避暑地の優雅な住民
日本では昭和の後半から平成へと平和な時代が訪れ、昭和の戦争の時代を経験した人たちは少なくなり、令和の時代となっていた。首都圏を中心に都市への人口と産業の集中が進み、ここ数年は地球温暖化の影響で、初夏より猛暑が続く平地では普通の暮らしにも影響が出るような状況となっている。この物語の中心地はそんな猛暑から逃れてくる人が多い日本有数の避暑地『信濃沢』だった。
避暑地であり観光地でもある信濃沢の夏は、七月には一つのピークを迎え、ゴルフや自然を楽しみに来る人達を惹きつける。そして、八月には猛暑からの文字通り“避暑”のために多くの人々で最高潮に達する。“旧信濃沢銀座通り”は東京の繁華街のように大勢の観光客でいつも溢れ返っている。駅の反対側の“信濃沢キング・ショッピングプラザ”も年々増床を続け、広大な敷地に数多くの人気店舗を有し、家族連れやカップルを中心に賑わっている。キンググループは駅周辺に幾つもの宿泊施設を保有しており、春夏秋は広大なゴルフ場がゴルフ客を受け入れ、冬は駅前に広がるスキーを楽しむ客を迎え入れ続けている。正に日本を代表する避暑地であり、一大リゾート地を形成している。その周辺は言わずと知れた信濃沢の高級別荘地であり、古くから別荘地として知られ、特に旧信濃沢エリアはその歴史とブランド力から非常に高い地価でも有名である。そのように人気を維持している理由は、気候が涼しく自然が豊かで、お洒落な店も多く、生活するのに必要な施設も整っていて、交通利便性も良いと言う多角的な魅力が共存しているからだ。また、コロナ禍以降、密を避けるために別荘を購入する人が増えたことと、年々過酷になる地球温暖化による猛暑からの逃避もあり、益々その存在価値を高めているようである。
ただし、信濃沢に別荘を建てる際には、昭和四十七年に制定された「信濃沢町の自然保護対策要綱」や、それに付随する土地利用の条例などによる非常に厳しい制約が課される。これにより無秩序な開発が抑制されており、この徹底した景観維持こそが、他の地域との圧倒的なブランド力の差を生んでいる。
一方、人気観光地ゆえの課題も抱えている。代表的なのが、観光客の急増が住民生活を脅かす『オーバーツーリズム』の問題だ。特に旧信濃沢周辺の主要幹線や浅間山麓の“月野エリア”では、深刻な交通渋滞が常態化しており、ゴミや騒音問題とともに地域住民の大きな負担となっている。
その一方で、町の人口動態には新たな兆しが見える。かつての『富裕層の避暑地』という固定観念を越え、近年は『都心から少し離れた郊外の住宅地』という認識が若い世代を中心に広がっている。新幹線や高速道路の利便性に加え、コロナ禍以降のリモートワークの浸透が、現役世代の移住を後押しした形だ。
この地域も少子高齢化による人口減少が危惧されていたが、現在は幼小中一貫校やインターナショナルスクールの新設、充実した幼児教育施設に惹かれ、先進的な教育を求める若い家族の流入が増えている。しかし、こうした急速な変化に対して、古くからの住民の中には戸惑いを感じる者も少なくない。多世代間の交流と協調を図り、共通の財産である豊かな自然環境と調和しながら、いかにこの貴重な地域を次世代へ引き継いでいくか。それこそが、現在の信濃沢が向き合うべき最大の課題といえるだろう。
ちなみにこの物語のこれまでの主要な登場人物である肥後丈一郎が住んでいる北浅間村は、この信濃沢とは浅間山を隔てた北側にある。その丈一郎の古くからの友人の西川雄一は、信濃沢の別荘地の一角に別荘を持っており、『自然保護対策要綱』に従って三百坪以上はある土地に、二階建ての洋風な雰囲気を持つ木造家屋に住んでいる。近隣の家の建物は木々の間にやっと見えるような状態で、隣人とも挨拶程度はしているが、隣の家で何かがあってもおそらくわからないであろう。むしろ、犬の散歩で知り合った人達の方が顔見知りになることが多いようだ。
その西川が愛犬の散歩で知りあった中に高倉裕とその妻佐苗がいる。西川の愛犬は二匹で、一匹が五歳の柴犬で、もう一匹が四歳のプードルだ。それぞれ成犬ではあるが、飼い主に言わせると柴犬の方はまだ子犬のようで、躾に失敗したそうだ。一方、高倉裕と妻佐苗が大事にしている犬は二匹のシェットランド・シープドッグで、兄弟ともに六歳でかなり躾が良いそうだ。散歩の途中で出会うと、西川の愛犬のうち柴犬はすぐにシェットランドに絡みついて行くそうで、シェットランド二匹は鷹揚に相手をしてくれるそうだ。プードルの方はゆっくりと近づき立ち止まり、シェットランドの方から匂いを嗅いだり近寄ってくるそうだ。その間、双方共に妻同士は世間話や美味しい料理の話しをして情報を交換するようで、夫同士は共通の趣味のゴルフの話しや町の動向に関する話がメインで、たまに家族の話になると妻達を交えて談笑となるようだ。
西川雄一は大学卒業後、大手通信会社に就職し、三十代後半からは二十年以上海外での単身赴任を続けた。結果として安定成長を続けたその会社で業務部系の役員となったが、家族との時間を持てなかった事を後悔し、定年前にまだ出世の可能性があったにもかかわらず退社し、妻の希望で信濃沢に別荘を建てそこに拠点を移した。
そして、今回の物語の重要な立場で、被害者にもなる高倉裕についてだが、彼は子供の頃からクラスの中でリーダー役を買って出るほどに積極的な性格で、成績も良くスポーツも出来る特に目立つ存在だった。高校は地元信濃の進学校に通い、大学は東京の外国人の多いことでも有名な私立大学に合格したのだった。前向きな性格とは裏腹に人を押しのけてまで出世を望むタイプではなく、自分の責任で行える事を好んだ。そして、就職時にも大手企業を目指さずに当時のバブル前の状況には一線を画すような地味な製造業に就職した。すぐに起業をするつもりでいたらしく、上司には密かに二十五歳で独立することを伝えていたほどだ。上司は無論、優秀な高倉を慰留したが、丁寧に断られ彼は起業することとなった。
高倉は資金がなくても起業できるシステム開発の会社を知人たち三人で立ち上げ、幸いにもコストパフォーマンスの良い彼らの会社は、すぐに案件を幾つか獲得し、順調に事業を伸ばしていった。最初は東京の下町と呼ばれる地区で起業し、自らのアパートで共同生活をしながらの運営であったが、それ以上の成長のためには事業所を構える必要があったので、思い切って東京のど真ん中の渋谷に狭いながらもオフィスを構えた。オフィスと言っても中古マンションの一室であったが、住居とは別にオフィスを持つ意義は大きく、家賃を払うためにより大きな案件や、より難易度の高い案件へのチャレンジを続けた事によって、少しずつ知名度も上がってきた。起業から三年の月日が過ぎていたが、新たなメンバーを増やす必要もあり、良い物件を探していた。そんな時、同じ渋谷の中でソフトウエア開発企業を誘致するプロジェクトがあり応募した。論文と面接の結果は合格で、受付こそ各社共同であったが、これまでとは比較できないほどの広さのオフィスに入居することが出来た。費用的には全く問題がないほどの安価で、融資に関する支援も得られるようになり、彼は一気に事業拡大を目指した。そんな時に技術の責任者とするべく弟の賢司を会社に招き入れたのだ。その後、バブルの崩壊やリーマンショックや、様々な企業や産業の統廃合の中を生き抜き、高倉裕の会社は日本でも有数のIT企業となり、地上8階建ての自社ビルを渋谷に構える “次の時代を作る人達を本気で支える会社” 『ABDシステム株式会社』となった。
しかし、彼は還暦を迎える時に、長年苦楽を共にして事業を立ち上げ成長させてきた、戦友とも言える弟に、将来は息子達や若い世代に次を任せることを前提に事業の経営権を譲った。弟の賢司は兄裕とは異なり、技術に強い関心と強みを持った根っからの技術屋で、学生の頃からシステム作りを趣味にしているほどだった。暇であろうとなかろうと、常にパソコンに向いプログラム開発をして、他のモジュールや機器と連携させて、ロボットを製作するのが好きで、兄の会社に転職する前には工業ロボットの世界的に有名な企業で働いていた。いずれは兄の設立した会社にジョインする予定でいたが、兄からの強い要請を受けて予定よりも早く二十五歳で転職した。創業者である兄裕は弟賢司の頭脳と一途に仕事に取り組む性格を幼少の頃から認めており、彼となら新たな市場開拓が出来ると確信していた。兄弟は自社の技術力を高めるとともに裕が進める先進的なプロジェクトに会社の総力を注いでいった。その力の源泉はいつも弟賢司の先見の明のある技術力であった。兄裕の交渉力と弟賢司の進める技術力が、彼らの企業の競争力を高め、十年後にはなんとか株式公開にこぎ着けた。社員はストックオプションの恩恵を受け、首都圏での自宅の購入やローンの返済に活用した。そして、常に賢司の発想を現実的なタスクとして実行し、彼らの会社への大きく貢献したのは、長く事業推進を共にした木下良三と坂元徹の二人だった。
木下は高倉賢司の大学の後輩で、賢司ほどの奇抜な発想は出来ないが実際のプロジェクトや案件を具現化し成功に導いた。賢司が社長になった後にCTO(技術責任者)を務め、高倉家の裕の次男の玲二の才能と野心を次の時代の推進力と見込んでいた。
一方、積極経営で危うさを抱えた裕と賢司の会社を支えたのが、経理・財務担当の坂元徹だった。創業者の裕に信頼され経理や財務一般を任されて、積極性一辺倒の会社の資金調達や健全経営を支えた。時には融資を受ける銀行に直接交渉をして多額の融資を取り付けたり、株式上場の際には投資家向けの魅力的な情報提供を続け、豊富な資金を手に入れて、裕と賢司の夢の実現を支え続けた。
高倉裕の妻佐苗は、夫を支え子供三人(颯太、遙香、玲二)を育てた良妻賢母だが、前述の通り生い立ちは順風ではなく、シングルマザーの実母と二人での貧しい暮らしをしていたが、アルバイトで学費を稼ぎ、有名私立大学の理工学部を卒業し高倉が創業した会社に就職した。彼女の志望動機は夫となる裕と共同経営者の賢司の掲げる“次の時代を作る人達を本気で支える会社”というビジョンに共感し、入社後システムエンジニアとしてすぐに実績を出し、その実績に驚く高倉に目を掛けられるようになり、複数のプロジェクトでさらに実績を出した。そのプロジェクトの打ち上げで高倉と意気投合し、交際を始め数ヶ月後には結婚を約束し、社員全員が見守る中で結婚式を挙げた。
結婚後、佐苗はすぐに妊娠し仕事を辞めて家事と育児に奔走することとなる。長男が生まれ、長女、次男と子宝に恵まれ三人の子供を産み、健康に育てあげ、幸せな結婚生活を送っていた。二十年近く母と暮らした東信濃町からも近い信濃沢の別荘地に、今から十年以上前に夫裕と相談し、母良子の住宅兼家族の別荘を建てて、母を住まわせた。母はあまりの豪邸に驚き最初は拒否したが、娘とその夫の家族が頻繁に訪れる別荘での暮らしにだんだん慣れていった。佐苗は夫の休暇が取れると決まって別荘を訪れ、母と愛犬とを連れて近隣の森林を散歩する事が何より好きで、母も《《過去のある重大な出来事》》を娘に伝えられずに年老いていった。その出来事が今回大きな事件を誘発するとは思ってもみなかった。
さて、高倉裕の弟賢司は、前述の通り兄の起業した会社に技術の専門家として兄に請われて入社したが、自らの技術を追い求める姿勢と努力に良い、IT事業の推進を会社の中心になって推し進めてきた。兄の引退に伴い経営権を譲られる相談を受けた際には、彼自身も自分には向いていないと固辞した。しかし、会社の経理や財務を支える役員の坂元徹や技術部長で彼の後輩である木下良三へも兄裕が根回しを進めており、彼らが賢司の社長就任を勧めたので、賢司もやっとその気になったようだ。そして兄から、
「賢司、営業は長男颯太を俺が指導したのでもう大丈夫だが、技術の分野を木下君と一緒に次男玲二が一人前になるように指導をしてくれ。財務や経理は坂元君が押さえているので、もう一度技術で他社を圧倒する会社にして欲しい。やってくれるよな!」と念押しされたのだ。そして、賢司は会社の経営権を兄から譲り受けた。
裕が経営権を弟賢司に譲った後、コロナ渦が会社の経営に打撃を与えた。主力のIT事業そのものには余り影響はなかったが、ITを活用した介護や健康サービス事業は大きな打撃を受けた。介護事業では人材を確保できずに、幾つかの介護施設は存亡の危機を迎え、健康サービスの一環として経営するスポーツジムには会員が通えず契約解除が相次いだ。経営者である賢司は技術的な観点から魅力のないこの二つの事業からの撤退を検討し、売却先との交渉をするように経理・財務の担当重役である坂元に依頼した。しかし、坂元と営業責任者となっていた高倉颯太は社長である賢司の方針に反対し、颯太は
「こんな時こそ、弱い立場の要介護者や健康維持を必要としている高齢者を支えるべきだと思います。」と主張した。坂元も
「私も颯太君の意見に賛成です。『”次の時代を作る人達を本気で支える”』というビジョンに反するようなことはするべきではないと思います。」と反対意見を述べた。賢司は二人の剣幕に一瞬たじろいだが、同席していた技術責任者の木下は社長の賢治の手前、
「我が社は技術が支えてきた会社で、技術的に魅力のない事業に固執するのは社是とも反する」と珍しく二人の意見を否定するだけではなく、
「社長、この問題は重要な経営課題です。緊急に経営会議を開きお互いの主張を堂々と主張し、徹底的に議論した上で方針をはっきりさせませんか?」と緊急の経営会議の召集要請をするようなこともあった。このような対立は裕が社長の時代にはあまりなく、人間関係的には危うい部分もあるが、企業としてのレベルアップには必要なことかもしれない。ただ、技術と事業経営あるいは営業戦略に関する不協和音は、彼らのようなTOP層だけではなく、いろんな場面で現れていた。
技術責任者の木下良三と経理の坂元徹は会社を支えてきた功労者であったが、前社長の辞任により彼らのパワーバランスが崩れてきたのだ。
木下良三は、高倉賢司の大学の後輩で、賢司に誘われて裕の会社に入社した。賢司ほどの奇抜な発想は出来ないが、実際のプロジェクトや案件を約束した予算と期限の中で具現化しことごとく成功に導いた。会社の中でも賢司の後継者と目されていて、賢司が社長になった後に実際にCTO(技術最高責任者)を務めた。ただ、普段から技術に関すること以外の発言は控えめで、人間関係に関する調整事は大の苦手であった。
その、人間関係の調整役は坂元徹だった。彼は高倉裕の高校時代からの友人で公認会計士の資格も持っている。裕に強く誘われて彼の会社に加わったが、入社後も信頼され経理や財務および総務全般を任されて、積極性一辺倒の会社の資金調達や健全経営を支えた。性格的にも明るく積極的な社長裕と寡黙で技術一辺倒の賢司とは異なり、温和には見えるが冷徹な面もあり、底が知れない部分を持っていた。ただ、技術部の木下良三とはビジネスマインドに共通性があり、大事な案件の推進では良く協業して難問をクリアしてきた。坂元はそのように会社の発展に貢献したことに強い自負をもっており、いずれは自分が経営の舵取りをする事に強い執着もあった。そのような仕事でのストレス発散なのか、夜の繁華街には人一倍詳しく、各地に多くの知人友人がいるようだ。正に清濁併せ飲むタイプで、少しダークな知り合いの一人に、出張で良く訪問する信濃市の居酒屋『紫亭』の店長の山田哲夫がいる。山田は表向きは地域の商店会を束ねる副会長を務めているが、大のギャンブル好きで、裏世界にも繋がる連中との付き合いもあった。
ABDシステムは信濃市に本社があるグローバル展開をしているある大手企業と過去から大きな取引をしており、業務請負で自社の社員を常駐させていて、総務・人事の総責任者の立場で年に数回は訪れている。山田の店は坂元のような有名企業の役員にとっては少々荒っぽい感じの店なのだが、坂元はそういう雰囲気が好きなようで、信濃市に出張の際には坂元はこの店を良く訪れ、山田とも顔なじみとなっていた。彼はカウンターに座って店長の山田と話をしながら、日本酒を飲むのが定番となっていた。そして、坂元が初夏のある日にいつものようにカウンターの端で、何気なく耳にした驚くべき話を、同じ会社のある後輩に意図的に漏らしたことから、良くない連鎖が起きることになる。
さて、事件の被害者になる高倉裕の家族の話に戻りたい。
高倉颯太は高倉裕の長男で私立大学出身で経営学を専攻し、年長者からも信頼厚い好青年だ。幼少期から父から薫陶を受けており、いずれ事業を引き継ぐ事を自らも自覚していたが、世界中で起こっている事象にも興味があり、グローバルな世界での活躍を夢見ていた。大学を卒業し就職する際にも、一度は商社に就職し自分の世界を広げる事を父に相談するが、父から父の会社の中でそれを実現すれば良いと一蹴される。父裕としては、多くの人材が育ちつつある自社の中で、長男颯太の位置づけを確実な者にすることの方を優先したかったようだ。颯太の方は技術を中心に据えている会社の方針に疑問を持っており、技術を核にしつつもその先の事業展開を見据えたビジョンを持つべきだとの持論を持っており、若くして営業部門を統括する役割に付いたが、父から経営を引き継いだ叔父の賢司とは意見が合わないことが多い。父の盟友の一人である坂元徹に経営に関する不安を感じて相談し、さらに父裕に相談するも、叔父の賢司を立てて今は余計な事はしないように厳命をうけてしまう。
「颯太、私は賢司に技術分野での進化と確固たる他社との差別化を託した。これを数年掛けて実現し、その先に多角化を含めたグローバルでの事業展開があると思っている。だから、今は足場を固めて、やたら外に興味を広げずに、既存のお客様との関係を大事にして、技術を磨くことに注力するべきだと思っている。だから、叔父さんの方針に沿って皆で力を合わせるべきだ!」と父裕に説得され、颯太も従わざるを得ないと感じた。
プライベートでは颯太は学生時代から付き合っていた鈴木楓と二十七歳で結婚し、二十九歳で長男が誕生し幸せな生活を送っている。性格的には有名企業の跡取りとして育てられた事もあり、おっとりとした部分も多く、特に母に対しては『マザコン』ではないが、何事にも母親優先の性質が、時には妻とのいざこざもあるようだ。妹と弟からもそんな所を指摘されることもある。
颯太の妹の高倉遙香は、裕と佐苗の長女で大学卒業後にアパレル企業にデザイナーとして就職するが、雑務の多さと社内の人付き合いに愛想を尽かし、実家に戻り次の仕事を模索している。かなり奔放な性格でデザイナー時代から多くの友人がいて、アパレル企業を退社後にさらに多くの知己を得て、業界人が集まりビジネスやイベントの相談をしたり、交友関係を生かせるようなコミュニケーションの場作りのニーズがあることを知り、その具現化を目指している。まさに良いとこのお嬢様状態とも言える。
颯太と遙香の下の末っ子の高倉玲二は、父や兄と姉とは違い叔父の賢司に似たタイプで、技術に関する指向が強く今最も注目されている人工知能AIに関する興味が強く、大学でも研究室に入り博士号を取得するか思われていたが、あっさり四年で卒業し父の経営するABDシステムに就職した。既存のシステムをAI活用に置き換えることで、大幅な機能拡張とコスト削減につながることを実際の運営されているシステム実践することで、業界での地位を確固たる者に出来ると考えていたのだ。これは大学の研究室では出来ないと考えたようで、技術オンリーの思考ではなく、実際の実務の中での展開に意義を感じていたのだ。玲二は入社するとすぐに賢司の部下の木下良三の基で、様々な基本的な技術を取り巻く実務的な知識を得た後に、既存システムのAI活用のプロジェクトに入り、次第にリーダーとして認めらた。二十六歳で技術課長、三十歳で技術部長に抜擢された。兄颯太はその頃営業本部長の任に付いており、兄弟での出世争いも社内で話題になるほどだった。ただ、一部の近しい人からは、「ちょっと、宇宙人的なところがあるよな」との印象もあるようだった。
そして、玲二は彼と同じようにAIの活用の専門家で同じ大学の後輩であった染谷寛二を、彼が任されたプロジェクトの推進役としてヘッドハンティングする事を上司の木下に提案した。木下はすぐに他社にいた染谷に接触し、無事に採用することとなった。ABDシステムにジョインした染谷は、玲二と組んでプロジェクトを推進した。二人は寝る間も惜しんでこのプロジェクトを進め、成功に導いた。当時は裕が社長で、染谷を新設した商品開発室の室長補佐に彼を抜擢した。そして、社長が賢司に交代した際に、商品開発室長に昇進した。三十歳の若さであった。社内では、玲二のライバルとも見做されていたが、当の二人は休日も会社でAIに関する研究を共にするほどの仲で、社内のそんな噂には全く興味がないようだった。
しかし、染谷は玲二の兄の颯太とは合わないようで、こんな事があった。営業本部主催の新商品アイデア検討会の際に、颯太が提案する既存企業との取引拡大につながる商品開発案に対して、
「そんな、将来性のないターゲットに対して力を注ぐのはいかがなものか?」と痛烈な批判をしたのだ。さすがにおっとりした性格の颯太もむっとしたらしく、
「将来性がないと断言しているようだが、その根拠は?」と尋ねられると、
「技術的にその分野はある程度先行きが見えており、投資する価値がないことは業界では常識となっている」とさらに断言するので、颯太も負けじと
「君が言う業界とは何だ。AI業界のことか?」と目つきを厳しくして質問すると、
「AI業界と言う既成の枠はないけど、まあ、そう言っても良いと思いますよ」この発言に颯太はすかさず、
「技術や研究対象としては余り面白くなくても、対象の業界は裾野が広く、ビジネス性は大いにあると思うがそれについての君の意見は?」と尋ねると、今度は染谷がむっとしたらしく、
「私の役割はマーケティングではないので、それは分らない。技術的な見解を述べたまでです」と言い、天井を向いてしまった。その場に同席した木下は、思わぬ展開にやや動揺して
「二人の主張はそれぞれ的を得ていると私は思います。営業本部長の立場と商品開発室の役割については、今更ですが検討の余地があると言うことがよく分かりました。一旦この議題は私に預からせて頂けませんか?」と場の収束に当たったが、颯太は、
「そうですね、そうお願いします」と穏便に終わらそうとしたが、染谷は木下の態度にもあまり納得した様子ではなく、
「はい、お願いします」と不機嫌そうに応え、早々に会議室を退室してしまった。その場にいたメンバーもこの態度には驚き、ひそひそと「あの態度はまずくないか」と話す始末だった。すかさず、木下は颯太に近づき、謝って居る様子だったが、颯太の方はにこやかにいつものおっとりとした様子に戻っていたが、木下はいつかもっと大きくぶつかるような気がしていた。そして、染谷を何とかしないと、彼は暴走しかねないとみていた。しかし、普段から木下は染谷に技術的な将来性を優先した商品開発を指示していたので、染谷はそれに従っただけだった。そして、染谷は颯太を仕事上は『敵』のように感じていて、前社長の息子で現社長の甥であり、いつかは自分は追い出されるだろうと、かなり極端に見切っていた。彼は玲二とは違って人間関係に少し神経質な面があり、いつまでも結構根に持つような部分があった。また、負けず嫌いな性格であるが故に、自分が有利になる手段があれば実行しないといけないとさえ思っていた。その思い込みが大きな歪みとなり、事件を誘発していくとは、この時点では彼以外は誰も予想できなかった。木下はその性質に気づいていたようだが、社内の人間関係の調整が苦手な彼は同じ役員の坂元の相談する事となる。
そんな風にABDシステムの社員がそれぞれの思いと立場でビジネスの世界で奮闘している頃に、信濃沢の高倉家の別荘には雑誌の取材で、ある出版社の男女が訪れていた。平地では初夏にもかかわらず気温が三十度をゆうに超えて暑い日だが、信濃沢はまだ涼しい風が吹き抜ける過ごしやすい日だった。
一人は中肉中背で髪には白髪が交じり顎に髭を蓄え、紺のブレザーにスラックス姿のスマートな印象の中年男で、出版社でビジネス誌の編集長をしている高木昭彦だった。もう一人はショートヘアーで避暑地に似合うサマージャケットを羽織ったフリージャーナリストの坂田直子で、大きくキリッとした瞳と綺麗な鼻筋が印象的な美人だった。二人は先日報道された高倉家を中心にしたテレビ番組と同じスポンサーが、続編のような記事を高木が編集長をしている雑誌に掲載するための取材で訪れていた。掲載は秋を予定しているので事前での取材で、通常編集長自ら取材には来ないがビジネス界の有名社長の別荘訪問でもあり、高倉家の取材は初めてではなく、以前に裕が社長の頃に渋谷本社で面談したこともあったようだ。そして、テレビでも放映された信濃沢の別荘に訪れていなかった事を表の理由にして、別の裏取材も兼ねての訪問だった。
高倉家でも、以前ABDシステムの本社で取材を受けた相手でもあり、有名経済誌の編集長自らの訪問と言うこともあって、それなりの準備をしての受入れだった。




