水没アンテナ
なんにしてもこの時期に忙しくなるのは映画研究部の宿命なわけだが、今年は特にひどい。
ぼくを含めた三人が入部したのが二年前で、その時分には先輩たちも数人いて活気が感じられた。しかしその翌年から映研は衰退の道を順調に辿ってゆき、去年と今年の入部者はゼロ。
「テレビとゲームが俺たちの青春をつぶしてしまった」という名言を吐いたのはカメラ担当の木崎だ。
たしかにそうかもしれない。テレビの快適さやゲームの主観性と比べたら映画だってなんだって見向きされなくなる。しかし映画の楽しみというものは、根本的に別の次元に隠されているのだとぼくは思う。
ぼくのように筋金入りの映画好きなら、おそらく黙ってても入部してくれるのだろう。それに、できればそういうひとに入ってきてほしいのが本音。だが待ってばかりもいられなくなった。来年になって入部者がひとりもいなかったら、事実上映研は廃部になる。
だから今年の文化祭が肝心なのだ。文化祭には、わが高校を受験するであろう中学生がどっと押し寄せてくる。そこでぼくたちの会心の作品を見せて来年の入部希望者を確保するという算段である。
「そういうわけで、第一回、今年度文化祭自主映画対策会議を始めます」
日当たりの悪い部室でぼくたち三人は向かい合った。日当たりが悪いのは、過去の先輩方が撮ったフィルムや既に使われなくなった小道具や名作と呼ばれる映画のビデオテープなどなどがごっちゃになってうず高く積まれ、窓を半分さえぎっているからだ。こうした伝統を絶やすのは絶対にまずい。
「対策もなにも、無理でしょ、映画」
場を切り捨てたのは木崎。
「いや、無理だからこそ対策をね……」
部長として司会を務めているのはぼくだ。
「演劇部の友達に交渉してみたんだけどさあ、やっぱ忙しすぎて無理だって。あそこも部員減ってきてるからね。余ってるひといないんだってさ」
そういったのは副部長兼女優兼シナリオライターの長谷部さんである。気の毒なことに唯一の女子部員だ。それでも毎日部活に顔を出すあたり、彼女の意欲を感じる。
それにしても演劇部の協力も得られないとなると状況はいっそう厳しい。まず三名という人数自体が大きな逆境となっているのだ。
「この時期はどこも忙しいからな。しかも芝居の好きなやつなんざそうそういないだろ」
「となると、役者はぼくと長谷部さんの二人だけかあ」
「まあ固定カメラにしてズームもなにもなしにすりゃ俺も出られるけど」
「でもどっちにしろ、津波の逆襲は無理だね」と長谷部さん。
「津波の逆襲」は、長谷部さんが一年を費やして書き上げた、会心のシナリオだ。
不条理とシニカルなユーモアで練り上げられた傑作で、痛烈な文明批判を含んでいる。飄々とした長谷部さんらしい作品だと思う。
客船から落下した少女は溺れ死ぬ直前、「海」に惚れられ、成人したら「海」と結婚するという約束のもと命を助けられる。しかし彼女は「海」を裏切って人間の男と結婚し、「海」は怒りに駆られて津波を引き起こし、陸地を襲う。世界は海に沈み、東京タワーの頂上にひとりのこされた少女は終末を見届け、「海」と結婚する。
おおざっぱにいうとそんな作品である。
「あー……そうだね」
「まあSFって時点で高校の映画としては無理あったけどな」と、木崎。
「そうだねえ、CGとかねえ」
「これさ、文芸部の同人誌に出してみれば。ストーリーとしてはいい線いってるから、うけるかもよ」
「文芸ってねえ。なんか違うんだよなあ。やっぱ映画なんだよ、映画」
長谷部さんはため息をつき、残念そうに続ける。
「高校生のうちに撮っておきたかったんだけどなあ」
ぼくはできる限り長谷部さんの力になりたかった。撮れるものなら、「津波の逆襲」の制作を手伝ってあげたい。長谷部さんのやりたいことをやりたい。なにしろぼくは長谷部さんのことが好きなのだから。
そして、木崎もきっと同じ気持ちを抱いているのだと思う。
思うに、きっとぼくたち男子高校生というものは、いやもちろん千差万別あるのだろうけれど、特定の女子と日常的に接していればそのひとを自然と好きになってしまうような、悲しい人種なのだと思う。幼稚な煩悩。性欲の延長戦。なんだっていい。いまのぼくには、それこそが生きることだと信じるしかないのだから。
下校を促すチャイムが鳴った。
「それじゃあ、次回の部活までに各自アイデアを出しておくということで」
「次回っていつ?」
「土日にやろうってんなら、それでもいいけど」
「ああ、あたし土日は無理。たぶん」
「それなら月曜だ」
そうしてその日は解散した。そのとき、前を歩く長谷部さんの後姿を眺め、その長い髪を眺め、ぼくは新入生云々はともかくとしても、高校生活最後として後悔のない作品を絶対に仕上げようと再認識したのだった。
しかし長谷部さんは死んだ。
月曜日に待っていたのはあまりにも信じがたい宣告だった。土曜日、家を出た長谷部さんは単身で東京湾にくり出し、そこで乗った遊覧船から身を投げたらしい。ぼくの周りに漂っていた空気が一瞬で吹っ飛ばされたみたいだった。あるいは全身の血液が驚愕し一斉に歩みを止めたような。
自殺というデリケートな事件が学校側に与えた衝撃はとにかく大きかった。いじめ、家庭内問題、受験ノイローゼ、ほじくればほじくるほどあらゆる可能性が黒い穴からこぼれでてくるようだった。
もっとも、ぼくと木崎にとってはそんなことはどうでもよくて、映画も学校も将来のことさえもどうにでもなれといった心境で、二人で学校を抜け出し街をあてもなくさまよった。長谷部さんの葬式にさえ行く気が起きなった。
どこか静かなところを歩きたかったのだが、東京の中心部はどこも似たり寄ったりで、どっちを向いても灰色の景色とエンジン音にまみれていた。見慣れているはずのそうした様相になぜかとても腹が立って、冗談めかして木崎にいった。
「おれたちも東京湾行っちゃう?」
木崎はそれには答えずにいい返した。
「長谷部さん、映画つくりたかったのかな」
その直接的な台詞がぼくをぶん殴った。
「そりゃ、つくりたかったんだろうけど……」
「それとも本当に海と結婚する気だったのかねえ。わけわかんないな。いったい何考えてたんだろう。あんなにいつも通りだったのに」
「ほんと……わけわかんねえよな」
「おれなんかさあ、長谷部さんのこと好きだったってのに」
まさにそのときだった。地球が咆哮した。
地面が上下に激しく揺れ、二人ともたまらず膝をついた。すぐそばを青い乗用車がかすめていって洋服屋に突っ込んだ。クラクションが立て続けに鳴った。あちこちで窓ガラスの割れる音や、ビルディングの呻きが響いている。それを彩るのはひとびとの悲鳴。
ぼくたちはだらしなく口をあけ地にふせたたまま、スウィングする街を眺めていた。さまざまな破壊音が一気に鼓膜に押しかける。何分たってからか、ようやく揺れが収まったときにぼくは唾を飲み込み、気管支に入ったのでむせた。ぼくと木崎はまだ言葉を出せないでいた。ものすごい地震だった。いつかくるだろうといわれていた関東大震災がとうとう起こったのだろうか。都市が壊滅的なダメージを負ったのが容易に想像できる。一本、二本と遠くで煙が立ち上る。いま生きているのが不思議なくらいだ。近くに高い建物がなかったのが幸いだった。
「や、やばいだろうこれは……」
やっと木崎が言葉を発した途端、再び先ほどとまったく引けをとらない揺れが襲ってきた。ぼくは悲鳴をあげて腰をついた。そこで、突然木崎は「あっ」と叫ぶとぼくの腕をつかみ、無理矢理立たせようとした。
「わかったぞ、佐藤!」
地鳴りに紛れて木崎の声が聞こえる。
「なにがだよ!」
騒音にかき消されないよう精一杯に声を張り上げる。
「津波の逆襲だよ!」
木崎はカバンをさかさまにして中身をすべて路上にぶちまけ、その中からデジタルカメラを拾い上げた。なじみのあるムービー撮影音が聞こえた。
「ほら、佐藤! 演技しろ! 美少女の代わりに冴えないオタクだけどな!」
木崎は地震で映像がぶれないように足をふんばり、ぼくにむけてデジタルカメラを構えている。
「ざけんな馬鹿! 早く逃げるぞ!」
「おまえだよ馬鹿は! これが長谷部さんの遺産じゃなくてなんだっていうんだ!」
そのとき目に浮かんだのは長谷部さんの長い髪だった。そう、これはあのときの後姿だ。
ぼくは笑った。唐突におかしさがこみあげたのだ。あまりの馬鹿馬鹿しさ、ぼくたちの能天気さに。
揺れが収まった。しかしまたいつ始まるかわかったものではない。
「東京タワーに行くぞ!」
木崎が叫んだ。
「もう倒れてるかもしれない!」
「そんなわけあるか! ずっと台本通りじゃんか!」
たしかに東京タワーはまだ在った。土埃にかすんではいるが、長身のフォルムがそびえたっているのを確認できる。われ関せずとでもいいたげな悠々とした容貌は頼もしさすら感じる。
ぼくたちは疾走する。
瓦礫を縫いながら駆ける。
もしもこの異常現象が、本当に木崎のいうように「津波の逆襲」のシナリオ通りだとしたら、世界は今日で終末を迎えることになる。東京の終りと世界の終り。それはもちろん前者のほうがありがたい話ではあるが、なんだか後者でも構わないような気がする。これが長谷部さんの望んだ筋書きなら、それを成し遂げるのがぼくたちの役割、ロールなのだから。それが惚れた男のつとめではないだろうか。
東京タワーには人っ子ひとりいなかった。
「平日だからかな」とぼくがいうと、木崎は笑った。
ぼくたちが足を踏み入れてすぐ、何か巨大なものが地を這っているような、低い音が轟き始めた。
ぼくも笑った。本当に台本通りだからだ。
パンパンの脚に鞭打って、非常階段を必死に上がった。しかし本当に頂上まで登れるはずがないので、目指すのは頂上ではなく最上階だ。シナリオに若干の変更有。喘ぎながら階段を駆け上っている間、木崎はしっかりとカメラを回していた。ぼくは台詞らしい台詞も口にしていないしカメラを意識する暇もなかったが、それでも彼女は許してくれるだろうか。
最上階の床を踏むと、ぼくはしばし呼吸するのも忘れてしまった。
展望には渺茫の湖と化した、美しくさえある東京の亡骸が広がっている。「海」が世界を飲み込んでいる。これが長谷部さんの望んだ終末。永遠のフィルム。
「ピロン」と情けない音が鳴った。
「バッテリー切れだ。でも動画は保存したぜ」
木崎はデジタルカメラを放り捨てると、床に寝転がった。
「ああ、残念だなあ。せっかく大傑作の絵がとれたのに、見てくれるひとはもういないんだなあ」
ぼくは木崎の隣に腰をおろし、三人の名前しか流れないエンドロールを想像しながらいった。
「まあ、名作ってのはそういうもんだよ」