七面六臂の鬼
1
昔の話である。
山間の村で、騒ぎがあった。鬼が出たというのだ。
鬼の面は七つ、腕は三対。七面六臂である。
村人たちは恐れをなして、若い娘や子らを隠したが、男だからとて安心はできない。なにしろ相手は鬼なのだ。
そこへ流浪の剣客が通りがかったのを、御仏の思し召しと縋りつき、かくかくしかじか。まだ若い剣客は朗らかに応じた――わかった、儂が行こう、と。
鬼の居場所は山中の滝壺のあたりとのことだった。
途中までは村人が山菜採りなどで利用する踏み分け道があったが、徐々にそれも消える。滝の方は、鬼が出る前からあまり行く者がいなかったと聞いた。
昔、不幸があったとか。祟りがあるとか。事情はともかく、なんらかの障りがあるのだろう。
それでもだいじな水源だから、落ち葉で流れが詰まったりしないかと、たまに見回りはしていたらしい。鬼を発見したのも、見回りの村人だったという。転がるように山を下りて来たからなにかと思えば、鬼だ、鬼が出た、と。叫んだなり気を失い、当初は死んだと思われたとか。
剣客はその男に仔細を質したものの、わかったことといえば、鬼は七面六臂であったということだけだった。
戻って来たのだと年老いた男がつぶやいたのを聞き止め、前にも鬼がいたのかと問うたが、老人は口にするのも恐ろしいといいたげに顔を歪めたのみであった。
案内を請うも、途中までならと恐る恐る申し出た村人がいただけで、その村人も大いに腰が引けており、いっそ気の毒なほどである。滝が近くなる前に、剣客はその者を村に帰らせた。
薮深い山中を水音に導かれ進んでみれば、やがて木の間隠れに滝が見えてきた。
どうどうと轟音がすることからわかるように、落差も大きく、水量も豊かな滝である。この滝壺から溢れた流れが、下流にある村を潤しているようだ。
まだ昼だったが、繁茂する木々のあいだで滝壺は暗く、どこまでも深く見えた。それこそ、地の底までつづいていそうな。
そこには、たしかに異形の者がいた。
それは、昏い滝壺を前に座っていた。三対の手はそれぞれに印を結び、七つの面は――少なくとも剣客から見えるものは――眼を閉じて。深く瞑想をしているようにも見えた。
これは、と剣客は思った。
――鬼というより、仏のような。
腰に大ぶりの刀剣を佩いていなければ。せめて、首に髑髏を下げていなければ。慈愛に満ちたとまではいわないが、悟りを求めて修行する者のように見えただろう。
剣客の視線を察したものか、鬼の面のひとつが眼を開いた。赫赫たる眼差しは、その先にあるものを焼き尽くすがごとき強さである。
反射的に刀の柄に手をかけたものの、剣客はそれを抜くことはしなかった。鬼の視線に敵意はなかったからだ。
それはただ、彼という存在を隈なく照らし尽くしたのみ。
ひとつ、唾を飲んで。
「邪魔をする」
剣客は薮をかき分け、鬼に――滝壺に近寄った。
滝の飛沫が飛んで来るそこは、清涼そのもの。轟音に抗するため、剣客は声を張る。
「拙者、出水三郎勝元と申す、諸国遍歴の武芸者なり」
名乗りを上げると、鬼は正面の眼を開き、勝元を見た。唐渡りの高級な玉のごとき、碧の眼である。
「去ね」
それは低い、吐息のような。眼力に比べれば、力の薄い声であった。
三郎は屈託なく笑うと、どっ、と音がするほどの勢いで座った。手を延べれば鬼に届く。抜刀すれば、首を狙える――そんな距離である。
「さぞ名のある修験者とお見受けいたした」
鬼はわずかに眼をほそめ、上体を少しばかり捻った。髑髏の首飾りが揺れ、胸から腰へとつらなる瓔珞が覗いた。翡翠や真珠をふんだんに用いた黄金の飾りものは、萎びた乳房のあいだに垂れていた。
「修験者などではない」
「では」
「妾は鬼だ。里で聞いたであろう。人攫いの鬼だ。斬りたくば斬るがよい」
いやぁ、と三郎は頭を掻いた。
「儂は斬りあいの技を磨きとうて、諸国を巡っておるのだ。据えられた的を斬るのは、興味がない。……ただな、儂の家は水と縁があってな。それで出水という姓を賜ったと聞かされておる。水源に鬼が居座ったと相談されては、見過ごすこともできん」
「ではその鬼を斬るがよい」
「それでは水源が血で穢れてしまうであろう」
「……とうに穢れておる」
そう返すと、鬼はまた眼を閉じてしまった。
三郎もそれに倣い、心静かに滝の音に身を委ねることにした。
暮れ方まで、三郎はそのまま鬼の隣で瞑想をつづけたが、
「暗くなっては道を失ってしまう。今日のところは、これで失礼致す」
律儀に挨拶をして、その日は鬼のもとを去った。
村に戻れば村人から首尾を訊かれたが、彼はこう答えたのみであった。
「会うには会うたが、ちと難しい。まぁ待て」
2
翌日も、三郎は滝壺へ向かった。鬼は前日と同じ様子で座っていた。今度は端から三郎を見もしない。
「やぁ、出水三郎勝元でござる」
滝のとどろきに負けぬよう、今日も三郎は声を張った。
鬼は正面の顔をちらりと三郎に向け、昨日と同じく。
「去ね」
そう返した。
「今日もここは異界のようだ」
三郎はまったく堪える様子がない。闊達に、言葉をつづける。
「日差しも届かぬ薄闇の中、聞ゆは水音ばかり。……のう、教えてはくれぬか。村人は、おぬしを恐れるばかりではないようだ。この場所が怖いという。理由は教えてくれぬ。おぬしはどうだ。なんぞ知っておるのではないか」
「……神隠しがあると、いわれておるのよ」
応えがあるとは思っていなかった三郎は、少しおどろいて相手を見た。
鬼はといえば、すべての眼を閉じている。
「この滝壺で、子どもが消えるのか」
「そういう話に、なっておる」
「ならば、おぬしは子らを守ろうと見張っておるのか」
三郎にもっとも近い面が、その両眼を開いた。やはり、燃えるような眼差しであった。
「守れなんだのよ」
「なんと」
「次は守れるようにと神仏に祈りつづけた。子を失うごとに、面が増えた。次こそ見逃さぬようにと。腕も増えた。衣の裾を掴めるように、手を握って離さぬように……」
だが、と鬼はささやいた。滝の音が遠ざかり、低い声が三郎の耳に響く。
「失敗した。守れなんだ。残されたのは、鬼となった我が身のみ。妾は死を想ってここに居るが、並の武芸者では妾の首は斬れぬ。神仏の加護があるゆえな。妾自身にも、害することなどできぬのだ。出水三郎とやら、おぬしにはできようか? 妾の首を落とせるか?」
三郎は眼をしばたたいた。
鬼の首は太い――七つもの面を支えているのだから、当然だ。
「どうかな。やってみてもいいが……前にもいうた通り、据えてある的を斬るのは好かん」
「そうか。では去ね」
それきり鬼は黙ってしまい、三郎の方を見ることもなくなった。
三郎もまた、その沈黙を当然のように受け入れ――夕闇が迫ると、挨拶を残して山を下りた。
3
それから何日が経っただろうか。
鬼のいる滝壺に、三度、若き剣客の姿があった。
「やぁ、まだご記憶かな。出水三郎勝元である」
鬼は動かず、答えもしなかった。
三郎は頓着せず、勢いよく鬼の隣に座った。
「調べるのに骨が折れてな。皆、口が重いものだから。あまり時間がかかるので、終いには刀の鯉口を切って脅す始末よ」
武芸者のやることではない、と。三郎は自身を評しつつ、それでも悪びれるところはなかった。
それでな、と機嫌よく話をつづける。
「もとは神隠しではなかったのだな。人身御供だ」
さらりと指摘した。
老人のひとりが「戻って来た」と口走ったのが、どうにも気になっていた。戻って来たということは、以前もいたということ。つまり、心当たりのある相手なのだ。
であれば、因縁をほどかねばなるまい。
村人を脅しつけて聞き出したのは、以前、この地は水が涸れやすかったということであった。この滝壺から水が溢れることもなく、今ある川もなかったそうだ。おそらく、地表を流れることなく地下水となっていたのだろう。
井戸を掘ろうにも岩盤が硬く、満足な数にはできない。
樋を作り、水を滝から農地に流そうとしたこともあったが、険しい地形のせいで容易ではない。なんとか通しても、猪などの獣にすぐ壊されてしまう。
どうにかならぬかと苦闘する中で、雨の少ない年には滝壺に子どもを投げ入れる風習ができあがってしまった。当初は口減らしも兼ねていたのだろう。
だが、山中の寒村のことだ。そう気前よく子どもを投げ入れていれば、じきに足りなくなる。なにしろ、子を産むには十月十日もかかるのだ。
そこで、孕み腹を囲うことになった――運悪く通りかかった旅人たちをもてなして油断を誘い、女を奪ったのだ。街道ではなく不便な山中を行く者の多くは、訳ありだ。捜索の手が及ぶこともなく、行き方不明で終わるのみ。村が疑われることもなかった。
養いきれないときは、囲われた女たちも滝壺に沈められた。これが村人なら縁戚関係もあって揉めるところだが、しがらみのない余所者は生贄にも適していた。
水がないのがいけない、あの滝が水を呑むばかりなのがいけない。
底なしの滝壺に底を作るのだ――それが、人身御供の根本にある想いだったらしい。
「愚かな試みであるな。骨で水を堰き止められようはずもない。しかし、だ。どうしたことか、村人たちの願いはかなってしもうた」
地表を川が流れるようになり、日照りの年もなく、村は潤った。必然、孕み腹を囲うこともなくなったが、かつてそうした風習があったことを話すのは禁忌とされた。若い者など、昔の苦労さえ知りもしないから三郎の問いに答えるすべもない。それほど、かつての話は風化していた。
年寄りは年寄りで、口が重い。
それで三郎は刀にものをいわせ、ようよう聞き出したのだ――孕み腹の女を食い殺した鬼がいた、と。
「酷い話よのう」
そういって、三郎は腰にくくっていた酒瓶を置いた。
「沈んでいるのは子どもが多いのだから、酒は好かんかもしれんがな。神になっているなら、喜ぶだろう」
粗末な盃を懐から取り出すと、酒を注いでいく。その盃を持ち上げると、しゃっ、と滝壺へ撒いた。
たちまち、馥郁たる香りがただよい、木漏れ日も明るさを増したようであった。
「祟るでないぞ。すべて忘れろ。六道輪廻の輪に戻れ。そうして浄土を目指すのだ。浄土は美しいぞ、御仏の慈悲で満ち溢れ、暑さ寒さも病もなく、飢え餓えることもない。さあ行け、御仏の照らす慈悲の糸を辿るがよい」
さわさわと風が吹く。黄金の光の筋が滝壺にさし、あたりは光に満ちた。
ふと、鬼が口を開いた。
「……子どもばかりではない。姉様も、ここに沈められた」
ああ、と三郎はうなずき、さらに盃を並べて酒を注いだ。ひとつを手にとり、口をつける。喉を鳴らして、たちまち飲み干した。
「おぬしも一杯やるといい。供養になる」
「姉様は白拍子だった。このような鄙には似合わぬ教養と芸があった。どこぞのお大尽に内密に招かれたとかで、旅をしていたそうな」
「おぬしも一座の者だったのか」
「違う。妾は麓の村で盗みをして逃げてきた孤児だ。逃げたつもりが、ここに囚われた」
そして虜囚となった場所で、彼女は美しい白拍子と出会ったのだ。ともに暮らす内に、姉様と呼び慕うようになった。
「姉様は妾に文字を教えてくださった。外の世界のことも。都のことも。身体が弱いせいか、子を孕むことは少なかった――早い時期に流れてしまったのだろう。手荒く扱われていたゆえな」
「おぬしも……?」
三郎の問いに、鬼はほそく眼を開いた。
「妾はたくさん生んだ。頑丈だったのだ。なのに誰も救えなかったと気づいたときには――これからも誰も救わぬだろうと思ったときには、死にとうなった。実際、妾は死んだはずなのだ。神仏の加護あって異形を晒しながら生き延びているが、むしろその慈悲を呪いたい」
「では、ここでは呪っているのか」
「そうだが――姉様の最後の子の無事を祈ってもいる」
4
鬼が姉様と慕う白拍子は、産褥で命を落としたらしい。
「その命の炎が尽きる直前まで、姉様は祈ってらした。どうかこの子だけは、この子だけは無事で……と。それゆえ、妾は三郎も死産であったと偽った」
「三郎?」
「姉様の、三番目の男子であったゆえな」
太郎と次郎の行方は説明するまでもないであろ、と鬼は投げやりにいった。
「そなたとて、どこぞの家の三番目であろ。一番と二番は息災にしておるゆえ、旅に出ることも許される」
「ああ、そうだな」
「姉様の三郎を、妾は籠に詰めた。監視の目は緩かった。男衆は出産の穢れを嫌って近寄らなかったが……姉様が息を引き取った知らせたら、女衆が来てすぐに姉様を運び出してしまった。産む方のお役目が果たせぬのなら、滝神様をその身体で鎮めればよいとか……申してな」
三郎のことがなければ、あの者どもを八つ裂きにしていただろう。そうつぶやく鬼に、三郎は労いの言葉をかけた。
「赤子のために、自重したのだな」
「そうだ。姉様は、生まれる前から児は男の子だと知っておった。夢でみたというのだ。妾らがこのような境遇に身を落とさざるを得なかったのは、水がたりなかったからだけれど、この子は水神のご加護をいただいた。きっと、こんなことを終わりにしてくれる――そう信じて祈る姉様に、懇願された。自分は子を産むので精一杯だ、三郎をたのむ、と。だから三郎を、妾はどうしても救わねばならなかった。姉様の命懸けの願いに応えなければ、生きてきた甲斐がない。幸い、三郎は泣かない赤子だった。息はしていたが、自分が置かれた境遇がわかっているかのように静かだった。妾は三郎が入った籠を抱き、外に出た。遠巻きに見張っていた男衆には、三郎も滝壺へとか、滝神様に捧げねばとか、思ってもいないことを告げたものよ」
だが、と鬼はつづけた。
「やつらがそれを聞いていたかは知らぬ。そのとき妾はもう、この姿になっておった」
「では、鬼が女を食い殺したのではなかったのか」
どうだろうな、と鬼はつぶやいた――人であった妾は食い殺されたのやも知れぬ、と。
「とまれかくまれ、妾は鬼の身体を手に入れた。それまでは心の眼であり耳であり、想うばかりの手であったが、現し身となったのだ。見張りの男が腰を抜かしてようやく、おのれが異形と化したことに気づいたが、だからなんだと思った。これだけ眼が、耳があれば、子を攫いに来る村人たちに気づけたはずだった。これだけ多くの腕があれば、子らを引き止めることも、抱いて守ることもできただろう。だが、もはや手元に残ったのは三郎のみだ」
「その三郎は、どうした」
「無論、滝壺に投げ入れたりはせぬ。麓の村まで夜を走り、寺の門前に置いてきた。三郎という名のみ、産衣に縫い取ってな……姉様が途中まで刺したものを妾が引き継いだゆえ、少々不恰好ではあったが。読めはしただろう」
「それきり、会うてはおらぬのか」
「斯様な浅ましい鬼の姿を、あの子の美しい眼には映したくない」
「違う」
三郎は、きっぱりと否定した。
「なにが違う」
「おぬしは浅ましいのではない。勇ましいのだ。鬼の姿を得たと知る前に、赤子を救う手立てを考えた。村人に事実が漏れれば、命まではとられずとも大いに痛めつけられたであろう。それでも、子を救おうとした。それを勇ましいといわずして、なにが勇気ぞ」
鬼は、はっとしたように若武者を見た。
語気を強めて、三郎はつづける。
「当然だろう。身を捨てて子を救おうとしたからこそ、神仏の加護を得たに違いない。死ぬに死ねぬというならば、こんなところに隠れておらず、これからも子を救えばよいではないか。子らの守り神となれ」
おのれの子を養うために他者を害していた鬼が、御仏に諭されて子らの守護神となったと仄聞したことがある。
三郎は、目の前の鬼にもその道があるのではないかと思った。だからこそ、こうして生かされているのではないか、と。それが御仏か神か、この鬼を守っている力の意志ではないのか。
だが、鬼は頭をふった。
「妾はもう疲れた。この手が救えなかった我が子らを思えば、母である妾のみが生き延びている浅ましさが際立つ。見知らぬ誰ぞの子を救おうと立ち上がる力もない。妾は仏にも神にもなれぬ。己のことしか考えられぬ。復讐すら、今の妾には重荷でしかない。村の者たちのことは、もうなんとも思わぬ――ただ、子らが恋しい」
5
「わかった」
そういって、三郎はまた盃に酒を注いだ。その酒盃を持って立ち上がると、鬼の背後に立つ。
後頭部にある面が、三郎を見た。
「おぬしは、人に戻れ。人に戻って、ここで死ね。この出水三郎勝元が見届けよう」
「首を斬ってくれるのか」
そなたに斬れるのかといわんばかりの鬼の様子に、三郎は頭をふった。
「人に戻れ」
さっ、と鬼に酒をかける。
大した量でもないはずだが、たちまち上天より光がさし、あたりは虹の光輝に包まれた。
「未練を断て」
重々しい声は三郎のものであって、そうではなかった。
「其の方の異形は子らを救うために与えしもの。つとめを果たす気もないのであれば、縋ることも惜しむことも許されぬ。ただ失え」
ああ、と鬼が声を漏らした。
七面のすべてから聞こえたその声は、どこか笙の響きに似ている。
雅やかな楽の音に似た音声の中、ほろり、と腕が落ちた。ほろり、ほろり。四本めの腕が落ちたと思えば、今度は面が落ちはじめた。
「ああ」
鬼が呻く。
三郎が唱える。
「御仏よ、この者を導きたまえ」
面のひとつひとつが、地蔵菩薩の姿に転じる。思い思いに合掌し、蓮華を持ち、錫杖を携え、香炉を捧げ、数珠を鳴らし、宝珠を掲げ。
あたりは蓮の香りに包まれたかと思えば、灼熱の地獄の炎に。あるいは欲望のまま鉤爪を突き立てる餓鬼の群れに覆われたかと思えば、たちまち晴天の平穏に覆われた。
景色がどう変わろうと、鬼と菩薩は黄金の糸で結ばれたままだった。菩薩が動けば糸が絡まり、編み上げられて、丈夫な綱となる。
「成仏せよ」
鬼は潤んだ瞳で三郎を見た。
そこにいるのは、痩せ衰えたひとりの少女に過ぎなかった。美しい瓔珞だったものは、彼女の首にかけられた綱に変じていた。
「三郎は……三郎は無事であろうか。妾が祈らずとも、健勝であろうか」
「出水の家を興したのは、祖父様だ。名は三郎といった」
「三郎……」
「捨子であった。寺の門で拾われ、よく修行したが、戦で寺が焼かれたのに絶望して仏道を捨て、落ちいてた刀を拾って武者を名告った。戦乱の世のことゆえ、出自は問われなかった。殿様に仕えてよくはたらき、出水の姓を賜った――祖父様が掘れば、荒れ果て乾いた戦地にも、必ずや清水が溢れたゆえな――それが出水の姓の由縁よ」
鬼だったものは、眼をみはった。その眦から、涙がこぼれる。
「三郎は……無事なのか」
「祖父様は、疾に亡くなった。畳の上で、大往生だったぞ。儂も看取った」
「……幸せだったのか」
「さあな。祖父様がなにを思ったのかなど、儂が知る由もない。だが戦乱の世に家を興し、殿様の覚えも目出度く、子や孫に囲まれて死ねたのだ。上出来であろう」
声もなく、鬼はうなずいた。
「不幸があったとすれば、親がいなかったことくらいだろう。あの世ですれ違うことがあれば、かき抱いて頭を撫でてやれ。よくぞ生き抜いたと褒めてやれ。生まれ変わることができたなら、今度は子の手を離すなよ。そのくらいの未練、只人ならば許されるであろう」
三郎は慈悲深い仏のような笑みを浮かべ、両手を合わせた。
あたりに満ちていた光は消え、彼の足元には風雨に晒された髑髏が転がっているのみであった。
* * *
山中深くに、轟々と音をたてる滝がある。
滝壺の近くには、水神を祀る小さな社。地元の者はこれを「いずみ様」と呼び、年に一度、御神酒を捧げる秘祭が催される。
滝の傍の大きな岩には、古びて輪郭もさだかならぬ仏が彫られている。多面のようだが、数えるには一部が欠けてしまっている。腕は三対、それぞれの手に楽器を携え、優美な腰つきで舞っているようにも見えた。
だがその仏の名も由来も、今に伝わるものはない。
初出 pixivFANBOX
https://usagiya.fanbox.cc/posts/11279924




