三津は、志乃の背中を押した。



邂逅 綾絹の手触り


「女将さん、米櫃に後二日分しかありませんよ」

 梅雨の合間の昼下がり、いつもの三津の愚痴が始まった。

 鉢植えの紫陽花の手入れをしていた志乃がうんざりした面持ちで三津を見ずに答えた。

「買っといでよ、『泣く口には食える』って言うじゃないか。嬉しいことがあったなら食べることを忘れるかも知れないが、不幸せな時でも因果なことにお腹は減るってものさ。今みたいにひどく悲しい時にこそしっかり腹ごしらえしなきゃ。お金ならたんとあるよ。手切れ金に貰ったものにまだ手をつけちゃいないんだから」

 五百両近い金が両替商の伊勢屋に預けられていた。

「だめですよ。そのお金は女将さんが新しく出す店の資金にしなきゃ」

「そんなこと言ったって、おまんま食べなきゃ新しい店もないよ。暫くは二人でのんびりしようよ。そうだ、皺伸ばしに湯治にでも行かないかい? お医者様でも草津の湯でも恋の病はコリャ治りゃせぬよってね」

 志乃はのんびりと天井を見上げて二人でする旅の光景を思った。

「いい歳して誰が恋の病なんですか? そんな恋より、旨煮か鯉こく、食べたいもんですよ。酒をよっくもみ込んで臭みを抜いてから、弱火で灰汁をとりながら半日以上丁寧に丁寧に煮て骨を柔らかくするんですよ。ま、女将さんにゃ関係ない話ですがね」

「なんで鯉にお酒を飲ませなきゃならないの。もったいない。私が飲んであげるよ」

「お味噌を半分溶きいれて、ショウガの絞り汁や山椒を振りかけて、ひとたちしたら残りのお味噌を入れて……って、考えただけでもお腹が空いてきた」

 まるで「三河萬歳」だねと志乃はひとりで笑った。

「ま、ずっと休まずに働いてきたんですものね。でも将来お金もないのに寝たきりの女将さんを面倒見るのはごめんですからね」

「おや、てっきりいつも肩が痛い腰が痛いって唸ってるお三津の方が先によいよいの寝たきりになるのかと思ったよ。痩せとくれよ、そうじゃないとわたしゃ抱えられないからね」

「お生憎様、金鍔や大福ばっかり女将さんが買ってくるからですよ」

「人一倍喰うからだろ」

「せっかくの女将さんのご好意、余らしちゃあもったいないですからね」

 このところ、この二人の暮しは笑いが絶えない。

 柵から吹っ切れた笑声である。

 今も大きな笑い声が間口九尺奥行き二間の棟割長屋の中で響いた。不忍池近く池之端仲町の甚兵衛長屋に越してから一カ月が過ぎようとしている。

 この一カ月で大きく変わったことがある。

 それは、志乃の心の変化であった。

 千代屋との争いに勝ったにもかかわらず何も得られなかったのに、皮肉にも心の通わない夫八左衛門から縁を絶たれ、茜屋を追い出されたことによって志乃は自分を取り戻せたようだ。

 仙吉の幻影に駆り立てられながら走ってきた志乃は、すべてを失って初めてその呪縛から解放されたのだ。

 生まれ変わったことを実感できる。

 不安なことは、ただこれから先何をすればよいのかわからないということ。

 私にしかできないこと――

 志乃の心に新しくできた空白を何で埋めたらよいのだろう。

 茜屋を潰せと三津が言ったが、その前に自分の足で立たなければならない。

――清々しいほど何にもなくなっちまったね…… いや、お三津だけだ。お三津が残ってくれたのが一番嬉しいよ

 その三津は暇さえあれば近くの湯島天神へ御参りに行くようだ。

 何を祈願しているのか志乃が問うても三津は笑って答えない。

「紫陽花の花びら、ご覧よ。綺麗な紫じゃないか。お三津、今日は何か良いことが起こりそうな気がするよ」

「勘違いですよ」

 二人の笑い声と一緒に、表で訪いを告げる声がした。

「ごめんなすって。賑やかなことで。外までお三津ちゃんの笑い声が聞こえてましたよ」

 立て付けの悪い腰高障子を引いて入って来たのは、すっかり貫禄のついた呉服屋「花信風かしんふう」の主人信兵衛だった。

「あら、大番頭の信蔵さんじゃありませんか」

「お三津、失礼だよ。今は花信風の信兵衛さんだ」

 元茜屋の大番頭信蔵は仙吉の件で志乃の父親と折り合いが悪くなって以来、十五年程前に独立して人形町で店を構えていた。今や茜屋と肩を並べようかという勢いで、信兵衛にその気があればおそらく志乃のいなくなった茜屋など近い内に飲み込まれてしまうであろう。

 志乃に対する信兵衛の態度が昔と変わらず心が軽くなった。嫌な噂も聞こえているであろうに、信兵衛の目は志乃を信じ、いたわるような暖かい輝きを見せている。

 お茶を入れようと身軽な動きをみせた三津を信兵衛が制した。

「今日は、仕事を頼みにめぇりやした。うちのお針子が急に田舎へ帰っちまったもんで人手が足りねぇんでございやす。なんとか手伝ってもらえませんでしょうか。ちゃんと相場でお支払いいたします。手前どもを助けておくんなさいまし」

 信兵衛は、二人の小僧に持たせた包みから反物を上がり框に並べ始めた。米沢紬に黄八丈、それに結城紬、大島とどれをとっても高価な絹織物が次々と積まれていく。

 志乃は恐れに抗いながら躊躇いがちに手を伸ばした。内心、二度と触ることはできないであろうと諦めていた反物である。

 まだどこかで仙吉を慕う志乃の心を知っている三津が顔に不安な色を浮かべて息を呑んだ。

 志乃の脳裏に若い頃の仙吉の姿が過ぎった。

――本当に私は仙吉から放免されたのだろうか

 不安を抱えたまま志乃の指が一番上に積まれた紺の江戸小紋に触れた。

 瞬時に懐かしい手触りがよみがえってきた。不思議なほど何の拘りもなくその反物を手に取ることができた。反物も志乃を受け入れてくれたようだ。肌理細やかで滑らかな絹の感触。人前であることも忘れて、目頭が熱くなった。絹の手触りを確かめながらその懐かしさが消えないようにいつまでもその反物を撫で続けた。

――仙吉? どこにいるの

 志乃は自分の心象の中で仙吉を捜した。

 そして、やっと見つけた仙吉はいつもの自信に満ち溢れ才走った仙吉ではなかった。肩の力が抜けたどこかほっとしたような顔で笑っていた。志乃を慈しむように見詰める目が優しかった。志乃は心の中で仙吉に呼びかけると、仙吉は一度志乃に頷いてから、少し淋しそうな笑顔を見せて姿を消した。

 そして、仙吉が姿を消すと「装うことで人は幸せになれる」という信蔵の口癖がその仙吉の抜けた穴を埋めるように自然と志乃の心の中に浮かび上がってきた。仙吉が信蔵に志乃のことを任せたということなのだろうか。胸の痞えを癒すように志乃はその反物をきつく抱きしめた。

――やはり、私はこの手触りにずっと関わっていたい……お針子でも構わない

 彼の申し出は、再起しようとする志乃にとって願っても無いことであった。喜んで引き受けると即座に答えた。

 三津が目頭を押さえながら胸を撫で下ろしているのがわかる。三津の心が伝わってきた。

 声をかけるのを憚るように信兵衛が言葉を詰まらせて広くなった額を志乃に向けた。

「それから申し上げにくいことでござんすが、この長屋ではお仕事をされるのに狭もうございやす。根岸に私どもの寮がございますが、そっちに移っていただきたくて。ここでは反物を広げられません。また万が一、汚れちまったら困ります。今女房のお浜が先に行って掃除をしておりやす」

「お浜さんが……」

 見た目は楚々とした美人だが勇み肌でまさに白無垢鉄火のお浜さんと、一緒になる前から大番頭の信蔵さんは頭が上がらなかったね。

 お浜さんは、まだ伝法な物言いをなさるのかい?

 きっと粋に構えて、女中達を指図しているに違いない。

 志乃は手の甲を口に当てて笑ってしまった。

――お父っさんの出した二十両に三十両を足して仙吉に渡した信蔵さん。みんなお見通しだよ

「信兵衛さんもその回りくどい言い回しは昔のままだねぇ。十年も前なら意地張ってでも即座に断っちまうが、今は『花信風』さんのご好意にはすがっちまうよ。私はどうしても、もう一勝負したくなったのさ。そのためにはちょいと時が足らないからねぇ。よろしくお願いしますよ」

「おっと合点! 承知のすけだ。善は急げ、急げっ」

 威勢良く信兵衛はぽんと手を打つと、連れて来た小僧たちに引越しの指図を嬉しそうに始めた。

「そんな言い方信兵衛さんに似合いませんよ。それにそんなに急かせなくっても。逃げやしませんて」

 外に大八車が見える。用意のいいことだ。信兵衛は何が何でも志乃を根岸に連れて行くつもりできたのがわかる。

「いえいえ、お嬢さんの性格は小さい頃からよっく知っておりやす。朝、うんと言っても昼になるとどうだか」

「そうそう、本当に我侭で天邪鬼なんだから。さっさと根岸へまいりましょう」

 志乃が口を尖らせて三津を睨んだ。

 いつの間にやら襷十字に綾なした三津が志乃の手伝いを当てにする様子もなくせっせと荷造りに取り掛かっている。女中頭に戻ったのかと思わせる三津は信兵衛の連れて来た小僧等をまるで自分の配下のように使い回した。

「邪魔、じゃま、邪魔ですよ、女将さんは外に出て挨拶周りでもしといてくださいな」

「そんなに邪険にしなくってもいいだろ」

 何もかもが二十年前に戻った錯覚がした。

 名残惜しそうな顔をしてみせる差配さんに挨拶を済ますと志乃と三津は、住んで間がない長屋を後にした。

 茜屋を出た時と違って、今度は長屋中で見送ってくれた。

 荷物になるからと断っても、自分らの商売道具から棕櫚箒や手拭、鍋、野菜に米といった具合に荷車の荷物の間へ押し込んできた。

 二人の出て行った長屋の上がり框には紫陽花の鉢が置かれ、「ご自由にお持ちください」と書かれた短冊が吹き込む風に揺れていた。



蒼々たり ふたたび


 雨が近いのか、燕が低く飛んでいる。

 遠くに見える田圃は田植えも終わり濃い緑で覆われていた。道端には所々に紫の桔梗の花が水を蓄えて揺れている。茜屋の志乃の部屋から広い中庭が見えていたが、今はきっと栴檀の木が白い花をつけていることだろう。

 考え事をしている内にいつの間にか上野の森を過ぎたようだ。

 引かない汗に着物がまとわり付き爽快さからは程遠く、信兵衛が駕籠を用意すると言ってくれたのだがそれでも志乃は歩きたい気分だった。信兵衛もあまり無理強いすると志乃が臍を曲げると思ったのか、しつこくは勧めなかったようだ。

 途中で仲睦まじい母娘と擦れ違った。

 色違いの紬の着物を着ていた。狭い道だったので、端の方に寄って大八車に道を譲ってくれた。横を通り抜ける時に互いに目を細めて軽く会釈を交わした。

 年頃の娘とその母親、有触れた光景だった。

――本当にどこにでもある風景だろうか? あの頃の私は、母をそして父を決して許してはいなかった。そして父と母が死んだ今となっても私の心の奥底では、やはりわだかまりが残っている。

 お珠とは嫌な別れ方をした。母を許してくれる日が来るのだろうか?

 私と母のようになってはいけない。そして、私のように過去に縛られてはいけない。

 読んでくれぬのではないかと案じながらも娘へ何通か手紙を書いてはみたが、珠からの返事はまだ来ない。

 無口になっていた志乃を三津が訝り、顔を覗いてきた。

 志乃は三津の心配から気を逸らすように笑った。

「長屋中に引越し蕎麦、配ったのが効いたねぇ」

 積まれた餞別の多さに志乃は大八車を押す手を休めて三津の顔を見た。

「引っ越した晩は女将さんの奢りで朝まで上を下へとドンチャン騒ぎ。幡随院の辰さんも子分衆に酒樽持たせて飛び入りしちゃうし、まるで浅草神社のお祭りみたいに賑やかで」

 あの時辰太郎から不自由させないからうちに来いと誘われたが、不自由していないと断った。それはそれで嬉しかったし、勇み肌な生活が始まるのも悪くないと思ったが、志乃の心の中にどうしても消せない火が燻ぶっていることに拘った。辰太郎も薄々それを感じ取ったようで後は一言もその話題に触れなかった。

「私は、てっきり辰さんの世話になるのかと思ってましたよ」

「それも悪くない話だったんだけどねぇ」

 志乃は歩きながら正直に自分の隠された気持ちを説明するのが億劫に感じた。そしてその気持ちの行き先が自分でもまだよくわからないのだ。とりあえず三津にわかりそうな理由を選んでみた。

「私はどうも辰ちゃんのお内儀さんが苦手なんだよ。辰ちゃんとは疾しいことは何もないんだけどね。うまくやれそうもない。きっとどっかでぶつかるよ」

 辰太郎の妻女お京は、目鼻立ちのきりりとした細面の美人で荒くれどもを掌中で転がすと評判の鉄火であった。子分の扱いは辰太郎よりも巧く、多勢に慕われていると謂れている。志乃より八つは若いはずだ。茶屋勤めだったが危うく吉原に売られそうになったところを偶然辰太郎が助けたらしい。

「幡随院の姉さんとはまるで姉妹みたいにそっくりじゃありませんか。あっ! 似すぎちゃってうまくいかないとか」

「そうなんだよ。鏡見ているようで気味が悪いのさ。私の悪い所もみんな似てる」

「そうそう、確かにお京さんも女将さんも美人なのに気の短そうな険のある顔をしてる」

「お三津! どうせ私は笑ってもあんたみたいに片笑窪なんてできませんよ」

 志乃の睨みにも動じない三津が納得したように、しきりと一人合点して頷く。

「しかし、小さい頃から私はそうだと睨んでいたんですがね。幡随院の大親分も女将さんのことよっぽど好きだったんですねぇ。よくもあれだけそっくりな人、探しだしたもんだ」

 三津同様辰太郎の気持ちに気づかなかった訳ではない。二人の傍に仙吉がいただけなのだ。あの頃の辰太郎は仙吉に遠慮して素振りも見せてくれなかった。

「若いけどあちらさんの方が立派だよ。あんな荒くれどもをちゃんと束ねていらしゃるんだから」

「いやいや、女将さんも負けちゃいませんて。そう言えば、あの時、辰さんが差し入れてくれた祝い酒に酔っ払って、鳶の銀さんが危うく不忍池で土左衛門になるところでしたね」

 三津はあの引越しの日がとても楽しかったようだ。次から次へと記憶をよみがえらせてくる。

「土左衛門っていやぁ、仙さんのお墓はどこのお寺さんだろ?」

「嫌ですよ。そんな思い出し方したら仙さんが化けて出ますよ。たしか深川寺町の心行寺さんだったと思いますがね」

 両手を垂らした三津が幽霊の真似をした。

「じゃぁ、化けて出ないように今度お参りに行こうか」

 見上げた空は今にも雨が降ってきそうな重たい空であったが、仙吉を思う志乃の心に晴れ間が差してきた。

「あのまま仙吉と手に手をとって上方に行ってたら、どうなっていたんだろうねぇ」

 きっと今みたいに根岸へ向かって歩いてなんかないだろう。ひょっとしたら夏には、仙吉と二人で片貝の花火を眺めているかもしれないね。

 左手の中指を頬に当て首を傾げる志乃の表情は、三津に安易な同意を求めていた。

「きっと、別れてますよ」

 三津が、自信たっぷりに答えた。

「たった今お京さんとは合わないっておっしゃったばかりじゃありませんか。同じですよ、仙吉さんも。女将さんも千さんも商売のことじゃ、意地を張るからねぇ」

 志乃は口を尖らした。それは違うと反論できなかった。そんな気もするし、そうじゃないかもしれない。だが、どっちに転んでもきっと今みたいに二十年も後悔するようなことはなかっただろう。

 でも、後から何を言ってもしょうがないね。

 あの弁天池の夜からやり直せるってことはないのだから。

 あの日あんたを選ばなかったのは私なんだ。

――ごめんね、仙吉。私の心変わりであんたと一緒に描いた夢を掴めなかったね。責めないでおくれよ。

 そうだ、あんたはそっちで先に逝ったお内儀さんとやり直しできてるかい? 仙吉が悪いんだからしっかり謝って仲直りするんだよ。あんたは、『いちがいこき』だからあんたの方が下りなきゃだめだよ。

 さぁ仙吉、笑って見といとくれ

「これからだよ。お三津」

 三津には何がこれからなのかわからない様子だった。でも三津のこんなに晴れ晴れした顔を見るのは久しぶりだ。自分もきっと同じ顔をしているに違いないと志乃は思った。

「そうそう、まだまだこれからですよ」

 三津も額の汗を拭いながら志乃の言葉を繰り返した。

「私も若い燕でも見っけて貢がせようかねぇ」

 三津が言い添えた言葉に荷車を牽いている呉服屋「花信風」の小僧達が声を出さずに笑った。

「心配しなくってもお前たちをとって喰ったりはしないよ。これでも昔は茜屋小町のお三津ちゃんで有名だったんだ」

 小町娘という言葉に反応して意外な声を上げた小僧等の頭を三津が丸顔を膨らませて拳固で叩いて回った。

 腹を抱えた信兵衛旦那の笑いが止まらない。

「茜屋小町のお三津ちゃん、それぐらいで勘弁しておやりよ」

 三津のこれからと志乃のそれは違うかもしれない。

 志乃はそれでもいいと思った。

――これからだ、まだまだ私も捨てたもんじゃない

 志乃は、道すがら何度もそう呟いた。

 やがて、数寄を凝らした洒脱な家並みが見えてきた。

 あの細い流れは、音無川に違いない。

「もうじきでございます」

 先を行く信兵衛が振り返り、笑って腰を折った。

 志乃も信兵衛に合わせて微笑もうとしたやさきだった。湿った風の運ぶ韮のような青臭い臭いに志乃は思わず袂で鼻を覆って顔を顰めた。

 その仕草に三津が笑った。

「半夏生ですよ、この臭いは」

 三津が少し先の湿地を指差すと穂状の小さな白い花を囲む葉先を片白にさせた草が密生していた。茎の先端の葉が部分的に白化するので片白草、あるいは白粉を塗りかけた女性がふと用を思い出し鏡台の前で立ち上がった姿にも見えることから半化粧ともいう。

「女将さん、もう梅雨があけますね」

 半夏生の花が咲き、夏待ち顔に化粧をほどこし始めると梅雨が終わる。

「もうじき夏が始まるんだね」

 志乃が答えた。

――これから始まる…… 今の私もきっと半化粧みたいなもんだろうね。見ててご覧よ。きっちり念入り、化粧してみせるから

 志乃は胸の内でそう繰り返すと、半夏生の臭いをゆっくり吸い込んで一歩踏み出した。

 信兵衛の寮が見えてきた。

 玄関の前で斜に構えて立っている人待ち顔の女の影が志乃達に気づきぱっと華やぐや、大きく手を振った。幡随院の姉さん以上の鉄火肌だ。そして、無防備に懐かしさを表出したことの照れ隠しか、その影は昔通りの小粋な身ごなしで羽織った黒紋付の襟を直すと丁重に腰を折って挨拶した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ