「チイ」
ちょっと長くなるけどできたら最後まで聞いて欲しいんだ。この線香一本が燃え尽きるまでで済ますからさ。
大学生にもなって「チイ」なんて渾名で呼ばれている男は俺くらいのものだろうな。しきりにチイ、チイって連発する中学からの親友の横っ面を何度ぶん殴ったか俺にはわからない。それでも懲りないのにはかなり参るよ。まあその親友のお陰であいつに会えたのには、多少感謝してるんだけどな。
「あいつ」の話をするよ。大学の食堂でさ、親友と話してたら「チイ?」って不思議そうな顔をしてこっちを見てきた人が居たんだ。女で髪が長くてきれい系の顔をしてる。親友は早速「そっ、こいつこんな顔してるだろ。チイって渾名すげえ似合うと思わねぇ?」あいつに向けて舌を回し始めた。「俺が童顔で背が低いのは遺伝で俺のせいじゃない!」俺が真面目腐った顔で言うとあいつは爆笑しやがった。とりあえず親友をぶん殴っておいた。……遺伝、だよな? お前も背、低かったしさ。
それまで気づかなかったけどあいつと俺は学科が同じで、結構講義が被ってたりして会うことが多かった。どちらからともなく近づいていって付き合いだすまでに時間は掛からなかったよ。あいつはちょっと変なやつでさ、妙な手癖があって両手が空いてたら両手を組んでるんだ。目も閉じてて俺にはまるで祈ってるみたいに見えた。それを指摘したら恥ずかしそうにパッと手を離すんだ。それから女のくせにブルーハーツが好きでカラオケに行ったらいつもきれいな声で叫ぶみたいにして歌うんだ。ドブネズミみたいに美しくなりたい、ってさ。あんなきれいな人が。変だろ?
あ、女のくせにってのは偏見かな? 今度から気をつけるよ。
あいつと付き合いだしてから一ヶ月くらいたったあたりでさ、親友が俺に耳打ちしたんだ。「あの女、やめとかないか?」親友はノリの軽いやつだったけどこんなこと言うようなやつじゃないと思ってたから俺は驚いた。問い詰めても理由を吐かなかったこともあって俺はめちゃめちゃ怒ったよ。親友は何も言わずに俯いてた。でも親友の言ったこともいまになってようやくわかった。実は親友の親父さんは刑事なんだ。お前の面倒も見てくれたみたいだ。
あいつが夜景に見に行こうって俺をあの山に誘った時には多分話す決心をつけてたんだと思う。苦しかったんだろうな、誰にも話せなくて。レンタカーを借りて山に登ったのは深夜で車のライト無しじゃ暗すぎて何も見えなかった。ライトをつけっぱなしのまま外に出て二人して暗い中で崖の端のほうに座り込んだ。「景色、見えないね」あいつはちょっとがっかりしてた。お前と一緒に何度か行ったあの場所だよ。だから俺にはまだまだこれからだってわかってたんだけどな。
あいつは俺の肩にそっと手を置いて「何も言わずに聞いてくれる?」って。俺は車のライトの灯りの中で頷いてあいつの肩を抱いた。あいつ、なんて言ったと思う? 「わたしは人を殺したの」だぜ? 驚いて崖から落ちそうになったよ。
ハンドルネーム「チイ」と出会った経緯をあいつはよく覚えてなかった。SNSって言うのかな? インターネットの紹介制のサイト、あれで知り合ったらしいんだけど。あいつはその頃親の関連でちょっと辛い時期で家からも学校からも逃げてたんだって。まあこのへんはお前のほうが詳しいか。「チイ」とネットだけじゃなくて現実でも会うようになって、あいつは親にひどいことをされて気が立ってた日に「チイ」にひどいことを言った。「あんたくらいの不幸でめそめそするな」だったかな。「チイ」はそれに傷ついて、「あなたならわかってくれると思ったのに」って言って帰って、そのまま死んじまった。それをあいつはずっと悔やんでる。ずっとずっと悔やんでる。話終わったあと、あいつはずっと目を閉じて祈るように両手を組んでた。俺たちを突き抜けたライトの灯りが睫のあたりの透明な雫を照らしてた。
俺はあいつをこのまま突き落とそうかって少しのあいだ悩んだんだ。だって、そうだろ? その時のあいつはまるで無防備で簡単なことに思えた。
けど結局できなくてあいつの肩を抱いて待ってたんだ。
そしてようやくそれがきた。
「なぁ、見ろよ」
俺は地平線を指差した。
「夜明けだぜ」
結局俺たちは続いてるよ。お前は俺とあいつを許してくれるかな? チイ。
一度鐘を鳴らして両手を合わせた。
「今度あいつも連れて来るよ。どうなるかわからないけどきっと」
俺は妹の居る仏壇の前から離れた。
さて、今日の晩飯は何にしよう。