青の刻
悋気 冬の万年青
縁側に出ると赤い実をつけた万年青の鉢が置いてあった。冬だというのに葉には眩い光沢がある。その幅広い深緑で長楕円形の葉が冷たい風に抗うように揺れて朝露の名残を飛ばした。
尖った葉先、引き締まった葉姿がこの季節には少ない緑を無邪気なまでも誇負しているようで志乃の心を苛立たせた。
万年青の育成は旦那衆の遊びとも言われている。
きっと夫の八左衛門が川柳仲間に唆され、わざわざ巣鴨辺りで買ってきたものに違いない。
「誰なの? こんな所に置いたのは! 鬱陶しいったらありゃしない。お三津!」
苛立った声で朝の膳のかたづけをしているはずの女中頭お三津を呼んだ。
すぐに藤鼠色の木綿格子に襷がけのふっくらした女が、前掛けで手を拭きながら小走りにやってきた。
「どうしたんです? 女将さんらしくもない。そんなすっとんきょうな声を出して、鑓でも降ってまいりましたか?」
大きな目をした三津は笑窪を見せて愛嬌のある笑顔を女将にむけた。
志乃が十の時からの付き合いである。
三津は二つ下で茜屋に奉公してから三十年の歳月が過ぎた。
房総の貧しい農家に生まれたが親兄弟は既に離散してその生死もわからないらしい。十代の終わり、請われて桶屋に嫁ぎ店を離れた三津であったが四年程で夫に先立たれ寡婦となった。
子供ができなかったことで婚家を出され、生活に窮していると噂を聞いた志乃が三津の住む裏長屋を探り当てた。建て付けの悪い引き戸を力任せに開けると、薄暗い湿った壁にもたれて途方にくれる三津がいた。
志乃は、何も言わず三津の腕をつかむと強引に外へ連れ出した。
奥向きの気働きができる三津の才を惜しんだ志乃であった。足をもつらせ引かれる三津が「お嬢様らしい……」と泣きながら笑うのを志乃は背中越しに聞いた。
茜屋は、浅草は花川戸町、奥州街道に面した大店の呉服屋である。いや、一人娘の志乃が親の決めた婿を取り、店を継いでから間口も広がり大きくなったといってもよい。年頃の美しい娘たちを集め、隣に茶店を出したのが当たった。
茜屋の小町娘。
彼女達が着る新作の着物は、評判になった。浅草中の娘たちが真似をした。
「女将さん、万年青は縁起物でございますよ」
志乃は底抜けに明るい女中頭の言葉に答えようとせず追い払うように手を振った。
「店のことでなにか気になることでも?」
万年青の鉢を抱きかかえた三津が躊躇いがちに声をかけた。
志乃はふと気づいたように自嘲した笑いを浮べ、指で自分の髪を軽く梳いた。
三津が安堵した顔で志乃の隣に腰を下ろすと、志乃もその場に女将らしく静かに正座した。
「いやだねぇ、何を苛ついてるんだろ」
浅草寺から五つ(午前八時)を知らせる鐘が響いた。
志乃の力のない白い息が拡散されて庭へ流れていく。
「今日のお昼にお珠のお相手が挨拶に来るんだとさ。いつの間にか、お珠もそんな歳になったのかねぇ」
娘の縁談は、志乃の亭主が暇さえあれば通っている川柳の仲間から出てきた話であった。
相手は、最近深川で評判になっている小間物屋の跡取り息子らしい。女郎衆を相手に派手な襦袢や蹴出しで売り上げを伸ばし深川一帯を席巻しているという。ただ先代の腰の低さに比べ、息子は高慢だとか増長しているという悪い噂も流れていた。志乃の亭主八左衛門は、成功した者への妬み嫉みだと相手にしない。どうも乗り気のようだ。
「なんだか以前から逢っていたようなんだよ。ちっとも気付かなかった。そう言えば近頃お珠の体つきもやけに艶っぽくなってきたみたいだし…… いやだねぇ」
「だって十六でしょ。女将さんもその歳には誰かさんと駆け落ちするって騒いでたじゃありませんか」
三津が意地悪く笑ったのに志乃は口を尖らせて睨んだ。お嬢様と呼ばれていた頃からの癖である。
「ひょっとしてお珠様に悋気なさってるんじゃありませんか?」
三津が閃いたのか、万事承知の顔で頷いた。
「だから万年青の青々とした葉っぱに苛立つんですよ。ほかの葉っぱは私等みたいに枯れちまってるのにねぇ……」
「よっくお見通しだこと。お三津も親知らずが抜けて以来、奥歯にゃ何にも挟まっちゃいないようだね」
いつものことながら志乃はつい苦笑いを見せてしまった。それは当たっているかどうかは別にして、きっぱりと言い切った三津へ敬意である。
「だてに三十年も一緒にいませんて。でもね、あたしゃ女将さんが羨ましくってたまらないんですよ。誰に聞いても女将さんの方が若いんだろって言う。口惜しいったらありゃしない」
「そんなこと言ったって、何にもでないよ。私ももう四十を過ぎちまった。おばあちゃんだ」
「すぐにお珠様の子供を抱いて本当のおばあちゃんになりますよ」
ふたりは顔を寄せて笑った。
三津が万年青の鉢を抱えていなくなると志乃は障子を閉めて自分の居間に戻った。
三津と話して少しは心が軽くなり帯を締め直して店に出ようと思った矢先であったが、再び一人になると原因のわからない気だるさに動けなくなった。
いつもなら帳場で五人の番頭を相手に矢継ぎ早な指図を出している頃である。こんなことは今までになかった。
鏡台に掛けはなしの鏡が志乃を映していた。他人が映っているような気がして覗き込んだ。
そこにあったのは茜屋の女将の顔であった。
志乃の顔を見なくなってから……
――ちょうど二十五年経っちまった
果敢ない歳月は、志乃の目尻と首の辺りに皺をつくった。髪の毛にも白いものをみつけることもある。年々近づいてくる老残の境涯に漠然とした焦慮を感じて心が煎られるのは、きっと二十数年前に遡る弁天池の朝のことが自分の中でまだ決着をつけていないせいであろう。
途中だった化粧を終え、鏡をおろすと部屋の真ん中にある火鉢に手をかざした。
(私は、ずっと大事なものを忘れちまって生きている)
聞こえるはずの無い蝉時雨が頭の中で聞こえた。季節外れの空耳だと志乃自身も気づいている。
――おまえが初めて茜屋に来た時、蝉が一斉に鳴き始めたのを覚えてるよ。忘れちゃないさ。
「仙吉……」
こんな生き方をしたかったんじゃないんだよ。どこにいっちまったのさ。志乃は……私は、おまえと茜屋を盛りたてていきたかったんだよ。
自分の生き様を壊すように、燻ぶる炭を火箸で砕きながら胸の中にしまっておいた名前を何度も呟いた。
あの時のことはいつの間にか志乃と三津しか知る者がいなくなっている。
それは、人それぞれの価値など認めようとしない歳月の重さのせいだった。
青の刻 法師蝉
仙吉が茜屋で奉公を始めたのは、志乃が十になった夏の終わりだった。
さっと馬の背を分けるような夕立が通り過ぎたかと思ったら、今度は庭の赤芽柏からいっせいに法師蝉の鳴き声が時雨れ始めた。
志乃は、陽の傾き始めた縁側で最近女中奉公にやってきた二歳下の三津と人形で遊んでいたが、衰えることの無く競い合っているような「オーシツクツク……」という鳴き声に遊ぶ気が失せ始めていた。志乃が抱き抱えている人形の腹部にはフイゴ式の笛が入っており、押すと音が出る高価な市松人形であった。
志乃は両手で人形を赤芽柏の木に向けて突き出し、蝉の鳴き声に負けまいと気ぜわしく人形の腹を押した。
「……壊れるっ」
我儘に振舞う志乃に三津が困った顔をして戸惑った。物怖じしない三津も茜屋に奉公に出たばかりの頃は、まだ勝手がわからず遠慮がちであった。
急に勝手口の方が訪いを受けて騒がしくなった。
そのざわめきが帳場の方へ移動していく。
「今日じゃなかったかしら、越後から仙吉って名の小僧さんがやってくるのよ」
「越後?」
志乃が人形を三津に差し出し「かたずけなさい」と目で命じた。
志乃の興味が移ったことに三津は安堵して人形を受け取ると、それを慈しむように抱きかかえた。
「なんでも冬になると雪が屋根よりも高く積もる所なんだってさ」
まだ何も知らない三津に、夕べ大人たちの会話を立ち聞きした志乃が、恰も自分の知識のようにもったいぶって話して聞かせた。
「雪もね、こっちと違って舐めると甘いらしいよ」
これは志乃のいい加減な嘘だった。
三津が信じられないような顔をして大きな目をさらに丸く開いて驚いた。志乃はそれが楽しかった。
「見に行こうよ」
三津が、仕事中に遊んでいる後ろめたさから渋ったのを、「お三津は、わたし付の女中で入ったんだから、わたしの言うことは、きくものよ」と無理やり志乃は三津の二の腕を掴んで引っ張っていった。
仙吉は越後の片貝から口減らしのために売られてきたらしい。片貝は片貝木綿の産地で、その細い糸のような繋がりから茜屋と縁ができたのかもしれない。
志乃は、三津を引き連れて、襖の陰から帳場を覗いた。好奇心の強い志乃は、歳の近い小僧さんが入ってくると聞いてじっとしていられなかったのだろう。
襖の隙間から見えた主人、つまり志乃の父善兵衛は仙吉に型どおりの商いの心得を話すと、三十を少し出た番頭頭の信蔵に後を任せて寄り合いに出かけていった。
「よろしゅうお願いしますいね」
お国訛りを意識したのかぶつぶつと小さな声で頭を下げる仙吉が見えた。そういう風に言えと越後を出るときに教えられたのだろう。それ以外のことはしゃべろうとはしなかった。しきりに汚れた手拭で汗の噴出す顔や首の辺りをぬぐっている。
「笑っちゃうね、お願いしますいねだって。お三津、あの田舎者のこと、どう思う? あんたよりも三つ年上だそうだよ」
志乃は、目だけは帳場を窺いながら小声で三津に聞いた。
「……痩せてヒョロ長い」
三津は市松人形を抱きかかえたまま躊躇いがちに答えた。
「じゃ、ヒョロ吉だね」
田舎者のヒョロ吉、ヒョロヒョロと志乃と三津は口を押さえて笑い合った。
小僧の仕事は、使い走り、店の掃除、台所の用事までことごとくであるが、店にはまだ出ることができない。店に出るのは手代になってからである。十一歳になったばかりの仙吉は、越後訛りを侮られ周囲に馴染めず無愛想を装うことが多かった。
歳が近いと聞いて、お三津のように一緒に遊べるかと思っていた志乃の期待が外れた。思い違いしただけではなく、仙吉の刺すような視線は不愉快極まりないものだった。
しかし、それほど日を置かず志乃は迷い込んだ翡翠を追いかけているうちに、偶然にも仙吉が雪隠の裏の誰も来ない小さな空き地で泣いているのを目撃してしまった。いつも無口で肩肘を張った仙吉しか見たことの無い志乃は戸惑ったが、すぐに声を殺して嘲笑った。
「いつも怒った顔して私を睨んでるくせに、ホントは意気地なしじゃないか」
腕を組んだ志乃は勝ち誇ったように顎を上げて胸を反らせた。
「ほんとだな、期待はずれだぜ」
いつの間にか見知らぬ少年が隣で、赤芽黐を植えた生垣の隙間から仙吉を覗いていた。歳の頃は、志乃と同じかひとつふたつ上のようだ。子どものくせに上質の木綿の着物を無造作に着ていた。型染めのそれも細緻な模様の手捺染である。髷はまだ板についていないが伝法肌の職人のように刷毛先を粋にちょっと曲げている。
「あんた、誰よ」
「俺かい? 俺は、幡随院の辰太郎ってんだ」
「幡随院って口入れ屋……さんの?」
「そうよ。知ってるかい?」
口入れ稼業とは、人足などを斡旋する生業である。だが、幡随院が花川戸に一家を構え三千人の子分を持つ大親分でもあることはこの界隈なら子供でも知っている。しかし、荒い風にも当らないように育てられた志乃は世情に暗く、その名を聞いても萎縮することはなかった。
「その口入れ屋の辰太郎さんが、なんでうちの小僧さんに期待はずれなのよ」
「なんだ、おめぇはここのお嬢かい。いや、己いら幡随院の後取りなんだがよ。親父に言われて、男を磨くためにこれっと目をつけた男に喧嘩売ってまわってるのさ。あいつの目つきが尋常じゃねぇから、どっかで殴ってやろうと見張っていたんだが、やめたぜ。雪隠の陰で泣いているやつなんかをやっつけたって、自慢にもならねぇ」
「ヘンなお父さんね、子供に喧嘩しろなんて。でも言っとくけど茜屋の小僧をばかにするんじゃないよっ。第一、仙吉の方があんたより背も大きいじゃない。鰻みたいに捌いて大川に捨てっちまうよ」
「おうおう、気の強えぇお嬢だな。知らねぇのか? 喧嘩ってのは、度胸よ。度胸なら己いら誰にも負けねぇ」
辰太郎と名乗った生意気な少年は、どんと胸のあたりを左手の拳で叩いて見せた。
「おめぇも己いらが幡随院の後取り息子だと聞いても他の奴らのようにちっともビビらねぇ。てえした度胸だぜ」
志乃が身構えると、辰太郎は声を出さずに笑った。
「心配するねぇ、己いら女にゃ手をあげねぇって決めてるんだ。でもおめぇだってさっきはあいつの悪口、独り言でぶつぶつくっちゃべっていたじゃねぇか。どっちの味方だい? よくわからねぇヤツだな。そういえば若頭の兄貴が教えてくれたっけ。女心と秋の空ってな」
「まだ夏よ! 子どものくせに大人ぶって一人前にえらそうなこと言わないでよ」
志乃の負けん気が顔を出した。
「大きな声出すなよ。仙吉って野郎に聞こえちまわあ」
志乃は慌てて口を押さえ、泣いている仙吉を盗み見た。そんな志乃のうろたえぶりを辰太郎が声を出さずに軽く笑った。その屈託ない笑顔に志乃はつい引き込まれてはにかんでしまった。
辰太郎がじゃあなと片手を上げて表通りへ歩いて行った。志乃もつられて片手を胸の辺りで小さく振って挨拶した。気づくと笑顔をつくっている自分に気づいた。
――ちっとも怖くなんかなかったよ。一生懸命背伸びして、そんなに悪い子じゃないかもしれない
志乃は辰太郎の歩いて行った方向を眺めながら、志乃の周りの小僧っ子等にはない爽やかさを思い出していた。
――それに引き換えなんて鬱陶しいんだろう、仙吉は
「厠で泣いてたんだってよ」
「いや、厠の外の空き地だって話だよ」
女中達に広まった噂は、すぐに店中に伝わった。
仙吉は立つ瀬を失いさらに無口になったが、その噂の元が志乃だとは知るよしもなかった。
春には白く芳しい花を咲かせる姫こぶしも絞り模様で彩られるしだれ桃の庭木も、吹く風に葉を落す季節になった。
夏が終わり過ごしやすくはなったものの志乃は、この物悲しい風景が嫌いだ。何もない冬の到来を予感させることに志乃は我慢ならなかった。まだ若すぎる志乃にとって冬は老いであり、老いは醜悪以外の何ものでもない。
志乃はちょっと年上の粋な姉さんがするように座卓に肘をかけてしな垂れかかり、枯れ始めた庭を眺めながら大仰に溜息をついてみた。そんな自分にうっとりと浸ってしまう。
そこへ不貞腐れた顔の仙吉が長柄の竹箒を持って庭を掃きにきた。
一人でいることに水をさされた志乃はわざと大きな音を立てて駆けて行き、障子をピシャリと閉めた。それだけでは気が納まらず仙吉が塵取を取りに行った隙に庭へ飛び降り、枯葉の掃き集められた山を思いっきり蹴散らした。
その後、物陰から覗いていると、戻ってきた仙吉が途方にくれた顔をして立ち竦んでいる。素知らぬ顔で回廊を渡り仙吉の前に立った志乃は腕を組み半身に構えて口を尖らせた。
「この風の日に竹箒だけ持って庭を掃くなんざ、どういう料簡なのさ。いっしょに塵取も持ってくるもんだよ。ぐずだねぇ」
険のある言い方に少し顔を歪めた仙吉だったが、すぐに表情を押さえて、「かんべんしてくんなせ。次から気ィつけますいね」と深く頭を下げた。
志乃は上から仙吉を見下すように見やった。
片貝木綿の角帯だけは立派だが張りのない紺縞の短い着物がみすぼらしく、下手なつぎが当たっている。
「自分で当てたのかい? 下手糞だねぇ」
つい幡随院の跡取り息子辰太郎と比べている自分に気づいた。あの赤芽黐の生垣以来、お稽古事の行き返りで喧嘩相手を捜す辰太郎と何度か出会い、言葉を交わさないまでも互いに軽く手を上げて挨拶するようになっていた。
何度か出会い――
これは正しくないかもしれない。花川戸の景色の中から辰太郎が志乃の視界の中で特別に意識されるようになったということだ。
「お嬢様! あの子は、乱暴者で有名ですよ。友達もいないそうじゃないですか。第一、あの子の親は……」
後ろをついて歩く三津は志乃の笑顔を見る度に本気で顔を顰めた。
それにしても、仙吉と辰太郎は違いすぎる。
「黙って突っ立てないで、さっさと掃除を終わらせておくれよ。目障りったらありゃしない」
――私の口から勝手に言葉が出てる。何て意地悪な言い方なんだろう
心の片隅で感じてしまった耐え難い自己嫌悪に志乃は、ふんと横を向くと精一杯の虚勢を張ってその場を離れた。
廊下を曲がった所で腰を低くした大番頭の信蔵に頭を下げられた。
「お嬢様、ありがとうございました」
志乃は戸惑って信蔵を見上げた。
「仙吉は越後の片田舎から誰も頼る者のいねぇお江戸にたった一人で出てきやした。きっと寂しいに違ぇねぇ。これからもその調子で仙吉のこと可愛がっておくんなさいやし」
ずっと見られていたのかと志乃は耳朶まで熱くなって俯いた。信蔵に気づかれないように足袋の汚れを隠した。わがままには育っているが、決して性根は悪くないと思う。むしろ使用人たちにも気配りのする優しい娘との評判も聞いている。茜屋の主人である父の善兵衛からも優しい母のお利久からもここに暮す者はみんな家族だと教えられてきた。
それが何故か仙吉だけは、苛めたくなるのだ。
手代の頃から志乃と遊んでくれて兄さんのように慕っている信蔵から、怒られずに仙吉を「お願ぇしやす」と頭を下げられた。
(あたしは、悪い子だ)
怒られた方がずっとよかった。志乃は心底そう思った。
青の刻 花魁道中
日本堤の上を大勢の人の流れが吉原大門へ動いている。
茜色に染まった鰯雲がさらに濃さを増した黄昏時――
「高尾太夫の花魁道中だ」
遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえた。
踊りの稽古から帰る途中であった志乃は、荷物を持たせた仙吉と顔を見合わせた。いつもは三津がお供についてくるのだが、この日に限って忙しい三津に代わり信蔵から言いつけられた仙吉が荷物を持たされていた。
「じゃまだ、じゃま! 道の真ん中偉そうに歩いてんじゃねぇよ。どきゃがれ」
後ろから仕立て下ろした格子柄の伊勢木綿を着た少年が志乃を避けるようにして横を駆け抜けて行く。
「辰太郎さん!」
志乃は思わず呼び止めてしまった。
「お、茜屋のお嬢じゃねえか。おめぇも行くかい? 花魁道中によ。一番人気の高尾太夫だぜ。呉服屋ならそんな踊りの稽古よりためになるんじゃねぇのかい」
仙吉が持たされている稽古道具を一瞥した辰太郎が志乃を誘った。仙吉が辰太郎から目を逸らすのが見えた。
辰太郎の誘いを断ったらわざと悪態をついて立ち去るに違いない。そうやって馬鹿にしようとしている。志乃の負けん気に火がついた。
「行くわよ!」
予想を裏切られたらしい辰太郎が一瞬たじろいだ。
「よしといた方がいいぜ。吉原は、女子供の行っちゃならねぇところだってお父っあんに教わらなかったかい?」
「あんただって子供じゃないか。さ、行くわよ」
「お、俺は子供じゃねぇ……」
駆け出した志乃に辰太郎と仙吉が追従する形になった。
「待ってくんなせや! お嬢様、駄目だこて。そこは子供が行っちゃあいけねぇって」
「待ちやがれ、怖い兄さん方に怒られてもしらねぇぞ」
志乃は、好奇心と辰太郎への意地、そしておどおどした仙吉を困らせたい気持ちで制止を振り切り、流れの中に飛び込んでいった。
衣紋坂に向かって駆ける志乃を仙吉が真っ青になって、辰太郎は顔を真っ赤にして追いかけてくる。それを見た志乃は心弾ませ、北から吹く雁渡しの風を撥ね返して走った。
本来あってはならないことだが、三人の子供が新吉原の大門を誰にも咎められずくぐって行った。四郎兵衛会所の男達も含めて大人たちの関心は全員、これから道中をはじめる花魁に向いていたせいだろう。それほど高尾太夫の人気が高かったのだ。
人波を潜って志乃達は、待合の辻から引手茶屋が並んだ仲ノ町の真ん中まで出て行った。人の多さに辰太郎とははぐれてしまったが蒼褪めた顔のまま仙吉はしっかり志乃についてきている。
新吉原京町一丁目三浦屋を出発した九代目高尾太夫の花魁道中が、志乃の前にゆっくりと近づいてきた。
定紋入りの箱提灯を持った若い衆が先導するその燦爛とした道中は、次に広袖の赤い振袖を着た禿が六人、二人ずつ三列に並んでゆっくり歩みを進めている。先頭の禿は一人が守り刀を大事そうに抱え、もうひとりが主人のであろう華美な朱塗りの煙草盆と銀煙管を捧げていた。
そして、その後ろを主役の太夫が続く。
「高尾大夫!」
「日本一!」
「いよっ、九代目!」
熱狂的な掛け声が方々から飛んだ。
髪飾りや打掛けも絢爛豪華で、志乃の目は釘付けになりどこの呉服屋で仕立てたのだろうと思い巡らせた。打掛けは、一枚の絵のようになっている総絵羽で、非常に高いものであった。柄は現実にはない夢の華を図案にしていた。ちなみに吉原では打掛けのことを仕掛けという。
茜屋ではないわ。あんな打掛け、店では見たことないもの。志乃の心の中に自分の店の着物ではないことの寂しさと、悔しさが込み上げてきた。
「なんてこれ見よがしにゆっくりと歩いてんだろ。さっさと歩きなさいよ。変な歩き方……」
九尺以上はある長柄の傘の内で三枚歯の黒塗下駄を素足に穿き、舞うように歩く高尾大夫を志乃は見上げた。
道中で外八文字に踏み出すのは江戸風である。吉原も古くは内八文字であったが、元吉原の末期男勝りの遊女勝山が活発に外八文字を踏んでから以後外八文字になった。
外八文字とは裾を外側へ蹴ると同時に、足を外から内側へ廻してゆっくりと妖艶に一歩を踏む歩き方である。裾を蹴ったはずみに、緋縮緬の内衣からまっ白な足首が覗いた。そのたびに見物の男達から溜息が漏れた。隣に目をやるとを呆けた顔で高尾大夫を見ている仙吉がいる。志乃は思いっきり仙吉の向う脛を蹴飛ばしてやった。
その時だった。見物人を意識した高尾太夫がわざと勢いよく右足を蹴りだした。裾が翻り艶かしい脹脛が一瞬晒され、さらのその奥を覗こうとする男たちによって一気に将棋倒しになってしまった。一番前にいた志乃と仙吉は逃げる暇もなく押しつぶされた。
とっさに覆いかぶさってきた仙吉から志乃は守られたが、人の重みを跳ね返せなかった。長い時間、呼吸も身動きもできなかった。
「お嬢! 大丈夫か!」
どこから出てきたのか、辰太郎が懸命に志乃に覆いかぶさっている大人達を引き剥がしている。
手足が自分のものでなくなった感覚が志乃を不安に陥れていく。
「お嬢様! 志乃お嬢様!」
泣き叫ぶ仙吉に揺り動かされながら志乃は、その声がだんだん遠のいていくのを感じた。そして目の前が暗くなった。
青の刻 蔵の中
野次馬に押しつぶされた志乃は、幸い軽症ですぐに意識を取戻したが、折しもその場に居合わせた下駄問屋の若旦那が同じ町内に住む志乃を見知っていた。慌てた若旦那が茜屋へ人を走らせたので大げさになってしまった。
誰もいない台所に呼び出された仙吉が大番頭の信蔵から顔が腫れるほど殴られ続けた。
「てめぇが花魁見たさに、お嬢様を連れまわしたのか! 色気付きやがって!」
殴り倒された仙吉が背中から竃の角にぶつかって激しい音を立てた。信蔵は容赦しなかった。すぐに仙吉の襟を掴むと引き起こした。
信蔵は一切承知の上で柱の影に身を隠した志乃を意識しながら仙吉を叱っている。仙吉も一言半句弁解しないで志乃を庇い続けた。
志乃は、信蔵の責めの凄さに、何度も「わたしが悪いんだから……わたしが仙吉を連れ回したから」と口の中で繰り返したが、それは声になって出るにはいたらず、ただ悄然と立ち尽くすのみであった。
ふいに戸が開き、鍾馗のような大男に首根っこを押さえられた辰太郎が引きずられて入ってきた。一瞬台所の空気が凍るほどの貫禄がある男だった。男の左手には姿の良い鯛がぶら下がっていた。
「この町内で口入れ屋をやってる幡随院の潮七郎てぇもんだが、取りこみ中すまねぇ。表からじゃ店に迷惑がかかると思い裏口から勝手に入らせてもらいましたぜ。そこにいらっしゃるのは茜屋さんのお嬢で? 本当に申し訳ねぇ。うちの馬鹿息子が吉原に誘ったって言うじゃねえか。そのせいでとんでもねぇことになりなすったそうで。めんぼくねぇ。怪我はありませんでしたかい?」
丁寧だが、どすの利いた男の声に気圧された志乃は、そんなことはないと思わず首を振って見せた。
「旦那の善兵衛さんに、一言詫びを言わせて貰いてぇんだが……」
大番頭の信蔵は半纏の襟を正し、みじんも臆することなく辰太郎の父親に相対峙した。修羅場を何度も潜った経験から自然と身に備わった風格に誰もがまともに目を合わさぬことに慣れている潮七郎ではあったが、思いがけぬ信蔵の態度に半ば心を動かされたのか、それと気取られぬように目を細めた。
「大番頭の信蔵と申します。幡随院の親分さんのことはよく存じております。ご丁寧なご挨拶恐縮に存じますがそれには及びません。手前どもの主人は生憎来客中でございます。それにこれは茜屋でけりをつけなければならないこと。親分さんの息子さんにいくら誘われたからといって、ついて行ったうちの奴等の方が悪い」
潮七郎が何か話しかけようとしたのを信蔵が制して続けた。
「また、一緒にいた小僧の仙吉から事情を聞いておりやすが、全部自分が悪いの一点張りで、おたくの息子さんの話はこれっぽちも出てきやせんでした。どんな話をお聞きなすったか存じませんが、この度の事、お互い子供の浅知恵が起こしたこと。親分さんがお出ましになることでもございません。わざわざご足労いただき申し訳ねぇことでございますが、今日のところはお引取り願います」
「その小僧さんが全部悪いと言いなすったのかい?」
一瞬、潮七郎の後ろから仙吉を見る辰太郎の目が光った。
「おめぇが悪いんじゃねぇ。第一おめぇは必死でお嬢をとめていたじゃねぇか。何で己いらのせいだって言いつけねぇんだ」
「うるさいんだて。静かにしてれ!」
いきなり仙吉が大声を出して辰太郎を睨んた。一瞬ひるんだが、むっとした辰太郎が一歩前に出るのを潮七郎が押さえた。仙吉の大声を志乃は初めて聞いて腰が引けた。
潮七郎が、しばらく仙吉の腫れ上がった顔をじっと目を凝らして見ていた。仙吉は大声を出した後、竈にぶつけた肩の痛みが取れないのか体をくの字に折り曲げたまま涙を堪えて唇を噛み締めている。
「さすが天下の茜屋さんだ。番頭さんから小僧さんまでこれっぽちも揺るがねぇ。最初は俺みてぇな男と関わりあいたくねぇのかと勘繰っちまったが、そうじゃねぇみてぇだ。だが、俺もこの辰太郎に経緯を聞いた以上黙ってこのまま引き下がるわけにはいかねぇ。こいつがもう少し大きければ指でも詰めさせて、けじめをつけさせるところだが」
「めっそうもねぇ。不幸中の幸いっていうか、お嬢様に怪我はございません。お気になさらないでくださいまし。これに懲りて二度とこんな馬鹿なことはしないことでしょう。辰太郎さんの目の周りの青痣を見れば親分さんもしっかり親の務めを果たされたことがわかります。今日のところはここまでってことで。ただあっしは仙吉を立派な商人にしなければならない役目がございます」
「どうなさるおつもりで?」
番頭信蔵の人を育てようとする本気の言葉に、潮七郎の顔が輝き、身を乗り出してきた。
「今夜は飯抜きで、裏の蔵に閉じ込め、茜屋での自分の立場と務めをじっくり考えさせます」
潮七郎が、俄かに相好を崩し、掌を拳でぽんと打った。
「そいつぁいい。我侭言って申しわけねぇが、この馬鹿息子も一緒に放り込んでくれやせんかい。あんたがその子を育てたいという気持ちがよっくわかった。俺もこいつを一人前の男に育ててぇ。俺は殴ることしかできねぇが、いい機会だ。この通り後生だ、恩にきるぜ」
浅草一円に勇名が轟き、一声掛ければ三千人の子分が参集する大親分が腰を折り、心を込めて頭を下げている。人に断らせぬ威厳があった。
さすがの信蔵も潮七郎の男気に断れなかったようだ。信蔵の判断で承知した。
志乃は仙吉と辰太郎が蔵に押し込められるのを痛めた心で見送った。
「頭を冷やして、よっく考えろ!」
そう吐き捨てると信蔵は、後ろに立つ志乃へ聞こえるように大きな音を立てて錠前を掛けた。
宵の五つに潮七郎が帰ってから一刻が過ぎた。
志乃が辺りを窺いながら蔵の鍵を静かに開けると仙吉は高窓から差し込む月明かりの中で蹲っていた。
辰太郎は、仙吉のすぐ前で大の字になって寝ている。暗がりに浮かぶその寝顔はとても反省しているとは思えなかった。軽い鼾が聞こえてくる。志乃はわざと辰太郎を蹴飛ばして進んだが、ちょっとやそっとでは起きそうもなかった。
志乃に気づいた仙吉が声を立てようとしたのを志乃は自分の口に人差し指を立てて睨んだ。
仙吉は腕で目をゴシゴシ擦って座りなおした。
(泣き虫ヒョロ吉、なんて面だい。青菜に塩かけたような顔してさ。庇ってくれたからって、何とも思っちゃいないんだからね)
志乃は仙吉の顔を見て湧き上がった後ろ暗さを消すように呟き、落ち込んでいく気持ちを軽く逃がそうとした。
「いつから寝てるの?」
「ここに入って半刻ぐらいらろっか、ずっと喧嘩の自慢話をしとるうちに……寝ちまったら。ぐーぐーイビキかいとる」
「親の心、子知らずだね、まったく」
志乃は抱えていたお盆を仙吉の前に突き出した。
「何も食べてないんだろ? お食べよ。私が握ったんだ。形はよくないけど、おにぎりには変わりないんだから」
さあ、と言ってぶっきら棒に突き出したお盆の上には石ころのような形をしたご飯の塊が五個と大根の味噌汁が二椀載っていた。どれもおむすびの形には見えなかった。そしてどれも大きかった。仙吉の腹の虫が鳴った。
「初めて握ったんだもの。次はちゃんとお三津に習って三角や俵に握るわよ」
志乃はお盆を仙吉に渡すと傍にあった荷箱に腰をおろし、両手の指にむかって強く息を吐きかけた。
手のひら全体が赤くなって、ヒリヒリする。火傷まではしていないが、熱かった。女中頭に半ば我がままを通して無理に炊かせたものだった。女中頭は口を尖らせて不機嫌な志乃に何も聞かず、笑みを湛えたまま味噌汁も温め直してくれた。
「温けのし、美味めぇ」
仙吉の殴られて腫れの引かない顔が嬉しそうに志乃へ向いた。暗がりで光った仙吉の目が一瞬優しく見えた。
三個目を口にした仙吉が急にむせ返り、目を白黒させながらそれでも口から出さないよう頑張りながら飲み込んだ。びっくりした志乃がうろたえながらも仙吉の背を擦った。
「あわてて食べるからよ。大丈夫?」
「……塩、塊が」
「ばかねぇ、吐き出せば良かったのに」
「らろも(だって)、せっかくお嬢様のつくってくださった握り飯ら。そんつぁらがんもったいねぇこと、できねぇてば」
仙吉は自分の胸をドンドン叩きながら一生懸命にむすびの礼を言った。
深く澄んだ仙吉の瞳と視線が合う。
自分の顔が赤く火照ったのがわかり、志乃は両手で頬を隠すように覆った。いつもみたいに睨む様なきつい目と合えば、少しは気が楽になれたのに、志乃は今までに感じたことのない妙な気持ちが心の中で醸成されていった。
「ごめんね……」
志乃の遠慮がちな声に仙吉は思わず聞き返した。
「なーしたって? なぁしたんてば?(どうした?)」としつこく仙吉が聞き返す。
「何でもないよ」
口を尖らせてぷいっとふくれた志乃は仙吉から顔を背け、甲高い声で怒鳴った。
「だから、ごめんなさいって言ってるじゃない。わたしのためにこんな暗いとこに押し込められてさっ。恨んでるんでしょ?」
自分の声の大きさにはっとして志乃は屋敷の方を窺ったが、すぐに夜の闇はもとの静寂に戻っていた。すぐ近くで鈴虫が鳴いている。
顔を赤らめた仙吉は、志乃の問いには答えず志乃にとっては見当違いなことを聞いてきた。
「お嬢様は、いい匂いがするら。何の花なんねっかろうね?」
「えっ? ああ……このせいよ」
志乃は懐から匂い袋を取り出した。
高尾太夫からすぐに茜屋へ見舞いの品が届けられていたが、その中のひとつだった。
高尾太夫の楼主三浦屋四郎左衛門が四郎兵衛会所の若い衆を伴い、その日の内に茜屋へ訪いを入れたのである。
主人の善兵衛が恐縮して応対した。
怖い顔をして躾の不行き届きを責めた四郎兵衛会所の若者に比べ、三浦屋はその恵比須顔を崩さぬまま贅を尽くした見舞いの品を並べた。
誰が悪いのではない。むしろ最前列で見ていた志乃の方に落ち度があるのだからとそれを辞退した善兵衛であったが、巧みな三浦屋の口上に最後は笑みを浮かべて受け入れた。匂い袋の他に太夫手作りのお手玉や菓子に人形、そして何より次に作る仕掛けの注文があった。善兵衛は、これで敷居の高かった吉原に道がついたと喜んだ。高尾太夫側にしても素早く行動に出たことで楼主の狙い通り太夫の評判を上げることができた。翌日の読売は九代目高尾太夫の美談で持ちきりであった。
しかし、志乃はそんな大人同士の思惑の外にいる。単に見舞い品の中にあった匂い袋を気に入って懐に押し込んだだけであった。
「なんの花の匂いなんだろうね」
「ほんのきに(本当に)、いい匂いら。これを茜屋のお土産にできねぇらろっか」
「おまけかい?」
匂い袋を手に取った仙吉は、一度匂いを嗅いだだけで袋の方に興味を持ったようだ。
「大番頭さんに教わりましたて。越後屋八郎右衛門って方のこと。お嬢様は知ってるんさか?」
天和三年(一六八三年)、日本橋駿河町に開店した呉服屋商の越後屋が「呉服物現金安売り掛け値なし」の「引札」を配布した。
「引札」とは、商品の広告、開店の披露などを書いて配るビラである。
「駿河町越後屋八郎右衛門、申し上げ候 今度、私工夫を持って、呉服物何に依らず格別下値に売り出し申し候……」で始まり、「一銭にても延金は仕らず候」で終わるそれは、画期的な商いの幕開けであった。
つまり、年に二度の節季払いが専らであったところ、屋敷売りを止め正札値引きなしの現金取引のみで店頭販売を始めたのである。金利が発生しない分安くできた。
さらに、一反単位の販売が普通だったのだが、必要なだけの切り売りをはじめた。
ちなみに呉服屋で言う一反とは、着物を一着仕立てるのに必要な長さである。二反で一疋と呼ばれた。一疋は、曲尺で八丈と定められていたため、疋物を八丈物という。
五十年以上経った今では茜屋も含めほとんどの呉服屋は同様なやり方である。
「おいら、思うんらてば。今はどこでもお客さまの注文に応じて切り売りをしておるこてさ。でもそれだけじゃ、駄目なんらて思てるんら。よその店と違いを見さんれといけないんらてば」
もうすぐ手代になる仙吉が、顔を輝かせながら遠くを見ていた。
志乃は、そんな仙吉を見るのが初めてだった。彼から目が離せず体の奥から訳合いもなく熱くなってきた。仙吉の熱意に惹きこまれたのかもしれない。
「でも、切り売りを続けていると、げっぽ(最後)に使い物にならねえ切れ端が残っちまうれ。おいらはそれが勿体ねぇと思ってましたて。その切れ端で匂い袋作りましょうれ」
「茜屋の刺繍を入れちゃどうだろう。どこにも売っていない。茜屋じゃなきゃ手に入らないのよ。茜屋で着物を仕立てた人だけしか貰えないの。……それに、それに、高い着物を買ってくれた人には、虫除けの樟脳を小さな綺麗な袋に入れてあげたらどうかしら。滅多に着ない晴れ着なんだもの。箪笥にしまいこんだままになるんじゃないかしら?」
志乃も仙吉に負けまいと思いついたことを早口に捲し立てた。すぐそばに辰太郎が寝ていることなど忘れて二人は語り合った。
「お嬢様、それはいい考えら。そうしましょうれ。ぜひ、そうしましょうよ」
仙吉に褒められたのが嬉しかった。この楽しさは志乃が今までに経験したことのない格別なものであった。
――ずっと仙吉と話をしていたい。いろいろな思いつきが頭の中に浮かんでくるのは、なぜ?
いつしか志乃は溢れる喜びに身体を火照らせ、饒舌になっている。冷んやりした夜の空気さえ心地よく感じた。
今まで志乃は、誰に言われたわけではなく一人娘の自分が婿を取り、茜屋を継がねばならないとおぼろげに思っていた。幼いながらそれが自分の生きる道だと考えていた。
でも今、志乃の心の中まで見通すような冷厳とした青い月明かりの差し込む蔵の中で仙吉と商いの話をしていると、自分の夢がはっきりと見えてきた。いや、それは夢などではなくどうしても実現したい願望であった。
「店に来たお客様が反物を自分にあてて鏡を覗くときの心が満ち足りて楽しそうな顔を見るのが好き」
お嬢様と呼ばれるよりも、店に出たい。お父っつぁんに頼んでみよう。
志乃は、そう決心をした。
「あれっ! 飯のにおいがする」
半分寝ぼけた辰太郎がむっくりと上半身を起こして目の前の志乃に驚いた。
「お嬢、何してるんだ?」
「ほら、お握り持ってきてあげたのよ。食べなさい。辰太郎さんは蹴飛ばしても起きないからすっかり冷めちゃったけどね」
おおっと咽喉を鳴らして辰太郎は、大きな結びに手を伸ばした。
「まずい!」
途端に志乃の拳固が辰太郎のおでこを叩いた。
青の刻 待乳山聖天の境内
前年の貨幣改鋳が幕府の増歩交換政策で功を奏し、それまで火の消えていた江戸の経済も好転の兆しを見せ始めた元文二年の春、志乃が十四になった。この年の正月に仙吉は手代へ昇格している。
背負い商いの修行に出された仙吉と示し合わせて、志乃は三津を伴い外出した。仙吉が花川戸町の北、今戸町から橋場町を持ち場に割り当てられたため、落ち合う場所はおおかた今戸橋の手前にある待乳山聖天であることが多かった。正式には待乳山本龍院といい浅草寺の子院である。何より待乳山からの眺望を志乃は好んだ。小高い丘に立つと、幾艘もの猪牙船が夕映えを映した大川で上下しているのが見える。この時期河風が志乃の体を過ぎ、境内に散ったばかりの桜を吹き払っていく。
売れた反物を整理して背負い直す限られた短い時間の逢瀬であった。
ちょうど仙吉の提案を店が認めてくれてその実践に張り切っているときである。
売上を計算しながら、仙吉は大番頭とのやり取りを志乃に聞かせてくれた。
「仙吉、また今日も紬が売れたらしいな」
背負い商いから帰って報告のために帳場へ顔を出すと、大番頭から声がかかった。
「へぇ、ありがとうございますいね。実は、そのことらろも大番頭さん、お願いごとがあるんれ」
「何だ? 言ってみな」
「どうかこの反物の入り値、教えてくんなせや」
「それは、おめぇらにゃ教えられねぇが、どうしようって言うんでい?」
「ええ、お客を取り持ってくれたら、正札より三割引いて差し上げたらどうかと思てるんらてば。闇雲に家さ回るより橋渡しの添え状を書いてもらえれば、とりあえずは門前で断られねれかと……。そして、またそこで新しくお客を取り持ってもらうれ。どうねっかう? いえ、どうでしょうか?」
信蔵は、少し考えて「取り持ちだけじゃ駄目だな。どっちも着物を買ってくれたら認めてやろう。ついでに一人で五人添え状を書いてもらい上手く行けば、ただにしてやってもいい。おまえの持ち場で試してみな。結果を見て店をあげてやるかどうかを決める」と承知してくれた。
そして、信蔵は三割引以上値引いてもよい反物を選び出し、仙吉に渡した。けっして傷物や流行の廃れた柄ではなく、信蔵が店じまいする店から安く仕入れた上質の綾絹である。
仙吉は、毎晩信蔵に結果を詳細に報告した。信蔵の経験からそれとなく工夫する手がかりを与えられて細部を検証改良しながら、紹介から紹介につぐ客の増大に成果を上げつつあった。
ざっと話を聞いた志乃であったが、そこに志乃のでる幕はなく、知らないうちに口を尖らせている自分に気づいた。何もさせてもらえない自分が歯痒くて、そして苛立たしくて、つい三津に理不尽と思えるほどきつく当たってしまう。思いがけない志乃に出会って目を見開き戸惑う三津の顔に、志乃は自分の心根を厭わしく思った。
「お三津、お団子が食べたい!」
志乃は三津に二十文の小遣いを渡した。三津はよく志乃に言いつけられて煎餅や饅頭を買いに走らされた。団子は志乃の三津に対する謝罪の代言なのかもしれない。一串五文で五玉が串刺しにされた団子を頬張り甘辛いタレを口の周りにつけた三津のこの上ない笑顔が志乃をほっとさせた。
――なんて私は料簡が狭いんだろ? 焦っちゃだめだ。今は仙吉の話を聞いてしっかり力をつける時なんだ。そう、私の代わりに仙吉が背負い商いに出ていると思えばいいのよ
いつも仙吉が今日はこんな客と会ったという話に始まり、どの模様の反物に人気があるとか、はてさて茜屋をいかにして江戸一番の大店にするかという話に夢中になった。
熱っぽく語り合っている志乃と仙吉に気づいた顔見知りの大人がたまに声を掛けて来る。
「おや、こんな所で何をしてるんだい?」
同じ町内に店を構える乾物屋のご隠居が杖で体を支えながら目を細めて聞いてきた。
「聖天様には商売繁盛の御利生があると聞いて、お参りに参りました」
「ほう、それは感心、感心。良い心がけですぞ。じゃが聖天は娘の拝む神でなしともいう。ま、ほどほどにな」
本尊が男女抱像であるための御節介な忠告なのであろうが、参詣は志乃の口からのでまかせである。「はい」と明るい笑顔を返した。
志乃は自分のやっていることを気取られぬように如才なく振舞うことが多かった。いつ親へ告げ口されて足留めされてはかなわないと思ったからだ。
もっとも誰か知り合いとすれ違ったとしても茜屋のおきゃんなお嬢が手代と女中を家来のようにかしずかせ饅頭や団子を食べているとしか見えなかった。なにしろ麓の鶴屋が米の粉でつくった米饅頭が美味で有名であった。
また、これを逢引きというには早すぎたし、志乃達にもその意識はない。かすかに芽生えはじめた気持ちにもまだ気づいていなかった。
時々辰太郎が顔を出す。偶然というより志乃達が来るのを待っていたふしがあるが、それを言うと大袈裟に首を振って辰太郎は否定した。そして毎回仙吉に相撲を挑んだ。以前、仙吉が村の子供相撲で負けたことがなかったと珍しく自慢した時に、馬鹿にして辰太郎が挑戦したのだ。投げ飛ばされて負けてからそれ以来ずっとである。
「優勝すると米一升もらえたんら。貧乏だったから負けるわけにはいかなかったて。おっ父にもおっ母にも妹達にも米の飯喰わせてやりたかったんだて」
辰太郎が何度も投げ飛ばされた後、仙吉が遠い所を見るような目で自嘲気味に語った。決して旨い米ではなかったが、一家の家計を僅かながら助けることができたそうだ。
「親孝行のヒョロ吉と辰ちゃんじゃ、根性が違うね」
三津もいつの間にか最初は嫌っていた辰太郎に馴染んでいる。
「度胸だけじゃ、お相撲は勝てないってことね」
志乃と三津にからかわれて埃をはたきながら辰太郎が立ち上がった。
「もう一番!」
顔を真っ赤にして辰太郎がしつこく勝負を挑む。
「辰ちゃん、見えないところで殴ったり蹴ったりしちゃだめよ」
「そんなことしねぇよ」
馬鹿にするなと怒る辰太郎を志乃と三津が一緒になってからかった。
「辰ちゃんならやりかねないもんね、お嬢様もそう思うでしょ?」
しかし、辰太郎に何度か助けられたこともある。美形の志乃に愛嬌のある三津、その二人と一緒に談笑する仙吉と辰太郎が妬まれたのか、稀に与太者を気取ったやんちゃ盛りの悪童等に絡まれた。背は高いが痩せた仙吉と一見色白の優男に見える辰太郎が見くびられてしまうのだろう。そんな時、わざと相手を小馬鹿にして先に手を出させるように挑発する辰太郎の手際は見事だった。
辰太郎は先手を取って生き生きと相手を殴り倒していく。喧嘩になると仙吉はからっきし弱かったが逃げれば男の沽券にかかわると思ったのか孤軍奮闘する辰太郎に触発されたのか、足手まといになりながらもその輪に飛び込んで行った。
「情けないねぇ。そんな多勢でたった二人に敵わないのかい。大川で面洗って出直して来なっ!」
志乃も巻き舌で鉄火啖呵を切れるようになった。最初は三津と泣き叫びながら何とか止めさせようとおろおろしていたのだが、見慣れたせいか辰太郎の強さに安心しきっているのか、伝法な野次を飛ばして、仙吉達を応援した。
辰太郎と仙吉は連戦連勝だった。
最後に二度と言いがかりをつけて来ないように辰太郎は幡随院の名を出した。途端に悪餓鬼どもは一目散に裸足で退散した。
逃げていく彼等の背中を目で追いながらふっと辰太郎は淋しい表情になる。自分では気づいていないようだったが志乃は見逃さなかった。
因縁をつけてくる者達は大抵辰太郎のことを知らない他所者である。地元の子は辰太郎の素性を知っているので誰も怖がって近寄ろうとはしないのだ。
「仙吉、己いらが親父の後を継いだらうちに来ねぇかい? 代貸しにしてやるぜ」
ひとつ年上の仙吉を辰太郎はいつも呼び捨てにする。
「そいつぁありがてぇことだが、己いらどうしてもやりてぇことがあるんら」
喧嘩に疲れて草の上で大の字になって息を整えている仙吉が殴られた頬を手で擦りながら呟いた。
「なんだと! 何になりてぇんだって? おうおう、言ってみろってんだ。そいつぁ幡随院の代貸しよりも立派なことかい」
仙吉の上に飛び乗って首を絞めながら辰太郎がわめいた。
「く、苦しい。辰ちゃん、離してくだせぇ。己いら……己いら……お江戸で一番の呉服屋になりてぇんら」
「江戸一番? なれるのか! 上野の松坂屋みたいにか?」
「なる、なる。己いら、絶対なって見せるよ」
目を細めて二人のやり取りを眺めていた志乃であったが、急に湧き上がった怒りに立ち上がった。
「仙吉なんかに負けるもんかい! 私の方が絶対江戸一番になるんだからね」
甲高い声で叫んだ志乃に二人とも口をあけたまま唖然としていた。
相撲に飽きた辰太郎が、喧嘩相手を捜しに出かけて行った。
「そろそろ桃見の季節ですね」
ぽつりと三津がほとんど独り言のように呟いた。
志乃と仙吉の話についていけないのがおもしろくないのか団子を頬張りながら、散って踏み潰された境内の桜花を見つめている。
茜屋では同じ屋根の下で暮している者は家族同然という主人の考えから、桜の花見は茜屋総出、下請けのお針子まで含めて盛大に上野へ出向く。その時は当番の手代や小僧が場所取りから飲み物の調達で寝る暇がない。
一年のたった一日ではあるが、当日は歌舞音曲乱れ舞う無礼講で騒ぐ。これが発散となり仕事上の不満が爆発することを回避していた。
今年は、三津も初めて花見弁当を作る組に入れられ、四十人分の仕度に大忙しだった。毎年花見弁当は、志乃の母利久の采配で作られる。花見もさることながら三津は女将さんにいろんな料理を習ったことが忘れられない思い出になっている。
「茜屋は、桜と桃の二回花見をするようにって、目安箱に訴えようかねぇ」
「お三津、そんなもの将軍様に見せたら、途端にお役人が迎えにくるよ」
目安箱は、十六年前の享保六年(1721年)、徳川吉宗が設置した。「目安」とは「訴状」のことをいい吉宗自身が開箱したという。三津にとっては将軍様に訴えたくなるほど花見の問題は切迫したものだったのだろう。
「でもお嬢様は、甘やかされすぎだね」
物怖じしない三津の言葉に、志乃は口を尖らせて怒った。
「だって、女将さんはあんなにたくさんおいしいお料理を作れるのに、……」
「言うな! それ以上言うんじゃないよ、気にしてるんだから」
志乃の作ったむすびを思い出した仙吉は、我慢できずに笑ってしまった。
志乃に屹と睨まれた仙吉は、笑いを飲み込んで話題を変えた。
「ほんね(本当に)桃見に行っては、どうらろっか? いえいえ、遊びじゃありませんて。お嬢様もお三津ちゃんも別嬪さんら。それにお若さんの三人でうちの新しい図柄を着て練り歩いてくんなせやよ。千住の素盞雄神社の桃がきれいだっていう噂らてば」
お若は、十八でやはり茜屋で女中奉公をしている三津の先輩だった。若い手代はみんな美人のお若に憧れているらしい。また楚々とした美人顔なのに男勝りで伝法な口をきくのも魅力になっていた。嘘か真か毎日色々な男から届く付文のお陰で、読み書きが達者になったとも噂されている。
「ヒョロ吉、あんたお嬢様を見世物にする気かい?」
仙吉を責める三津を志乃が上気した顔で制した。
「やろうよ。おもしろいじゃないか。お父っさんに頼んでみるよ。桃見なら桜見と違って、酔っ払いもいないし、女や子供でも安心だから。そこでうちの浮世絵付の引札を配ってくるんだ」
食事時を利用して、志乃は父親にねだるのが上手だった。一人娘に甘い両親を持ったことを計算した志乃の知恵であった。かつて蔵の中で仙吉と考えた匂い袋を「おまけ」として買い物客へ添えることもさりげなく話して実現させたことがある。その時は余った布で三津と一緒に作った袋を並べて見せた。
それなりの評判を得たものだから、毎晩三津と何人かの女中で一緒に匂い袋作りをすることが、日課になっていた。
三津はその仕事も好きだと笑った。呉服屋は絹物を扱う。三津の着ている木綿や麻は糸が太いので太物屋が扱っているのだ。自分では買うことができない豪華な着物を着る人はどんな人だろう。私の作った匂い袋はどこのお嬢様にもらわれていくのだろう。お武家さんの娘かしら、それともどこかの大店のお嬢様かな、などと考えるのが楽しいと夜なべ仕事をしながら笑った。
志乃は、三津の心を聞いたと思った。
かつて「私のお古だけど」とよく仕えてくれるご褒美に、晴れ着を三津に渡そうとしたことがある。出かける時に三津にも木綿以外のものを着てほしかったのだ。だが、三津は固辞して決して受け取らなかった。「着る時がありませんから」と三津は涙を溜めて寂しそうに訴えた。
三津のためにと浅はかさに考えた自分の傲慢さと、自分と三津の立場の違いを思い知らされた。このときの気持ちはずっと忘れないようにしようと志乃は心に決めた。
(でもお三津、今度は着てくれるよね。それも私のお古じゃない。新品よ。まだこの江戸で誰も着たことがない新作の着物よ)
「お仕事なんだから、お三津も着てよね。お願いだから」
志乃はやさしく包むように三津の手を握った。三津が躊躇してその手を振り解こうとした。
「そうらてば。お三津ちゃんは十分に別嬪さんらて。大きな目に愛嬌があってとてもそこいらのすました女たちにはないものを持っているこてさ。だすけ(だから)おいらがお三津ちゃんのいとしげな(あいらしい)ところをちゃんと引き出してやるこてさ。人は装うもの次第で幸せになるんら。おいらは江戸中の人たちを幸せにしたいんら。おっと、これは大番頭さんの受け売りらろもな」
仙吉は自分の言った事に照れて頭を掻いた。
「ヒョロ吉も外回りで口が上手くなったねぇ。お嬢様とヒョロ吉がそこまで言うのなら、一肌脱ぎますか。茜屋の風呂敷にお弁当包んで行きましょうかね。お若姉さんには定紋入りの傘か提灯を持ってもらおう」
「それはいいらてば。そうしてくんなせ。お三津ちゃんのつくりなさった助六寿司は、ばかうんめかったて」
「ばか? わたしが馬鹿だっていうの!」
「ちごう(ちがう)、お三津ちゃん、ちごうて。己いらの育ったところじゃとんでもなく立派なことを『ばか』って言うんら。褒めてるんら」
「何にも知らないと思って、うそついてるんじゃないだろうね」
三津の背中を仙吉が押してくれた。三津が笑っている。ひとまず安心できた。
――装うもので幸せになれる……か
そして装っていただけることで呉服屋に福が来る。
仙吉の口癖が、志乃の中で何かを変えようとしていた。手代になってからの仙吉の働きは、めざましい。反物を詰めた柳行李を背負い商家へ新規開拓の飛び込みに売り歩くことも厭わず得意先を広げ成果を上げていた。大番頭信蔵の指導だけでなく、片貝木綿の里で育った仙吉にはこの仕事が性に合っているのだろう。
(信蔵兄さんはずるい。仙吉ばっかりに教えて。私にも商いのこと教えてよ)
志乃は、優秀な大番頭に育てられている仙吉に嫉妬した。
お国訛りが少しずつではあるが薄らいできたと言っても、江戸言葉には程遠い。しかし、いつの間にか田舎者と蔑む者がいなくなっている。仙吉の売り上げが手代仲間の内で群を抜いているということと、その自信が仙吉を変えたのだろう。
黙っていればひどく垢抜けて見えるのが志乃には不思議だった。三津にそう告げたら、「お嬢様は、目が悪くおなりになったのではありませんか? 旦那様みたいに眼鏡をつくらなきゃいけませんね」と目の前で両手の人差し指と親指で輪っかをつくられ大声で笑われてしまった。
仙吉の分までみたらし団子を食べ終わった三津が、邪推して声を立てずに笑った。
「ヒョロ吉、ひょっとして今年の夏に屋形船に乗ろうなんざ、考えてるんじゃないよね?」
茜屋では、隅田川の川開きの日に貸し切りの船を仕立てる。そこでその年、一番いい仕事をした奉公人を慰労する習慣があった。花火を眺めながら船の上で主人と同じ豪華な料理を食べることができるのだ。綺麗どころの芸者衆にお酌もしてもらえる。それは茜屋の中だけでなく同業者の間でも羨望のまなざしをもって見られた。
仙吉が尊敬し目標にしている大番頭の信蔵も手代の頃、連続で屋形船の恩恵に浴した経験を持つ。
「らすけや~、そうじゃねぇんらてば。第一、花火なら片貝の方が上らてば」
「おや、両国の花火を馬鹿にするのかい?」
隅田川の川開きのその夜は、いつも梯子をかけて屋根の上から花火を眺めている志乃と三津が同時に怒ったので、仙吉がたじろいだ。
「だども、浅原神社のお祭りに打ち上げられる花火が夜空いっぱいに広がったところなんか、一度でいいからお嬢様に見せてあげてぇんだて」
遠いところを見るような目でそう言った仙吉の声が志乃の耳の中で反響した。目を閉じると、まだ見ぬ山に囲まれた小さな村の神社で仙吉と二人きり花火を見上げる自分が見えた。
「ところでさぁ、ヒョロ吉に一度聞いてみたかったんだけど、昔お嬢様に教わったことなんだけどさぁ」
「なんらろか?」
「越後じゃ、雪がお砂糖みたいに甘いって聞いたけど、本当?」
急に志乃がそそくさと立ち上がって「お三津、帰るよ!」と小走りに歩をすすめた。
お嬢様の嘘つきっ! そう大声を上げて騒ぐ三津の喚き声が天狗坂を駆け降りる志乃の背中越しに聞こえた。
青の刻 桃花の精
昨日までしとしと降っていた花時の雨も上がり、打って変わった晴天の下、桃見は実現した。
花川戸の店を出かけた朝は隅田川の遠くに霞が低く棚引き、目の前をひらひらと真っ白な紋白蝶が横切って行った。
志乃はそのひとつひとつが吉兆のように思えて胸が高鳴った。
三津は水浅葱の地に朝顔を染め抜いた小振袖がよほど嬉しかったのだろう。足を止める家族に「茜屋でござい」と木履の音も軽やかに元気良く引札を配っていた。
お若は島田髷に無反り一文字の櫛をさし、無地小紋の紋付で博多帯を締めた艶やかな女に変身した。裾をちょっと持ち上げたお浜は小粋な深川芸者になりきって、金持ちの旦那衆から「どこの置屋だい?」と声をかけられていく。志乃に小声で「女中奉公をやめて、芸者にでようかね」と笑っていた。
まさかこのお若が、何年かして女には野暮で晩熟な信蔵の女房におさまるとは誰にも想像できなかった。
そして十間ほど離れて藍染め木綿の着流しに二重廻しの辰太郎がついてくる。
仲間に加わりたい顔で寂しそうな辰太郎に仙吉が用心棒を頼んだのだ。
志乃は、少し後悔していた。仙吉が紫の江戸小紋を選んでくれたのを自分の意見を通して、朱を基調とした手描き友禅の振袖にしたのだ。羽織ってみると子供っぽく見えた。「七五三……」と辰太郎が小さな声でからかったのに口を尖らせて「これでいいのよ!」と意地を張った。
三人の娘と辰太郎の間に信蔵と浮世絵師がついた。
浮世絵師と信蔵が構図を打ち合わせながら、三人の後に続く。三人は新しい引札の素材なのだ。
「旦那様が別嬪しか雇わねぇから、こんな時に助かる」と信蔵が軽口を叩くほど、桃の花の中で絵になる娘たちであった。
「桃がいっぱい。桃源郷ってこんな所かね」
素盞雄神社に足を踏み入れた途端、一面に桃花が咲き誇るのを眺めて志乃は溜息をついた。
茶会がいたるところで開かれ、桜見とは違った趣がある。志乃の隣で、三津が「何年でこんなにいっぱい花が咲くんだろう?」と大きな目を見開いた。
「三年……」
済ましたお若の答えに、志乃と三津が口を揃えて笑った。
「桃栗三年柿八年、梨の大ばか十八年」
境内に、華やいだ若い娘の笑い声が響く。
志乃は笑いながらも一抹の寂しさがあることを三津に隠した。
(仙吉の妙案だってぇのに……自分こそガキのくせして意地っ張りなんだから)
志乃は、見えない所で唇を尖らせた。
「おいらの仕事は、お嬢さん方が茜屋を出るところまでらてば。まぁ、子供の遊びに付き合うほど暇じゃねーれのし」
粋がって悪態をついた仙吉の物言いが下手な挑発に聞こえた。他の手代から妬みを買わないよう大番頭の信蔵に手柄を譲ったという話を漏れ聞いていた志乃であったが、いつもの負けん気が顔に出た。
「馬鹿をお言いでないよ。どっちがガキだい? 仕方ないから土産に桃羊羹、買ってきてあげるよ。結局、私…………らと一緒じゃ嫌だと言うんだね。よっくわかったよ」
あっかんべぇをする志乃に一瞬だが仙吉が泣きそうに顔を崩した。
――正直だねぇ、すぐ顔に出る
志乃は情けない顔をした仙吉を思い出し、空を見上げて大きく息を吸った
――見てごらん、仙吉
晴れ渡った空。
南に薄く漂う雲。
まだ枝垂れ桃は蕾のままであったが、あまた咲く虚飾を一切捨てた穢れのない白の桃花と恥らう少女の頬に似た可憐な薄紅色の桃の花に境内から俗臭が消され、穏やかで平和な世界を創っていた。
「吾は素盞雄大神、飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い、福を増し、永く此の郷土を栄えしめん」
丹塗りの社殿を眺めているとそんな声が聞こえてきそうだった。
この場に仙吉と一緒にいないことが、心残りである。
寂しさを振り払うように、志乃は扇子を広げると境内の真ん中に進み出て構えた。
「素盞雄大神様、飛鳥大神様、御照覧ください」
そう念じながら志乃は本殿の奥を見据え、桃見の人だかりが自分に気づくのを待った。
志乃にとっても衝動的に思いついた行動である。三津達の慌てた様子が志乃の視界に入った。
多勢の視線が集まってきた。志乃は、躊躇うことなくゆっくりとすり足で一歩踏み出した。緩から急へそしてまた緩へと淀みなく流れる舞い姿に、同伴した浮世絵師が興奮して何かに取り付かれたさまで筆を走らせ始めた。辰太郎が口をぽかんと開けてこっちを見ている。
――辰ちゃん、ちゃんと仙吉に何があったか教えてやるんだよ。いいね
すぐに黒山の人だかりとなった。見物人の中から誰が弾くのか志乃の踊りに合わせて瀟洒な味わいの三味線が流れてきた。
志乃の舞いがみんなを魅了したようだ。手応えが伝わってくる。
舞い終わった志乃が、見物人の拍手を浴びながら明るい笑顔で両手を広げ「花川戸の呉服屋、茜屋でござい。晴れ着のご用命はぜひ当店に賜りたく御願い申し上げまぁすっ」と声を張り上げ口上を述べた。すかさず三津らが茜屋の引札を配ってまわった。
次の日、待乳山本龍院の境内でお世辞の言えない辰太郎が「まるで桃の花の生まれ変わりかと思った」と口から泡を飛ばす勢いで仙吉に自分のことのように自慢するのを志乃は誇らしげに聞いていた。そう言う辰太郎も踊りの最中に石を投げ込もうとしていた数人の与太者を見えないところで完膚無き迄に懲らしめたことを三津が見ていて、それを話すと仙吉が嫌がる辰太郎の手を強く握り締めた。
「辰ちゃんが茜屋を救ってくれたよ。石でも投げられた日には万事がおじゃんら。二百両、いや五百両、いやいやそんなもんでねぇ。千両の売り上げが茜屋から消えて無くなる所だったよ」
「おいおい、千両は言い過ぎだろうよ」
怒った顔で照れを隠した辰太郎は、甘い物が苦手なくせに団子と饅頭を買うと隠れて三津へ渡していた。
さらに大番頭の信蔵が教えてくれたのだが、桃見での宣伝効果が徐々に現れているという。千両はともかく仙吉が辰太郎に言ったことはあながち嘘ではないようだ。
桃見は仙吉の着想だけれども実行者は私だという自負がずっと志乃の気持ちを高揚させていた。
「お嬢様とヒョロ吉の二人三脚で茜屋がもっともっと大きくなるといいですね」
何気ない三津の言葉に志乃の胸がもっと熱くなった。
――本当にそうなればいい。そうなりたい。
「おっ、そいつぁいいぜ。そうなりゃ己いらも鼻が高えや」
「なんで辰さんの鼻が高くなるのよ?」
団子を頬張りながら三津が聞いた。
「だって……、だってよう、二人とも己いらの……己いらの友達じゃねえか!」
思いっきり照れながら友達と言い放った辰太郎が可笑しくて志乃も仙吉も顔を見合わせて苦笑した。
「私も入れて三人って言え」
三津が拳で辰太郎の背中を太鼓のように連打して怒った。
しかし、異例の若さで番頭に昇進が決まりかけていた仙吉が追われるように茜屋を出て行ったのは、それから二年後の夏であった。
追慕 娘の愛した男
座敷で主人の八左衛門が中央に座り、志乃はその下座、隣に娘の珠が腰を下ろした。志乃の真向い座る五十前後の痩せた総髪の人物は、浮世絵師の喜多川清麿である。
この接客用の座敷からは襖を開け放すと贅を尽くした茜屋自慢の庭が見渡せる。つい最近畳替えをしたばかりでその青畳のにおいがまだ微かに漂っていた。
中年太りの始まった八左衛門は床の間に下げた掛け軸を清麿に自慢していた。「阿耨多羅三藐三菩提」霊巌寺の住職に書いてもらった書を表装したものである。何かの経らしいが連綿と流れるように崩した住職独特の草書に、この店の者でそれを読める者がいない。
仲人を買って出ようというのか、清麿は八左衛門自慢の掛け軸を褒めちぎっていた。しかし、何故か掛け軸の表装の立派さばかりを話題にしている。志乃の視界に入る清麿は、火鉢にかざした手を気ぜわしく擦り合わせながらも、磊落を粧う空笑いをやめようとしない。自分を器以上に大きく見せようとする清麿の態度に志乃は厭わしさを禁じ得なかった。
おそらく清麿も書いてあることがわからぬのであろう。乾いた笑いが座敷の中で澱んでいる。話題を変えたいのか、清麿は床の間に飾ってある青磁の水差しに目をつけ「清のものですな」と知ったような薀蓄を延々と披露した。だがこの青磁は、八左衛門が富岡八幡宮の骨董市で半ばあしらわれて買わされた物だ。底に銘もない、高すぎる、柄が下品だと散々志乃や珠からけなされた代物であった。
この話題も長続きしなかった。
次にこれから現れる男のことを清麿が話の俎上に載せてきた。俄かに珠が目を輝かせてその話に割り込む。その食い付きに清麿の表情が安堵して冷めかけた茶を啜った。
(そろそろ薄霧太夫の仕掛けの打ち合わせに吉原の置屋さんから番頭さんがいらっしゃる頃…… 両替商の伊勢屋さんにご挨拶に行った大番頭はもう戻って来たかしら? やはり伊勢屋さんへは私がお伺いした方がよかったのでは……)
時間の無駄を覚える座持ちの語らいに鬱陶しくなった志乃は、お茶を変えましょうと席を立とうとした。
まるで志乃の心を知っているように浅草寺の八つを知らせる鐘が鳴って、三津が来客を告げにきた。
その三津が動揺を押し殺しているのを志乃は見逃さなかった。
厭な胸騒ぎがした。
すぐに三津は下がったが、あんな慌て方をする三津ではない。お珠の相手と言う男に何か粗相でもしたのだろうか。
しかし、その男が三津に連れられて座敷に通された時、志乃の心臓が止まるかと思った。
――仙吉
思わず声が出て、三津と顔が合った。
珠が訝しそうに母の顔を窺った。三津は否定するように首を横に振りながら頭を下げると、皆の茶を変えた。志乃の前まで来た時、やはり横に首を振って、志乃の言葉を遮った。三津も仙吉に瓜二つだと思ったに違いない。三津が冷静になれと志乃へ目配せした。
確かにそうだ。仙吉ならば志乃のひとつ上である。目の前にいる男は、どう見ても二十を出たばかりであった。
「私は、永大寺門前仲町で小間物を扱っております千代屋の二代目、新之助と申します。本来なれば父政五郎と共にご挨拶せねばならぬところ、あいにく病に臥せっております。非礼とは存じますがご無礼の段お許しいただきたく存じます」
新之助と名乗った背の高い細身の若者は、世慣れた風情で挨拶を済ませた。
低い物腰、絶やさぬ笑み、心持ち濃い眉――
珠は、そんな新之助をうっとりと眺めている。
仙吉が越後訛りで喋っていないことに志乃は落ち着かない違和感を覚えた。
「主の八左衛門でございます。いやいや堅苦しい挨拶は抜きだ。お父っつあんは、そんなに悪いのかい?」
「ええ、大阪から出てきて三年、去年から寝たきりでございます。ずっと働きづめでやっと先が見えて来た所、安心したんでございやしょう」
「それじゃあ、新之助さんが切盛りしてるのかい? もう深川じゃ千代屋さん以外にゃ小間物屋はねぇっていうほどの評判じゃねえか。その若さで偉いねぇ」
「いえいえ、あっしなんざぁ親父の足元にも及びません。親父の言いつけをしっかり守っているだけでして」
夫と新之助のやり取りを雲の上にいるような不安定さで聞いていた志乃は、新之助が話す声の韻律に胸が破裂しそうなほど鼓動が高まった。
「どうしたんだい? お志乃。顔が真っ青だよ」
夫がこの晴れの日に縁起でもないと言外に含ませて志乃を責めるように一瞥した。
「女将さん…… 横になられた方が、ようござんせんか?」
新之助が志乃を気遣って声をかけた。仙吉そっくりのその声に志乃の胸が痛んだ。
「ええ、急に差込みが…… 申し訳ありません。少し席をはずさせていただきます」
八左衛門が「そうしなさい」という前に志乃は座敷から下がった。
「本当に不調法な奴だ。だが新之助さん、実はこの茜屋はあいつの細腕で繁盛しているんだ。お陰でわたしゃこの清麿さんと下手な川柳三昧」
閉めた襖の内から八左衛門と清麿の間の抜けた笑い声が響いてきた。
志乃は、すぐにお勝手に走り、酒を用意している三津を呼んだ。
志乃が何故出てきたのか察したらしく、若い女中に後を任せた三津は、志乃と二階へ上がって行った。
閉め切った部屋で反物を積み上げた山を避け、誰もいないことを確かめた三津は、志乃を座らせた。
「声までそっくりだったよ」
早口の声が震えていた。腰も浮ついている。
興奮気味の志乃を落ち着かせるように三津がゆっくりと言い聞かせた。
「他人の空似ですよ。そうに決まってます。それにしても親子で似た男を好きになるなんて」
「でも、でも大阪から来たって言ったんだよ、大阪だって!」
「偶然ですよ。それとも千代屋の若旦那のお父っつあんが仙吉だっていうんですか」
「大阪って言ったんだよっ」
三津の必死の努力にも係わらず志乃の平静さは取戻せなかった。
志乃の頭の中に死んだ父の怒声が聞こえてきた。
志乃が十六、仙吉が十七の夏。隅田川の川開きの夜だった。
青の刻 屋形船
「ふざけるんじゃない! 一緒になりたいなんて、どういう料簡だ」
屋形船の中で立ち上がった善兵衛は、天麩羅の膳を蹴り倒した。
船が大きく揺れた。
吸い椀の中身を肩にかけられた仙吉が、床に這い蹲るように額を押し付けて「お願いいたしますいね」と繰り返した。
転がった椀が隣の志乃の前で止まった。志乃も仙吉同様頭を下げ続けている。
「お父つぁん、二人で茜屋を盛りたてていくから。今よりずっとずっと大きくするから! おっ母さんもお願い」
茜屋恒例一年に一度の晴れの行事に仙吉と夫婦にさせて欲しいと頼んだ志乃であったが、これほどまで親に反対されるとは思っても見なかった。茜屋の人間は、みんな家族だと日頃から豪語している父が「夫婦に」と口に出した途端、まるで犬猫を折檻するように仙吉をなじった。志乃の目から熱い涙が止まらない。父親の言葉通りに信じていた志乃の悔し涙に他ならなかった。
「お父つぁんの嘘吐き!」
何度も強い語調で詰る志乃に往生した善兵衛は、平手で娘の頬を張った。飛ばされた志乃が唇を噛んで父親を睨んだ。
仙吉が素早く志乃の前に滑りこんで土下座した。
「お願いですけ、お嬢様と一緒にさせてくんなせやっ」
「おまえは! 何、寝惚けたことを言ってるんだ。手代の分際で! 身分ってぇものを考えなさい。絶対に許しませんよっ」
日頃、温厚だと評判の善兵衛も真っ赤な顔をして仁王立ちしていた。
たたみかける花火の音が善兵衛の心をよけいに昂らせていく。
「鍵屋っ!」という能天気な掛け声が何本も川風に運ばれて聞こえてくるのが鬱陶しい。
信蔵が間を取り持とうと必死で善兵衛を押さえるが、火に油を注ぎかねない成り行きに信蔵も途方にくれた。
呼ばれた芸者衆はすっかり青褪め三味線を抱えて、船の端で震えている。
船頭も成り行きを見守っているのか、動こうとしない。
「仙吉っ、茜屋からとっとと出て行きなさい! おまえのような奴はもう、金輪際うちには置いておけないよ」
善兵衛の拳が震えている。
志乃はすぐに助け舟を母に求めたが、利久も追い打ちをかけるように険のある言葉を仙吉に投げつけた。
「お志乃には、ごまんと縁談がきてるんだ。いいところからね。茜屋の一人娘が手代と一緒になるなんざ、あたし等を世間の笑いもんにする気かい? 釣り合いってもの、考えな。お志乃が欲しいなんざ、百年早いよ」
釣り合いと母に言われなくても志乃には十分わかっている。
身分違い――
仙吉はいつもそのことで深入りしないように一歩引いていた。それを踏み出させたのは、仙吉を思う志乃の熱い心かもしれない。もう、仙吉も志乃も後戻りできないところまで気持ちが高まっている。
「おっ母さん! そんなに世間体が大事なの? 見損なったわ。仙吉がこの一年、いえ、この一年だけじゃない。どれだけ茜屋の売り上げを伸ばしたと思ってるの? 釣り合いなんて、よくそんなことが言えるわね」
志乃が絶叫した。
日頃から父にも母にも仙吉は、目をかけられていると思っていた。志乃はそんな身贔屓な気持ちに甘えてしまったのかもしれない。仙吉が格別だったのは、優秀な手代としてのことでしかなかった。
ひたすら頭を下げ続けていた仙吉が急に拳を握り締めて立ち上がった。途端、冷たい仙吉の目と合った善兵衛は青褪め腰が砕けた。
「手ぇ出すんじゃねぇ。落ち着け! 仙吉」
肩を捲り上げた信蔵が、両手を広げて素早く割って入った。
「おらそんげのことしねぇ。手なんぞ、上げるつもりはねぇれの」
仙吉は、寂しそうな笑いを一瞬浮かべて顔を振ると、そのままひるがえり隅田川に飛び込んだ。
大きな水音に橋の上で花火を見上げていた野次馬が何事かと一斉に振り向いたが、そこには黒い波紋だけが広がっていた。
「あっ!」と甲高い声を上げて無意識に仙吉の後を追おうとした志乃は、船の縁に身を乗り出すと信蔵に押さえられた。
「仙吉! 仙吉! 仙吉! 仙吉っ!」
舟の縁を掴んで振り絞るように叫んだ志乃の声も、丁度開いた花火の音と野次馬の歓声にかき消された。
打ち上げられた花火が色を消しながらしだれ柳のような糸を何本も川面に垂らして消えていった。
青の刻 弁天池
茜屋に戻るなり志乃は自分の部屋へ押し込められた。
父も母も取り付く島が無かったし、意地を張った志乃も関わりを持つ気はなかった。見張りに三津がつけられたが、昼間の疲れか、正座したまま舟を漕いでいる。
善兵衛は時間の経過とともに冷静になったらしく、遅くに帳場へ信蔵を呼びつけ一分銀の山を差し出した。二十五両入りの切り餅を破った形跡がある。
「大番頭さんや、これを渡してきてくれないかえ。二十両ある。娘はやれぬが、仙吉はよく頑張ってくれた。こんなもんじゃ少ねぇだろうが、もう仙吉も江戸では商いはできねぇ。越後へ帰る旅費の足しにでもしてくんなってな、ほんの心づくしだ」
仙吉がこのまま茜屋で奉公を続ける訳にはいかない。そして江戸に残るためには呉服屋以外の職を探さなければならない。仙吉ならどんな仕事についてもそれなりにこなしていくだろうが、「もう仙吉も江戸では商いはできねぇ」と言った善兵衛がどんな妨害をするかもわからない。信蔵は、腹の中で善兵衛に向かって唾棄した。
「ありがとうございます、旦那様。きっと仙吉も喜びやしょう。必ず渡してめぇりやす」
善兵衛の言外に、志乃と別れさせろと言っているのが伝わってくる。
(けちんぼが! 二十両やるから娘と別れて江戸を出て行けだと? 体裁のいい所払いじゃねぇか! 中途半端な金、出しやがって。仙吉になら切り餅の四つや五つ渡したって罰は当たらねぇだろうによ)
肩を怒らした信蔵が帳場から出てくるのをお浜が申し訳なさそうに待っていた。
「おまえさん、御免ね。急だったからこんだけしか無かったよ」
お浜が信蔵と所帯を持つために貯めていた十両の金子を差し出した。
「すまねぇな。恩に切るぜ」
信蔵は、元々渡すつもりで掻き集めた自分の二十両にそれを足すと、苦虫を噛み潰したような顔で離れの三畳の間に向かった。もうじき番頭に昇格する仙吉は、狭くとも一部屋あてがわれていた。
断りもせず障子を開けると、人気のない冷たい空気が外へ流れ出た。
「もぬけの殻かい」
お浜が手燭の灯りで中の様子を窺った。
「荷物がなくなっちまってる。もう行っちまったのかねぇ。でもどこの木戸も、もう閉まってるし……」
後ろ手に障子を閉めた信蔵は、自分が仙吉ならどうするか思案した。
同じ釜の飯を食い、将来を嘱望して特に目をかけていた若者の考えそうなことである。信蔵は目を閉じて仙吉を思い浮かべた。
お浜も心配顔で信蔵を見上げている。
「……俺だったら、会わずに一人で行っちまうがな」
目を吊り上げた浜が信蔵の二の腕を半纏の上から抓った。
信蔵は志乃の部屋に続く中庭へ下りると身を隠すのに手頃な置き石の上で腰掛け、煙管を銜えた。隣に寄り添った浜が団扇で蚊を追い払っている。
「ほんとに来るのかねぇ、仙ちゃんは…… あの子の友達って言えば、ほら、あの幡随院の……」
お浜が信蔵の勘を疑った。
「わからねぇ、来りゃあそれでよし。来なけりゃそん時だ。俺はほとほと今度のことで旦那様にあいそがつきたぜ。俺も辞めるかもしれねぇ」
「信さんの決めることさ。いいよ。どこだってついて行くよ」
信蔵の決心を聞いても動じないお浜が腕を絡ませてきた。
そんなお浜の身体を片手で引き寄せ弄りながら、信蔵はきっと仙吉はやって来ると確信して志乃の寝所の雨戸を見詰め続けた。
志乃は蒲団を頭から被って目を堅く閉じていたが、父と母に対する憤りと仙吉への熱い想いに身を苛まれ眠ることなど到底できるはずもない。高鳴る胸に手足が勝手に悶えた。
眠れぬまま、八つ(午前二時)を過ぎた。
雨戸へ投げつけられた微かな石礫の音に、志乃の耳が反応して飛び起きた。暗くて三津に躓いてしまったが、起こした様子はない。雨戸の枢を外すのももどかしく少し開いた隙間から身を横にして滑り落ちると、志乃は七竈の植え込みの影に仙吉の萎れた姿を見つけることができた。
「どうしたの? ずぶ濡れのままじゃないか」
静寂の中で仙吉を強く抱きしめた志乃は声を殺して泣いた。
目を真っ赤に腫らし、強く拳を握り締めている仙吉の身体を、何かに憑かれたように志乃は自分の袖で拭い続けた。
「仙吉、二人でここを出て行くよ。私、心を決めたんだ」
「お嬢様、駄目らてば。おら、一人で出て行きますいね。そして、釣合いがとれるくらい立派になってきっとお嬢様を迎えに来ますいね。だすけ(だから)、待ってておくんなせや」
「嫌よ、そんなの嫌!」
志乃は視線を外そうとする仙吉の目を追いかけ続けた。
「古着屋から始めましょう。仙吉と二人なら行商に歩いても構わない」
「お嬢様にそんつぁらがんことさせられねぇて」
「お嬢様って言わないで!」
志乃は仙吉の決心を促すように肩を揺すった。それでも背ける仙吉の目を両手で頬を挟みこみ力ずくで志乃に向かせた。
「ふんねもう(本当にもう)わかりましたて。おらも支度やらんばね(しなくてはなりません)。明け六つに木戸が開いたら浅草寺に来ておくんなせ」
志乃は仙吉の目を外さずに頷いた。
「五重塔の前よ! きっと行くから」
決心したからには何時までもこうしているわけにはいかない。二人は弾けるようにそれぞれ目的に向かって走った。志乃の動きを目で追っている三津や、すぐ傍で身を潜めている信蔵の存在など見えなくなっている志乃であった。
明け六つを知らせる浅草寺の鐘がなった。
開いたばかりの木戸をすり抜けるようにして駆け抜ける女がいた。
「あれは、茜屋の……」
訝りながらも志乃の後姿を見送る木戸番小屋の番太郎の横を今度は、コロコロした目の大きい娘が血相を変えて通り抜けた。
「お三津ちゃんじゃないか。挨拶もしねぇで。ほんに最近の若い娘は」
年老いたその男が、口を歪めて小言を言うや、後ろから彼の肩をポンと叩いて足早に通り過ぎる男がいた。
「大番頭さんまで、こんな朝早くから何事だね?」
振り向いた茜屋の番頭は、何も答えず首を竦めて鯔背に笑って見せた。
不安な心を抱いたまま朝露に濡れた二天門を抜け、宝蔵門を過ぎてやっと五重塔の前に旅姿の仙吉を見つけた時、志乃の身体が震えた。
仙吉は、一人ではなかった。隣で鬱鬱と煙草を燻らしているのは辰太郎のようだ。だとすると昨夜の仙吉は、辰太郎の世話になったに違いない。
――よかった、ちゃんと畳の上で寝れたんだね
仙吉の前まで来た志乃は言葉も忘れ、ただ見詰め合うことしかできなかった。
「思い切ったことをしてくれるじゃねぇか。とうとう朝まで仙の字に寝かせてもらえなかったぜ。でも、お志乃! 本当にこれでいいんだな?」
眠そうな目を擦る辰太郎から太いどすを利かせた声で問い質された。
「辰ちゃん、ごめんね。辰ちゃんにも迷惑かけちゃって、私……」
「何も謝られるようなことはしてねぇぜ。ま、なんだ。似合いの夫婦だよ。お志乃ちゃんと仙の字は。昔からそう思っていた。二人で力を合わせれば何でもできるさ。でもよ、花川戸も寂しくなるってもんだぜ」
「ありがとう。辰ちゃんのこと、絶対忘れない。落ち着いたら手紙書くから」
程なく、遠くから志乃を呼ぶ声が聞こえてきた。
「お三津かい? あたしゃ、帰らないよ。誰が何と言おうが、千さんと一緒に行くんだ」
「違いますよ、違う……」
心配と怒りの混じった顔で三津が駆けてくる。
「どうしたの?」
「女将さんが倒れなさいました。すぐに戻ってくださいっ。嘘じゃありません!」
息を切らせた三津がやっと志乃に追いついた。三津は胸を押さえて今にも死にそうな苦しい表情をしている。
「女将さんが?」
仙吉の表情に予期せぬ戸惑いと落胆の色が浮かび、肩に振り分けて担いでいた荷物を落とした。
「そいつぁ、どういうことでぃ?」
珍しく辰太郎も平静さを失い、倒れそうにふらつく三津を横から支えた。
確かに部屋を出る時、物音に目を覚ました利久が寝巻きのまま志乃の前に立ちはだかった。しかし、志乃は利久を突き飛ばし、庭へ飛び降りるとそのまま逃げてきたのだ。ちらっと母親の蹲るのが見えた。利久は「お志乃!」と娘の名を一回叫んだきりで、起き上がろうとはしなかった。後ろ髪をひかれたが、きっと私を連れ戻すための狂言だと思った。しかし、あまりに真剣な三津の表情に不安が募った。
「おっ母さんが倒れた……」
志乃の心に白く霞がかかった。その霞が志乃の娘として普通に湧き上がる感情を抑えた。
「嘘じゃねぇ」
雪駄の尻鉄を鳴らしながら寄ってきた信蔵が志乃の後ろに立った。
「本当でさぁ、興奮して頭に血が昇っちまったのか、うつ伏せのまま起き上がってこねぇ。意識が戻って来ねぇんだ。手代の太吉らが医者の良庵先生を叩き起こしに行ったんだが……。もともと心の臓が弱いことは、お志乃ちゃんも知ってなさるだろう?」
信蔵から志乃は睨まれた。仙吉の方へ目を逃がすと彼は唇を噛み締めて俯いている。志乃は風呂敷包みを強く抱きしめたが、ひどく落ち着かなかった。
「薄情なおっ母さんと仙吉とどっちか選べって言うの? そんなの、決まってる! 仙吉に決まってるっ!」
志乃は、叫んだ。それは捨てられない良心を無理やりかなぐり捨てようとした叫びだった。叫んだ後、後ろめたさが残った。
「そりゃぁ言い過ぎだぜ」
「辰ちゃん、どっちの味方?」
辰太郎に言われなくてもそんなことはわかっている。
――どうかしてる。今の私は、いつもの私じゃない
志乃は首を横に振って唇を噛んだ。
「娘の幸せを願うおっ母さんを薄情なんて言っちゃあなりません。冷静になっておくんなさい、らしくねぇですぜ」
落ち着いた低い信蔵の声が、朝の空気を振るわせた。
「お嬢様は薄情だっておっしゃるけど、女将さんは私らにも優しくって…… そんな女将さんがお嬢様とこんな別れ方をなさるなんて」
三津が泣いている。
「お三津のばかっ! 騙されちゃって。あの人のは体裁だけの優しさだよ。奉公人によく思われよう。お三津達に慕われたい。それだけのお人だよ。今夜のことでよっくわかった。上辺だけで人を見ちゃいけないよ」
「そんなぁ、そんなこと言っちゃあいけません!」
袖を掴んだ三津の手を志乃は乱暴に払った。
だんだん依怙地になっていくのが志乃自身でもわかる。仙吉への気持ちが強すぎて、すげないと愛想尽かしされようが、理不尽と罵られようが早くこの場を立ち去りたいのだ。勝気で滅多に泣かない志乃の目に熱い涙が溢れた。体の震えが止まらない。
そんな志乃を見かねたのか、今まで黙っていた仙吉が躊躇いがちに口を開いた。
「お嬢さん、もうそれ以上はいけねぇ。すぐ帰った方がいいらて。ここで万が一、二度と女将さんに会えねれとしたら、一生後悔するろが。あっしは一人で行きますいね。どのみちもう江戸じゃ働けねぇ身の上ら。上方へ行きますいね」
「あたしも上方へ行くよ!」
志乃は仙吉に寄ろうとした。
「足手まといらてば!」
志乃の心臓が一瞬止まった。声を荒げる仙吉は初めてだった。張り詰めた空気が二人を凍りつかせた。
志乃が手足にまとわりつく枷を引きちぎるように一歩を踏み込んだ。
「足手まといって言ってんねっか!」
もう一度仙吉に言葉の壁で押し返された。
志乃の性格をよく知る辰太郎が苦渋の顔で「言っちまった……仙吉、覚悟決めちまったんだな」と舌打ちするのが聞こえた。
仙吉が表情を引き攣らせて志乃を睨む。志乃も引かなかった。自分の意志をまっすぐに向けて仙吉の視線を跳ね返そうとした。
「足手まといだって? 本気で言ってるのかい」
実際に出た声は弱弱しいものだった。
身体に被さった重い空気を跳ね除けるように志乃がまた一歩前に出ようとした。
「お嬢さんは、茜屋っていう籠の中にいる鳥みたいなもんら。籠の外に出ちゃ生きられねぇ」
「なんだって! ばかにおしでないよ! それともわたしのこと、そんな風に見てたのかい?」
いきなり持っていた風呂敷包みを荒々しく仙吉に投げつけた。風呂敷が解けて着替えの着物が散らばった。豪華な振袖が何枚か入っていた。
「ほれ、御覧なさいんだて。こんげな振袖を持って江戸から出るつもりだったんらろかい? お嬢様の暮らしに未練があるって証拠らてば」
「違う。これは途中で売るつもりだったのよ。突然でお金をあんまり持って来れなかったから。未練なんかじゃないんだよ」
志乃が焦った。
「だっけ、あーめ(甘い)ってゆうんらて」
仙吉は、志乃の着物の山を両手で掴むと弁天池の縁へ投げ捨てた。
「何すんのよ! ばかっ」
弁天池に飛び込んだ志乃は、着物を拾い集めた。踝までの浅さでしかなかった所だったので、まだほとんど濡れてはいない。
「これは、桃見の時に着た着物、この紺はおっ母さんとお三津と芝居見物に行った時に…… これは柴崎様のお屋敷にお呼ばれしたときに着た……あああああっ!」
志乃は、自分の言葉に思いがけず心が砕け散った。着物に楽しかった思い出が染み込んでいる。無意識にそんな着物ばかりを風呂敷の中に包みこんできたのだ。
全く何もかも捨てて仙吉についていくつもりだったのに……
仙吉の言う通りだ。
――私は…… 私は捨てられないでいる!
後から飛び込んできた三津に抱き締められた。一点を見詰めたまま動けないでいる志乃に尋常ではないものを感じたのだろう。だが、志乃はどこも見ていない。目の前でそよぐ葦も時折顔を出す亀も何も目に入らなかった。志乃の視線は明らかに自分の内側に向かっている。三津が渾身の力を込めて志乃の腕を掴んだ。まるで現実の世界へ引き戻されるように三津から引かれた。
志乃の目の端に、懐に右手を突っ込んだ信蔵が仙吉の前へゆっくりと近づいていくのを認めた。二人の側へ行きたくても三津に抱きとめられたままの志乃は動けなかった。もがけばもがくほどに必死の形相をした三津の腕に力が込められていく。
「すまねぇな。これは茜屋からの餞別だ。五十両ある。少ねぇが上方へ行って商いをする足しにしてくれ」
――五十両? まさか、お父っさんがそれを…… 信蔵あにさん、そんなもの渡さないで仙吉を止めておくれよ、後生だから
「そいつは受け取れねぇです」
仙吉は後ずさりながら固辞した。
――仙吉! 受け取るんじゃないよ
信蔵が仙吉との間に自然と誰も寄せ付けない男同士の壁を作った。
信蔵の発する気合に遮られて志乃は動けない。同じ場所にいるはずなのに、まるで手を伸ばしても触れることのできない別世界の光景が目の前で展開している。市村座か守田座の芝居を見ているような気持ちになってきた。
――まるで大向うじゃないか。ここから私の声が届かないの?
「いいから持ってけってんだ。そして、茜屋なんぞ取り込んじまうくれぇの大きな店を構えて、帰ってきな。おめぇならきっとできる。待ってるぜ」
信蔵は無理やり金を仙吉の懐に押し込んだ。
――茜屋なんぞ取り込んじまうくらいの大きな店だって? 何なのそれは……
「これ以上大番頭さんと話しとると、せつねてばね。ほんのきに(本当に)今までありがとうございましたれ。大番頭さんが教えてくださったこと、一生忘れませんて。だっけ許してくんなせや」
――許さない! 絶対に許さないよ
「てめぇみたいな頑固者を片貝じゃ何て言うんだっけ。昔教わったよな。忘れねぇようにもう一度教えてくれねぇか」
低い静かな信蔵の声だった。
「頑固者ですか……『いちがいこき』言いますいね。決して、褒められたことではねぇらろも」
「そうだ、『いちがいこき』だったな。そうけぇ、いちがいこきの仙吉けぇ。忘れねぇぜ、いちがいこきっ」
――仙吉は頑固者なんかじゃない。仙吉は……仙吉は……泣き虫仙吉……
仙吉は、信蔵に深々と頭を下げると涙を見られないように背を向けてよろよろと歩き始めた。
出番の幕が上がったかように池から駆け上がって、志乃は「仙吉っ!」と何度も叫んだ。
「ふざけんじゃないよ。愛想もこそも尽き果てたってかい! いいよ、わかったよ、おまえがどんなに大きな店出したってあたしが叩っき潰してやる。いいかい! わたしが……私がぶっ潰してやるからね。いつまでも上方なんぞで燻ってるんじゃないよ。とっとと喧嘩売りに江戸へ戻っといで!」
志乃の叫びが届いたのか、とぼとぼと肩を落して歩いていた仙吉が一瞬止まって、背をしゃんと伸ばした。
「仙吉、受け取れ!」
辰太郎が小さな皮袋を仙吉に向かって投げつけた。
振り向いた仙吉が反射的に手を伸ばして受け取った。
「俺が肌身離さず持っていたお守りだ。鹿の角でできた骰子だぜ。決心のつかねぇ時やおめぇが迷ったときに使いな。結構当たるぜ。ピンゾロが出たら大吉だ」
仙吉が辰太郎の真似をして手のひらで骰子を振って見せた。仙吉の顔が笑ったように歪んで見えた。泣いていたのかもしれない。志乃が最後に見た仙吉の顔だった。
それから一度も振り返ろうとしなかった仙吉の後ろ姿は最初の辻に消えた。
辰太郎が懐から一枚の書付を取り出してびりびりと破いて捨てた。
不思議そうに見た三津に辰太郎が力なく笑った。
「町年寄の爺さんを叩き起こして嫌がるのを無理やり書かせた通行手形だ。一枚は仙吉が持っている。こいつぁ要らなくなっちまった」
志乃は緩慢に三津の腕を振りほどいた。
「辰ちゃん、ありがと。いろいろ迷惑かけちゃったんだね。手形なんて思いも寄らなかった。まったく足手まといになるところだった」
抑揚のない声で志乃は辰太郎に頭を下げた。
「い、いいってことよ。それよりお志乃……」
「大丈夫よ、私は置いてかれちゃったってことよっくわかってるんだから」
「お嬢様っ!」
「いいんだよ、お三津。あたしゃ仙吉よりもお母っさんの方を選んじまったんだから。それよりも泣き虫ヒョロ吉の旅立ちだ。お三津も見てたろ? 泣き虫のくせに堪えたまんま行きやがった。祝ってやってよ。私のこと足手まといだなんてたいそうな御託並べやがってさっ」
三津が大きな目に涙を一杯溜めて、志乃にかける言葉を捜していた。辰太郎は志乃とは目を合わせないように煙管を銜えた。志乃は仙吉の消えていった辻を瞬きもせずじっと見つめながら茫然自失して佇んでいる。
仙吉と志乃を結ぶ糸は一本なのに、志乃と茜屋を繋ぐ糸は無数に絡み合って志乃を固く縛っているらしい。そして、その煩わしい糸を志乃は断ち切ることができなかった。
三津がそっと志乃の袖をひいた。
三津の慕ってくれる心もきっと煩瑣なくせに切れない糸の一本に違いない。
志乃は、ふっと溜息を漏らすと作り笑いを浮かべて三津を見た。
信蔵がそんな二人の肩を軽くぽんと叩いて帰ろうと促した。
「お志乃の決めたことは、……間違っちゃいねぇよ。茜屋で働くみんなの幸せを守ったんだ」
辰太郎が志乃を元気付けようと遠慮がちに慰めを口にした。
「辰ちゃん! わかったようなこと言わないで。今度そんなこと言ったらぶん殴るよ」
志乃の激しい口調に辰太郎は思わず信蔵の後ろに隠れた。
志乃の心を逆撫でするように容赦なく陽が照り付ける。
――雨でも降りゃいいんだ。なんだい、あの真っ白な雲は……
眩い空を志乃は恨めしそうに見上げた。今頃になって涙が溢れ出してきた。いくら上を向いていても頬を伝う涙を止めることはできなかった。
降り注ぐ朝陽を照り返す弁天池の水面が金色に輝いている。葦についた露もきらきらと輝いて見えた。夢か現か判らぬ景色の中で漂う不安定さに、三津達が支えてくれなければ志乃は身体の重心を失いそうだった。
昨夜の事は夢だったの?
志乃を覆った混乱は解けないまま、元文四年の夏が今まさに盛りを越えようとしていた。