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エピローグ 五十年前の真実

 坂田直子は自宅で、高倉現社長の記者会見をテレビの生放送で見ながら、この事件の報道を身近に感じつつも、どうしてもしっくりしない感じだった。事件前に信濃沢の高倉家を訪れ、翌週にその高倉家を襲う強盗及び誘拐事件が起きて、その事件後すぐに大石純夫の自死を知り、大石家を訪れ葬式にも参列し、喪主である純夫の息子の太郎から父純夫の冤罪の話を聞いて取材を続けていた。確かに事件としてはABDシステムの坂元の逮捕で、前代未聞の事件は決着したかに思えたが、警察からの発表はないが、純夫の死が浪江と京介の自白につながり、事件の解決につながった事は間違いなさそうだ。大石純夫という真面目な農家の男は事件の加害者となり贖罪しょくざいを続け、幼い頃に離れ離れになった娘の家族に対する事件に、息子の嫁と孫が関与し犯罪に手を染めたことに耐えきれず自死を選んだ。その息子太郎も加害者の家族としての宿命を負い、数十年の時を過ごし、今度は妻と息子が自分の実の妹の家族に対して罪を犯すという、数奇で悲惨な人生に振り回され続けている。直子が知っている大石太郎は真面目で家族思いの男で、その父純夫も同じような真面目で家族思いの人だったという。太郎は父の犯罪の動機や関わり方に疑問を抱いていたが、どうして良いのかわからずにいて、直子は彼から相談を受けたが、彼の疑問に対して救いの手を差し伸ばせずにいる。直子は犯人たちが全員逮捕されたこの状態がこの事件の結末なのだろうか?と疑問を感じており、明日、出版社で編集長の髙木に相談することになっている。彼女が整理した事実と疑問点に関するメモは以下のようになっている。


 <大石純夫の関わった犯罪と関係人物と疑問点>


1935年  大石純夫誕生、大石(旧姓田村)良子誕生

1936年  間中優子誕生

1042年  間中憲造誕生(柳旅人の義理の父)

1950年  柳旅人誕生

1953年  間中楓子誕生(柳旅人と結婚する)

1958年  大石純夫の長男太郎誕生

1960年  高倉裕誕生

1963年  高倉賢司誕生

1965年  高倉(旧姓大石)佐苗誕生

1966年  間中憲造(後に柳旅人の弁護人)と優子が結婚(娘の楓子十三歳)

1968年  信濃市で強盗死傷事件:質屋の老夫婦が襲われ、二人とも死亡

        主犯:大石純夫(三十三歳)は国選弁護人が弁護する

        共犯:柳旅人(十八歳)は間中憲造(二十六歳)*が弁護する

1969年  大石純夫に無期懲役、柳旅人に懲役三年執行猶予五年の判決

        *刑の内容に大きな違いと主犯・共犯の決定要因不明

       大石良子(純夫の妻)が純夫と離婚し娘佐苗を連れて東信濃市に移住

1974年  柳旅人(二十四歳)は間中楓子(二十一歳)と結婚

1990年  高倉(母の旧姓田村)佐苗は高倉裕と結婚しすぐに颯太誕生

1991年  大石太郎と浪江結婚

1992年  大石京介誕生

1995年  大石純夫(五十三歳)が仮釈放され、大石太郎家族と同居


 翌日、久しぶりに出版社に現れた直子は、高木への挨拶もそこそこにメモを渡し、彼がメモに目を通すのをまった。メモに目を通した高木は、幾つか疑問点を感じながら、

「直子!この間中憲造という人が何かの鍵を握っていると言いたいのか?」直子は高木の勘の良さに驚きつつも、

「高木さん、そうなんです。共犯の柳旅人の弁護を担当し、刑を軽くした訳ですけど、この柳旅人は自分の結婚相手の娘の夫になるんです。おかしいでしょう?」

「この柳旅人は、この間の大石純夫の葬式の時に、芳名帳に記載があったと言っていたな」

「ええ、大石太郎も葬儀の際に挨拶をされたのですが、父純夫が漏らした言葉を思い出して、複雑な心境だったようです。父純夫の冤罪の原因は柳旅人だったと疑っているようです。正確に言うと冤罪と言うより、実際の罪にそぐわない重刑だったと言う意味で、本当の主犯は柳旅人だったんでは?と思っているようなんです」高木は

「それは、間中憲造の過剰弁護により旅人と純夫の罪の軽重が入れ替わったということか?少し、大石太郎側に寄りすぎていないか?」と疑わしい気持ちを込めてそう言った。直子は少しむっとした気持ちを抑えながら、

「私は冷静に判断しているつもりです。確かに大石太郎の不幸には同情していますが、大石純夫は主犯として強盗をするような人物では無かったと、近所の人達も言っているんです。高倉家への強盗と誘拐事件の決着はつきそうですが、純夫の死は今も中に浮いているように感じてならないんです」と高木に噛みつきそうな勢いで言うので、高木も

「じゃあ、どうしたいんだ」

「柳旅人と間中憲造への取材の許可を頂きたいんです」と直子が言うと、高木は

「やっぱりなあ・・そこに行くのか。でも、これは簡単じゃないぞ。柳旅人は元受刑者でその義理の父の間中憲造は弁護士だからな」

「柳旅人の息子も弁護士のようです」

「ええ、そうなのか。益々難敵だな。ところで、依頼者は誰だ?」

「一応、大石太郎です。それに、坂元常務に大石佐苗が元受刑者の娘だと話したのは私たちですから、それが犯罪につながったのだとしたら、過去に遡って全部を明らかにするのがジャーナリストとしての筋の通し方ではないですか?」との正論に髙木も同意せざるを得ず、

「そうだな、分った。でも、一人で大丈夫か?」と心配を口にした。

「はい、大丈夫です。この取材は一人の方が良いと思います」

「よし、それじゃあ一週間の時間をやるから、危なそうな場合は自己判断せずに俺に相談する事を条件に許可する。良いな?」

「はい、分りました。有り難うございます」と出張の承認ももらい取材の了解を得た。自腹で一週間の取材はフリーの彼女にとっては金銭的にキツかったので、助かった。


 そして、直子は早速翌日から信濃市に入った。宿は前回同様のビジネスホテルだが、今回はターゲットとゴールの絵姿がある程度見えているので、覚悟は決まっていた。直子がこの地を訪れるのは三度目なので、ある程度土地勘は出来ていた。まず、大石純夫の葬儀でも訪れた大石太郎の家を訪ねた。太郎は在宅していて、直子の訪問には特に驚く様子もなく家に上げてくれた。ただ、相変わらず寡黙でいつものようにうつむき加減で直子に対した。直子が話し出すのをゆっくり待っている姿勢に、直子は言葉を選びながら話した。

「少しは落ち着かれましたか?」と尋ねると、太郎は頷きながら

「どれもこれも、すぐにどうなる事ではないので、ゆっくり片付けていきます」

「そうですか。今日お伺いしたのは、お葬式の際にご相談がおありになるとおっしゃっていた件です」

「はい、そうだと思いました。わざわざ、有り難うございます」太郎は少し頭を整理する時間を取ってから、一気に話し始めた。

「相談というのは父の件なのですが、父が存命中に私は色々と父と事件についても話すことがあって、父はあの犯行には全然乗り気ではなかったと言っていたんです。むしろ、やりたくないと言っていたのに、ズルズルと実行する事になったと言ってました」と寡黙な太郎にしては珍しく饒舌な感じで、しかもかなりの爆弾発言から始まった。

「ええっ、そうなんですか!失礼ですが、残された記事を読むと主犯がお父様だと記載されていますね。実際には違っていたという意味ですか」と直子は自然と早口になるのを押さえながら聞いた。

「父は半ば脅されて犯罪に加担したと言ってました。ただ、現場で犠牲者の女性を突き飛ばしたのは本当で、それが致命傷になったのだったら、自分のせいだとも言ってましたよ」直子は空気が薄くなった気がして、息を吸ってから続けた。

「被害者はもう一人いて、男性の方は壁にぶつかった際に、壁に収納されていた壺が頭を直撃して死亡したと記事にありましたね?」太郎はいつもゆっくりと話すのに、この質問に対しては間髪を入れずに、

「そちらについては、父は良く覚えていないが、もしかしたら女性を突き飛ばした時に、壁にぶつかり座り込んでいた男性に壺が落ちて、直撃したのかもしれないと言ってました。私は、もちろん現場のことは分りませんが、本当かなって思いました。そんな偶然があるのかなって思いました」直子は

「なるほど、つまり二人とも不可抗力で死に至ったと言うことですね」と話の流れを作った。

「はい、父はそう言ってました。それに、父はもともと家に押し入るつもりは無かったと言ってました。まあ、もうすでにこの世にいないのでどうしようもないのですが。ただ、『裏口で見張りだけしてくれ!』と言われてそうしてたのは本当だ!と珍しく強く主張してました」直子は益々空気が薄くなるのを我慢しながら、

「それは、つまり、お父様は主たる犯行をしていないと言う事ですか?」

「ええ、そうだと言ってました。ただ、共犯の人に比べて年上の自分が犯行をさせるべきではなかったので、同罪だと言ってました」これに対して、かなりの違和感を感じつつも、

「同罪ですか?実際には禁固三年と無期懲役の違いがあったのに、同罪だと言うのですか?」と尋ねた。

「父は結果として殺してしまった夫婦への償いを、自分がしないといけないと思ったと言ってました。犯行後にすぐに救急車を呼んで治療をすれば、二人は助かったかもしれないとも言ってました。それをしなかったのは自分の罪だと」

「なるほど、お一人で重刑を受けて、贖罪をするべきだと思ったのですね」

「そうです。本当は心優しい父ですので、そう思ったのだと思います」直子は今度ははっきりと太郎にも気づかれても良いと思い、大きく息を吸って吐いて、次の質問をした。

「今回の事件で、純夫さんにとっては息子のお嫁さんとお孫さんが事件を起こしましたが、それについてはお父様は何とおっしゃっていましたか?」これについても太郎はすぐに

「自分が昔、人をあやめた報いが今になってきたんだと言ってました。自分のせいだとずっと呟いていました。事件を知った後、父は全く何も口にせず、テレビの報道を見ては、自分のせいだと呟いていました。私は父の頭がおかしくなったと感じてました。そして、足が不自由なのに、あの夜、自分で一生懸命納屋まで歩いて行って、死んだのです」と太郎が涙声で話すのを聞いて、直子は涙をこらえることが出来なくなった。純夫は罪を二度も被って、結局自分の命を捧げたのだ。その無念を息子の太郎に託したのではないだろうか?この無念は晴らしてあげないといけないと強く思った。涙声で直子は、

「太郎さん、真実を明らかにしましょう!お父様の無念を晴らしてあげましょうよ」と訴えると、太郎も嗚咽おえつを漏らしながら、

「有り難うございます。父は本当に優しい人で、自分で犯罪を計画したり、実行したり出来る人ではありません。農家として野菜を育て、家族の笑顔だけで全てを我慢し、何でも許してしまう人でした」

 直子は純夫の墓前をお参りした後、決然と歩き出した。


 直子が向かった先は信濃市の郊外の『柳法律事務所』で、間中憲造はとっくに引退しており、祖父の後を継いで弁護士となった柳旅人の息子の信一が同じ場所で事務所を運営していた。直子が事務所を訪ねると、信一は外出中で老婦人が留守番をしていた。冷房が効いた事務所で、汗を拭いながら直子が名刺を出して挨拶し、ある事件の調査をしていると告げると、

「あら、雑誌の取材ですか?事件というとどの事件ですか?」と比較的澄んではっきりとした声で尋ねてきた。直子はひょっとしてこの人は間中憲造の娘で、柳旅人の奥さんとなった楓子では?と思ったが、

「はい、先日信濃沢で起きた強盗傷害と誘拐事件の関係です」とはっきりと言うと、老婦人は

「ああ、あの事件ね。大変な事件でしたね。それで、何故この事務所をお尋ねなんですか?事件とは関係が無いと思いますが」と眉をあからさまにひそめて、迷惑そうに聞き返した。直子はここは突っ込むところではないと考え、

「はい、直接あの事件には関係がありませんが、犯人の関係者がこの近くにお住まいの大石さんの関係者だったということことはご存じですか?」と逆質問をした。

「あら、今度は私が聞かれる番なのかしら?変な展開だけど、いいわ、お答えするわ。大石さんの所の奥さんと息子さんが逮捕されたことでしょう。それに大石さんのお爺さんが自殺なさったことは知っているわ」とすんなり聞きたいことを話してくれた。

「その大石さんのお爺さんに関する事でお聞きしたいことがあって参りました」老婦人はますます嫌そうな顔をしながら、

「大石さんのお爺さんとはもう何十年もお会いしていないけど、何かしら?」と話は拒絶はしなかった。

「失礼ですが、あなたはもしかして柳楓子やなぎふうこさんではないでしょうか?」老婦人はかなり驚いて、

「そうですけど、あなたは警察でもないのに何を知りたいの?」と不満そうな声で聞いてきた。

「実は、大石太郎さんの依頼を受けています。大石純夫さんと柳旅人さんの起こした事件の真相を調べています」楓子は”あからさまに呆れた様子”で、

「あんな昔の事件の事を調べてどうするの?純夫さんだってとっく釈放されて、もう時効のようになっていて、その上で自分の親族の事件を気に病んで自死したという噂よ。その事と私の主人が五十年以上前に起こした事件と何の関係があるの。それを太郎さんが知りたがっているのは何故なの?」とかなり興奮した声で、早口で尋ねた。

「純夫さんは自分が昔起こした事件が、今回のお嫁さんの浪江さんと孫の京介さんが起こした事件の遠い要因になっていると思ったそうで、その責任を取るために自死なさったそうです。その発端となった事件に関して、太郎さんに()()()()()をお話になったそうで、太郎さんは父の話だけではなく本当の事を知りたがっているのです」

「本当の事実って何よ?」と気色ばんで楓子は直子に詰め寄った。直子はひるみそうになったが、太郎から事実を知りたいと託されているので、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事です」と言い放つと、楓子は左の手のひらで額と白くなった前髪を押さえながら、

「あなた、何の証拠があってそんな言いがかりを付けてくるの?逆に名誉毀損で訴えるわよ」と今度はにらみ返してきた。直子は気圧けおされそうな圧力を感じながらも、

「純夫さんは気が弱く優しい人で、人を傷つけるような事が出来る人ではなくて、仮出所後に何度も息子の太郎さんに、自分で犯行を考えたわけではなく、むしろ、脅されて事件に関与したと告白してるそうなんです。柳旅人さんに」楓子はふうっと息を吹いて、

「だから何?百歩譲って、もしそれが事実だとして、誰かがそれを証明することは出来るの?」とあきれ顔で小さな声で言った。

「いえ、お二人を除いてそれを証明できる人はいません」

「二人って誰よ!」直子は楓子の目をまっすぐに見て、

「あなたのご主人の柳旅人さんとあなたのお父様の間中憲造さんです」と決然と言い切った。楓子は数秒間、直子の目を見返して、少し上を向いた後に、直子の目を見て、

「もう良いわ、警察には連絡しないから出て行って頂戴!」といい、出口を指さした。直子は興奮冷めやらぬように、心臓の鼓動を感じながら、渋々出口のドアに向かって歩いた。ドアの前で振り返り、深々と頭を下げて、ドアを開けて外に出た。少し白みがかった青空のてっぺんに太陽が輝き、直子にめがけて攻撃するように日差しを浴びせてきた。


 直子は準備不足を痛感した。これでは当たって砕けろではないかと後悔した。

 しかし、楓子にとっては衝撃的な直子の訪問であり、長年の触れてはいけない事実に触れたような気もしていた。彼女も信濃沢の事件に大きく動揺し、あの大石家の親族同士の確執が原因なのかとも疑っていた。ABDシステムの現役常務が逮捕されて、なんだ企業内のゴタゴタかと思っていた矢先に、部外者からあの忌まわしい事件を思い出させるような追求を受けて、心の中で様々な事が渦巻き始めた。

「今更、旅人の罪を掘り返してどうなる。裁判を受けて、判決も出て、執行猶予の後は旅人は更生したではないか。時々、悪い癖が出ては楓子に叱られても、父の仕事の邪魔になるようなことはしていない。息子だって祖父の後を継いで、弁護士になったではないか。今更、他人にあれこれ言われる筋合いはないではないか!」と心の中で念じたが、何故か純夫の死だけは彼女の心に大きな陰を落とす気がした。三時を過ぎた頃に息子の柳信一が事務所に戻った。髪には白い物が混じっているが、父母の遺伝らしく整った顔つきの大柄な男で、大粒の汗を手ぬぐいのような大きさのハンカチで拭いながら、

「お母さん、留守番有り難う。何もなかったかい?」と言いながら、自分で冷蔵庫から麦茶をコップに注ぎゴクリと飲んだ。そして、母の浮かぬ顔つきに気がついた。

「あれ、母さん、誰か来たの?」と尋ねると、楓子は

「今日ねえ、こんな人が尋ねてきたのよ」直子の名刺を見せた。名刺にはフリーライターと雑誌記者の肩書きが並べて記述されていた。

「へえ、記者さんが何の用事だったの?」

「今、話題になっている信濃沢の強盗・誘拐事件の件で、関連死と言われている大石純夫さんの過去の事件に関する事を調査しているそうで、お父さんの事件との関わりに関して疑問があるというのよ」

「ええっ、おかしいな。その話は俺が若いときにお爺さんにも確認したよね?お父さんは十歳も年上の男に欺されたんだって」

「ええ、そうよ。でも、大石家ではそうは伝わっていないようで、お父さんの方が主犯じゃないのかって聞かされているようよ。だから、そんな事を証拠もなく言うのなら、こっちが名誉毀損で訴えるわよって言ってやったわ。でも、なんか気になっちゃってね」

「そんなに気になるのなら俺が父さんに確認するよ」息子の信一はそう言って、彼の一家と父母と祖父の地続きの家の居間に向かった。都合良く柳旅人は居間で民放のニュースを見ていた。しかも、あの信濃沢での事件の最新情報として、ABDシステムの常務取締役の坂元が逮捕されたというニュースの続報だった。旅人は信一が帰宅して、居間に入ってきたので「ああ、お帰り」と声をかけてきたが、いつもより元気なさげなのに信一は気がついた。

「ただいま。また、あの事件の続報だね。最後に黒幕が逮捕されたらしいね」と父旅人に普通に話しかけると、旅人は我が事のように肩を落として

「ああ、これで終わると良いんだが」と小声で呟くように囁くので、信一は母が気にしていることを父に思い切って今聞いてみることにした。

「父さん、実は今日事務所に訪問客があったらしい。俺が外出している間、母さんが留守番をしている時に、雑誌の記者が来たんだ」

「ふーん、雑誌記者がね、何の用だろう?」と旅人はやや心配そうな声で尋ねた。

「それが、その記者はこの強盗・誘拐事件に関係する話を取材しているそうで、しかも大石純夫さんの件を中心に調べているらしいんだ」

「ええっ?」

「女の記者なんだけど、大石太郎さんという亡くなった大石純夫さんの息子さんに頼まれているらしいけど、もう何十年も前の純夫さんの事件の真実を調べているそうなんだ」

「ええ、そうなんだ・・」

「なんでも、太郎さんは亡くなったお父さんがあの事件の主犯だったことが今でも信じられないと言っているそうなんだ。自分の妻と息子が事件を起こしたのを悔やんで自殺した純夫さんは、事件を起こすような人ではなかったといっているそうだよ」その言葉に旅人はますます肩を落として、さらに項垂れてしまった。信一は七十五歳になった父に辛いことを言ってしまったことを後悔した。息子である自分の言っていることはつまり、「主犯はあなただったと言ってるそうだよ」と言ってるのに等しいからだ。

 父旅人は遙か昔の事件後、執行猶予期間中もその後も更生した生活を続け、若い頃は工事現場で作業をして、中年以降は現場管理の資格も取って、近所の建設会社で仕事を続けてきた。父の間中憲造は年上の母と再婚したこともあり、旅人とは年は近かったが弁護士で、その父の仕事柄、旅人も真面目に仕事をする事を覚えたようで、昔罪を犯したように見えなかった。しかし、息子の信一は祖父の仕事を嗣ぐために大学の法学部を出て、司法試験に三度挑戦し、見事弁護士となった際に、父の犯罪歴を自分なりに調査したが、特に今回言われているような事実はなかったので、安心して仕事に励んだ経緯がある。

「父さん、ごめんね。変な事をほじくり返したようで、ごめんね」と信一はなだめにかかったが、めっきり年を取り穏やかになった父は、ふいに顔を上げて、

「信一、その記者が言っていることは大体想像がつくよ。あの事件の主犯は俺じゃないかって事だよな。うん、そうだよな。純夫さんは、()()()()()()()()自分で自分の命を絶ったと言う事だよな」と話し出した。信一は断片的な話なので、断定は出来ないが、父旅人は”今度も罪を被った”と言ったのだ。前回もあるのか?と信一が今度は黙り込む番だった。その疑問の壁を突き破ったのは、やはり旅人だった。

「このあいだ、純夫さんのお葬式に行ったときに、昔の記憶が全部蘇ったんだ。俺は無理やりあのことを全て忘れることにしていたんだ。何年も何年もそうすることで、本当に忘れ去っていたんだよ。でも、あの葬式に出て純夫さんの遺影を見た瞬間に思い出したんだ。自分でも忘れていた記憶が!」信一はいつの間にか、父が口から泡を飛ばしながら、鼻水を垂らしながら喚くのを震える思いで聞いていた。そして、脇を見ると母も居間の入り口で固まったように話を聞いていた。旅人は話を続けた。

「あの時は俺が純夫さんを無理矢理誘ったんだ。しかも、見張りだけで良いって言って。でも、盗みに入った質屋の主人と奥さんが物音に気づいて起きてきたんだ。俺は慌てて逃げようとしたら、大きな声で助けを呼ぶので、俺はその辺にあった物を投げつけた。何かで殴りつけてきたからそれを奪って殴り返したけど、何をどうしたかは覚えていない。そうしたら、二人がぐったりして倒れていたんだ。その時に純夫さんが部屋に入ってきて、何かを喚いていて、急に奥さんが純夫さんにしがみついたんで、振りほどいたら後ろに倒れて、また大人しくなったんだ。純夫さんは救急者を呼ぼうと言ったけど、俺が一人で逃げると言ったら、純夫さんも諦めて二人で逃げ出したんだ。その事を全部思い出したんだよ」とまくし立てるように一気に話すので、聞いていた信一と母楓子は驚いて立ち尽くすしかなかった。そこまで話すと旅人は床に転がり子供のように膝を抱えて、すすり泣きを始めた。父のあまりの姿に信一は何も出来ずにいたが、母楓子は子供をあやすように旅人を横抱きにして、

「あなた、分ったわ。分ったわ。ずっと隠してきたのね」と背中や白くなった髪を優しく撫でながら暫くそうしていた。数分後に旅人はようやく落ち着いてきて、

「俺はどうしたら良い?」と誰にともなく呟いた。

 信一と楓子はゆっくりと顔を見合わせて、どちらも答えがないようで暫く彼らも項垂れてしまった。

 信一は、「今更真実を調べることが出来るのか?」「誰の依頼で、ゴールは何だ」と言う疑問に答えを見いだせなかった。

 楓子は、夫から聞かされ、今まで信じ込んでいたことを夫自身からひっくり返されたことで、呆然としていた。

 信一は、もう一人関係者がいることを思い出した。祖父間中憲造だ。祖父ならば答えを持っているかもしれないと一瞬思ったが、このところの憲造は認知症が進行しているらしく、物忘れが激しくなって、昔のことを覚えているとは思えなかった。

 居間で不思議に静かな時間が過ぎて行き、車で買い物に出かけていた信一の妻里子が帰ってきた。薄暗くなった居間で三人が項垂れている姿を見て、ぎょっとした様子で、

「みんな、何しているの?信一さん、どうしたんですか?」と肩を揺り動かしながら少し声を震わて聞いた。信一はハッとして現実に戻り、後の二人の様子を見て、事情を妻に話す必要は感じたが簡単に話せないので、

「ごめん、後でちゃんと話すから」と妻に言って、父と母の肩を揺すりながら、

「父さん、母さん、部屋に戻ろうか?」と話すと、母が父を抱きかかえながら、居間の奥の部屋に戻っていった。妻はそれを見届けてから、信一を責めるような口調で、

「あなた、何があったんですか?」と言い寄った。信一は観念して知ってることを妻に話した。十分ほどの間、里子は微動だにせず信一の話しを聞いた。聞き終わった里子にとっても、知っていることを話しきった信一にとっても、目を背けたくなる事実を知った以上は、正面から向き合わざるを得ない事になった事を自覚した。

「つまり、お義父さんは嘘をついて刑を軽くしてもらい、お爺さんはそれに結果として加担したと言うことね。そして、お義父さんは事件から五十五年たったお葬式に出て、真実を思い出して悔やんでいると言う事ですね」と誰に対してかは分らないが、腹立たしそうに言い放った。そして、信一をまっすぐに見ながら、

「あなたはこの件をどうされるおつもりですか?まさか、再審を請求するとか言わないでくださいよ」

「それは私が請求する立場ではないし、訴える立場でもないけど、事実を知りたいという大石太郎さんの気持ちも分らないではないな」

「でも、それを調べている記者はどうするつもりなのでしょうか?」

「多分、しつこく聞き取りに来るだろう。彼女なりに事実を整理出来る状況になったら、記事にするかもしれない」


 そんな話を信一と里子がしている居間に母が戻ってきた。父は少し落ち着いて部屋で横になっているらしい。楓子は信一に向かって、

「信一、どうしよう。今更、真実が分ってもどうする事も出来ないでしょう?」と静かに幕を引きたがっているようで、信一の妻の里子もこれに同意するように大きく頷いた。しかし、信一は

「純夫さんはこの世にいなくても、息子や娘は生きているのだから、彼らは真実を知る権利はあると思うよ。その上で、彼らがどうしたいかでその先が見えてくるのだと思う。つまり、冤罪に近い事が五十年以上前に起きて、その直接の被害者はこの世にいないけど、名誉を回復するために親族が訴訟を起こすかどうかだと思う。結果として、その事でお爺さんの経歴に傷がついて、俺の仕事がやりにくくなっても仕方が無いよ。法に生きる身としては、事実が正義だからね」と人ごとのようなコメントを諦め口調で述べた。楓子は、

「その息子というのは大石太郎さんよね、でも、娘というのは誰のこと?」

「それは、今回の事件の被害者であるABDシステムの高倉前社長の奥さんの佐苗さんだよ。旧姓が大石佐苗さん」

「そうか、今回の事件の被害者の彼女も元々はあの家に住んでいたのよね。事件で純夫さんが刑務所に入った後に母親と家を出て、どこか違うところで生きていたのよね。きっと辛い思いをしたのでしょうね。そして、今回は親族と会社の身内に襲われたのね。それを聞くと心が痛むわ」里子もようやく全体像が見えてきて、

「大石純夫さんはそんなこんなの色んな事を背負ってあの世に言ったのね」と同情する発言となり、彼らの思いはつながってきて、明日にでも旅人が落ちついたらゆっくり相談して、どうするかを決めることにした。

 そして、翌日朝食を妻と母楓子と一緒に食べた後に、信一は同居している祖父である間中憲造に事件の事を尋ねた。憲造はこの頃はほとんど寝たきりにになっていて、予想通り憲造の受け答えは要領を得ないものであった。「大石純夫さんのことは覚えていますか?」との問いに、

「おおいしすみおさん?うーん、知らないなあ。綺麗な名前だね」そして、

「婆さんだったら知っているかもしれないよ。聞いてごらん」と一昨年に亡くなった祖母に尋ねろというのだ。信一は祖父にはもう何も分らないだろうと確信した。そして、母楓子と一緒に父旅人に食事を持って二人の寝室に行った。父は既に起き上がって、縁側で庭を眺めていた。

「父さん、具合はどう?」と努めて明るい感じで尋ねた。旅人は振り返り、

「ああ、信一。とても良いよ。でも、もう暑くなってきているな。今日も三十五度かな」

「父さん、食事をするかい?」

「うん、そこで食べようかな」と縁側に沿った寝室の脇に設置してある円卓を顎で指した。縁側には日が差していたが、その円卓には朝日が届いておらず、丁度良い明るさであった。穏やかな夏の朝に病人を見舞う風情の家族の様子であった。旅人は昨日の憔悴しきった様子とはうって変わって、年齢を感じさせない食欲で、あっさりと朝食の皿を平らげた。信一は昔から変わらぬ旅人の端正な横顔を見ながらも、これから話すことの重大さを思い、気が重いのを感じていた。旅人はそんな信一の気持ちなど関係なさそうに、お茶を美味しそうに啜りながら、二人に向かって、さりげない雰囲気で、

「純夫さんの事だろう?聞きたいのは」と言うではないか。信一は父の顔つきをじっと見つめながら、覚悟を決めた男の潔ささえ感じていた。

「純夫さんには二人の子供がいたはずだな。長男が太郎で、妹がいて確か佐苗だったと思う」

「ああ、そうだよ。良く覚えているね」

「純夫さんはいつも家族の話を俺にしていたからね。その息子の太郎はいつか俺を刺しに来るのじゃないかと俺は思っていたよ」との過激発言に、信一は、

「まさか、そんな!」

「ほんとさ、あの一家は家族の仲が良くてね。純夫さんはその家族を大事にしていた。太郎は事件の頃には確か中学生か高校生だったと思う」それ以上は話さずとも分かるだろうというつもりか、それで言葉を句切った。

「父さん、その太郎さんが真実を知りたがっている。特に純夫さんが本当に自分で考えて実行し、本当に人を殺めてしまったのかを知りたがっているんだ。それによって純夫さんが自死した理由と背景を明らかにしたいと思っているようだよ」旅人は息子の言葉を体にしみこませるように真剣に聞き、二度ほど大きく頷いてから

「俺が覚えていることを全部話すから、それを太郎さんに伝えてくれても良いよ。ただ、それをするとお爺さんが傷つくかもね。いや、もう何を言っても分らないか。それに、また裁判になるのかな。そうなると俺は刑務所で死ぬのかな。それも、仕方が無いか」と、考えを巡らして自分の発言がどんな事をもたらすのかを大凡理解しているようだった。信一は言葉を選びながら、

「父さん、まずは太郎さんが知りたがっている真実を、整理して伝えてみて、それを知って太郎さんがどう考えるかだよね。協力してくれるかい?」

「ああ、純夫さんへのせめてもの罪滅ばしだからな」といって、旅人は肩を落とした。翌日、信一は事件の経緯と実際に起こった事を一日かけて旅人から聞き取り、文書に正確に記述した。そして、次の日には時系列をいくつかの資料から整理し直した。概ね旅人が涙ながらに話したことと同じで、所々に不明確な所はあったが、事件の概要をほぼ正確に記述出来たと信一は感じていた。実は信一はまだ弁護士に成り立ての頃に、祖父の間中憲造が扱った事案を調べて、この事件のファイルも読み込んでいたのだ。これまで事実と思われていた事と実際には違っていたことが多くあり、倫理観や正義感を揺さぶられる内容であったが、できるだけ感情を交えずに整理した。


 信一は家族でその内容を共有し、太郎に報告するべく例の雑誌記者に連絡をした。 

 直子はまだ信濃市に滞留しており、信一からの連絡を受けるとその数時間後には信一の『柳法律事務所』を訪れた。直子がこの事務所を訪れるのは二度目で、最初は三日前に訪れて、留守番をしていた柳楓子に大石太郎からの依頼を告げて、純夫と旅人が起こした事件の本質は裁判結果とは違うのでは?と疑問を投げかけたのだ。それから、たった二日でその投げかけに対する反応があり、しかも、現役弁護士から呼びかけがあるとは直子も思っていなかった。全面否定の可能性も大いにあるとは思いつつ、事務所のドアを開けた。今回は前回と違い、端正な顔立ちの高身長の中年男性が事務所で待ち構えていた。名刺交換をして、顔を合わせたがそのクールな見た目とは異なる穏やかな雰囲気が伝わってくる印象だった。一方の信一の方も、母の報告から想像した“がつがつ”とした印象ではなく、都会的な雰囲気を纏った美人の登場にやや意外な感じに少し驚いた。直子が口を開いた。

「柳先生、今回はわざわざお声がけを頂きまして、有り難うございます」信一は

「いいえ、こちらこそお呼び立てして、早速にご足労頂いてすみません」と穏やかに会話が始まった。直子が

「私がこちらに伺った理由は、先日お会いしたお母様にお話ししたとおりですが」と、かい摘まんで事情を説明した。信一は直子の話を静かに聞き終えると、

「はい、母から伺っていた通りですので、問題ありません。そのご依頼に添えてるかは分りませんが、父旅人から関係する話を聞いておきました。これがそれを含めて整理したレポートです」と信一は綺麗にホッチキス止めをされたレポートを差し出した。直子はそんなきちんとしたレポートが出てくるとは思わなかったので、驚いてお辞儀をしながら受け取った。

「こんな立派な物を有り難うございます。早速拝見しても宜しいですか?」

「ええ、どうぞ」と言って信一は席を立ち、何かをしに行ったようなので、直子は慎重に目を通し始めた。きっと、太郎の疑問を否定する文言が並んでいると思いきや、ほぼ太郎が想像しているような事が記載されているではないか!七、八分ほどで最初から最後までを読み通し、暴露といえるような内容に、直子は胸が熱くなるほどの感動とドキドキするような衝撃を受けた。ふと気がつくと、目の前に信一が戻ってきており、麦茶らしき物が入ったコップが置いてあった。直子は少し荒い息で「頂きます」とだけ言って、コップの麦茶を飲み干した。直子は、「はあ、はあ」二度ほどため息をついた後に、信一に何も言わずに頭を下げた。数十秒ほど下げただろうか。直子は下げている間に、信一とその家族への感謝の気持ちと、太郎と純夫へ良い報告が出来ることに感動し、頭を上げるときに幾分冷静さを取り戻していた。そんな不思議な沈黙の後に顔を上げると、そこには少し笑みを浮かべた信一の端正な顔があった。直子は正直に感動を隠せない様子で、

「驚きました。予想していた内容と違っていました」と話した。すると信一は

「ほう、どんな内容だと予想されていたのですか?」

「大変失礼ですが、私の疑念を全面否定する内容かと思っていました」信一は頷きながら、

「普通に考えればそうかもしれませんね。私も父から話を聞くまでは、母からの報告を受けて、あなたの話は突っぱねようと一瞬思いました。でも、父は信じられないことを告白したのです」

「そうなんですか、驚かれたでしょう」

「ええ、でも、父は自分が刑務所で死ぬことも覚悟の上で話してくれました。大石純夫さんの自死が父の心を揺さぶったのでしょう」

「このレポートを大石太郎さんにお見せするのに当たって、何か条件はありますか?」

「はい、まずは大石太郎さん本人だけに開示してください。それ以上の事は、また相談させてください。可能ならば、その時はどなたか弁護士を間に立てて欲しいです」

「分りました。このレポートとそれに関わることの重大さは分っているつもりです。まずは、大石太郎さんにお見せします」

「はい、そうしてください。ただ、あなたにも事情があると思いますので、私たちの間での『機密保持の誓約書』を作りましたので、内容を読んでサインをしてもらえますか?」と信一は書類を差し出した。自分のサインと印は押してあった。直子は、「流石、弁護士」と心の中で思いながら、書類の内容を読み、もっともなことのみ書かれていたので、その場でサインをした。


 直子は結果を高木に報告し、大石太郎に面会後に帰社すると伝えると、

「直子、俺もそっちへ行くよ。早くその文書を見たいからな。コピーは禁止なんだろう?」

「はい、柳弁護士に誓約しましたから」と直子は話し、高木が信濃市に到着するのは早くても夕方五時以降だろうと思い、早速、大石太郎の家に向かった。大石太郎は家族で暮らしていた家に寂しく一人で暮らしている。直子が玄関に入ると線香を毎日あげているらしく、かすかに線香の香りがしていた。来意を告げるとすぐに中に入れてくれ、畳八畳ほどの居間に案内された。居間の床の間には、祖父母と父の位牌を小さな仏壇に並べてあり、直子は

「お線香を上げさせて頂いて宜しいですか?」と尋ねると、太郎は頷いて

「どうぞ、お願いいたします」と相変わらず小さな声で答えてくれた。直子は仏壇でろうそくに火を付け、お線香をあげて祈ると、不思議に心が晴れるような気がしていた。居間には大きめの座卓が据付けられており、老人向けの座るところが少し高くなった座椅子が一つあり、後は座布団が三つほど敷いたままになっていた。座椅子には純夫が座っていたのであろう。そして、他の席には太郎と妻浪江と京介が座っていたのだと想像できた。太郎はコップに麦茶をいれて来てくれて、直子に席に座るように手で合図してくれたので、少し遠慮気味に座布団を使い正座をした。和室での生活には慣れていないので、どのぐらい耐えられるか不安があり少し躊躇したが、そんな事を気にしている場合ではないので、すぐに本題に入った。

「太郎さん、今日は多分あなたが求めている物をお持ちできたと思います。これは、柳旅人さんの事件に関する供述を元に、息子さんの柳信一弁護士が整理した報告書です。とても分かりやすく書かれていますので、是非読んでみてください。ただし、コピーは禁止されているので、お読みになったら私にお戻しいたければと思います。宜しいでしょうか?」それを聞いて太郎は緊張した面持ちで、大きく頷いた。直子が柳弁護士の作成した報告書を、太郎に両手で捧げるように渡した。太郎は座卓の端にいつも置いてあるらしい眼鏡を掛けて、報告書を読み始めた。ゆっくり噛みしめるように読んでいるらしく、十分以上かけて読み終えた。そして、大きく息を吸って、ため息を吐くことを二度繰り返し、そして、三度目は少し軽くそれを行なった後に、顔を上げると目からは涙が流れていた。そして、直子を見て

「有り難うございます。ああ、やっぱり本当だったのですね。父は私の知っている父だったのですね。父はあの事件を起こしたことを本当に後悔していたのです。全部自分のせいだと言っていました。毎日、亡くなった人に懺悔していました。でも、この報告書で報われたと思います。父は全てを背負って人生を過ごしたのですから。私もこれで救われました。父と同じように妻と息子の罪を背負っていけます。坂田さん、本当に有り難うございました」と一気に無口な太郎が喋るのを直子は驚いて聞いていたが、太郎の話の意味が胸の奥にずーんと迫ってきて、彼女も涙を抑えられなかった。この親子は本当に不幸な人生を歩んでいるが、その運命を受入れて、大きく、強く、そしてとてつもなく優しい心で、そこから逃げることなく生きているのだ。太郎は直子が自分と同じように泣いているのを見て、

「どうして坂田さんまで泣いているのですか?」と泣き声で尋ねると、直子は

「どう言って良いのかよく分かりませんが、あなたとお父様の生き様に感動しているのですよ」それ以上の軽々しい言葉は無用と思い、直子は深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻していった。太郎も涙で報告書を少し汚したことを気にするように、傍に置いてあったティッシュペーパーで涙を吸い取っていた。直子は気がついたように、コップの麦茶を飲み干し、太郎はお替わりを持ってきてくれた。直子は太郎の全ての行動に思いやりと優しさを感じて、恋愛感情ではないが好感を感じていた。

「太郎さん、これからどうされますか?」と尋ねると、太郎は

「えっ、これからというと、どういう意味ですか?」直子はやはりそうかと思ったが、

「お父様のご無念を少しでも晴らすことも検討できますけど」と直子が言うので、太郎も以前調べたことがあったので、

「もしかして、再審とかそういうことですか?」

「ええ、そうです。対象者が亡くなっている場合でも、遺族が再審申請をする事は可能ですよ」

「それは全く考えていません。旅人さんだってもういい年でしょう。これを整理してくれた息子さんに恨みなどありませんから。父は家族に対して詫びる気持ちも強かったので、強いてあげるなら妹の佐苗にこの事を伝えたいと思います。佐苗には私も本当に申し訳ないことをしたとお詫びしないといけないので」と太郎はまたうつむき加減で話すので、直子は

「太郎さんはお父様と同じですね。全ての事の責任を取ろうとしておられる。あなたは何も悪いことをしていないのに」

「ええ、そうかもしれませんし、やはり私が悪いのだと思います。妻や息子の行動に気づかなかったし、止められなかったのですから」

「そうですか、あなたの優しさには感服しますが、妹の佐苗さんへ伝える件は少し検討させて頂けますか?かなり、ナイーブな問題のように思いますので」

「はい、宜しくお願いいたします。もし、この件は伝えなくても良いので、謝罪だけでもしたいと思います。許してくれないと思いますが、いや、私には会ってもくれないかもしれません。私は加害者の家族で、佐苗は被害者の家族なのですから」と本当に悲しげに訴えたのを、直子は何とかこの人の心を少しは安らげてあげたいと思いつつ、この人はまるで()()()()()()だと思った。昔、身内に犯罪者がいた僧侶がいたことを思い出したが、誰だったかを思い出せなかったが、太郎の言動を見るに付け、彼の生き様を素直に尊敬するのだった。


 そして、夜の七時になり高木から連絡があった。信濃市駅前のホテルに着いたので、来て欲しいとの事ですぐにホテルに向かった。直子が駅前のホテルに着くと、高木はラウンジで缶コーヒーを飲みながらPCに向かっていた。直子が近づくと高木は顔を上げて、手を上げて挨拶をした。

「おう、お疲れ様。大変だったろう?」と労うと、直子は素直に頷いた。

「私が余計な事を話すより、これをどうぞ」と柳弁護士からの報告書を高木に渡した。高木は何も言わずに報告書に目を通し始めた。数分後に彼が報告書を読み終えるまでに、彼は何度も驚きの表情をするのと同じぐらいにため息をついた。そして、何度か読み返したので二十分ほどの時間が経過していた。そして、高木は

「これは大変な冤罪だな。裁判の結果がひっくり返るかもな・・・」と呟くように話し、頭に両手を乗せて、また、大きなため息をついた。

「でも、大石太郎さんは再審の請求をするつもりはないと言っているのだな」

「ええ、あの人は修行を積んだ高僧のような人で、柳旅人さんの年齢を配慮しているぐらいなんです」

「へえ、辛い人生を歩んでくるとそんな心境になるのかな。でも、家族が請求しないと再審は成り立たないよ。高倉佐苗さんがどう思うかだな」

「ええ、太郎さんも佐苗さんに会いたがっています。別の理由で」

「別の理由とは?」

「佐苗さんに事件のお詫びをしたいと言っています。自分の妻と息子が加害者で、酷い事をしたことをお詫びしたいと言うのです。そして、この件は場合によっては伝えなくても良いと」

「なるほど、佐苗さんが望むなら、太郎さんと佐苗さんが面会するのも悪くないな」と高木がコメントすると、直子も

「ええ、私、間を取り持つつもりで高倉佐苗さんにお会いしたいと思っていますが、どうでしょうか?」高木も大きく頷いて

「そうだな、俺も一緒に行くよ。お見舞いもしないといけないしな。我々が訪問した翌週にあの事件が起きたのだからな。ただ、高倉家の人たちはまだ気持ちの整理がついていないかもね。明日にでも連絡してみるよ」

「ええ、そうしてくれると助かります。高木さんなら古いお付き合いだと思いますので」高木は頷きながら、

「ところで、この報告書をまとめてくれた柳弁護士とはどんな人なんだ。自分の家族の不利になるような事を、こんなに丁寧に整理してくるのには少し違和感を感じるなあ」

「ええ、実はとてもイケメンの背の高い素敵な人ですよ」

「へえ、面食いのお前さんがそういうならかなりのもんだろうな。そのイケメンはどうしてこんなに親切なんだ」

「お父様の柳旅人さんが自ら話をしてくれたそうなんです。私が事務所を訪問し、柳旅人さんの奥様にお会いして、太郎さんの話をすると、最初は名誉毀損で訴えると言っていたのですが、ご家族で話し合いをされたようです。そして、翌々日に柳弁護士から連絡があって呼び出されたので、てっきり厳重注意を受けるのかと思ったら、この報告書を見せられたので驚きました」

「そうか、柳一家も珍しい家族のようだね。正義感が強いというか、責任感があるというか」

「ええ、私は今回の事件で様々な人にお会いしましたが、大石家の純夫さんと太郎さんは責任感が強くて、自己犠牲の精神を持っていると思いました。でも、運命のいたずらで大石家と柳家は不運な交わり方をしてしまった。結果として、五十年以上もたった現在にまで遺恨を残した。大石家はバラバラになった結果として、大きく成功した家族に属した佐苗さんに対する妬みがあったのでしょうね。そして、本来関係の無かった高倉家が被害者となった。皮肉なことにその真ん中にいたのが、佐苗さんだった」そして、直子は少し自分の考えを整理するように、

「高木さん、今回の事件取材結果をどれだけ公表するかを検討し、整理するのには相当時間がかかりそうです」

「ああ、まだ現在進行形だし、事実確認も慎重にしないといけないしな。高倉佐苗さんの心が落ち着かないと今後の取材なんて無理だし、それに、肝心の高倉颯太さん、楓さん、そして宏一くんのPTSD(心的外傷後ストレス症)も心配だね」と髙木が話すと、直子は思い出したように、

「ところで、ABDシステムにも今後色々な動きがあるのでしょうね。社内的にも、社外対応でも当分大変でしょうね」

「ああ、それは既に噂が流れているよ。高倉賢司社長は責任を取るらしい」高木は経済誌の編集長なので、そちらの取材にも余念が無い様子で答えたが、

「とにかく、高倉佐苗さんと大石太郎さんの面談の設定が大事だな。調整には気をつかうと思うが、まずは高倉さんに連絡してみて、様子を聞いてみるよ」と言いながら直子に柳弁護士からの報告書を返して、

「さあ、腹が減った飯でも行くか?」と誘うと、直子は

「はい、ご馳走になります」と明るく答え、二人はホテルのロビーを出て、駅近くの繁華街に向かって歩き出した。まだ、残暑厳しい時期ではあったが、幾分夜気には涼しい風が混じっており、秋の気配を感じさせた。


 事件発生から四週間がたち、高地にある信濃沢には秋の気配を感じさせる紅葉も始まり、広葉樹の落ち葉が少しずつ舞い始めていた。

 検察の捜査の結果、被疑者は全員が起訴され、事件の全貌は明確になり、普段は穏やかな避暑地を舞台とした、前代未聞の事件は収束に向かっていた。


 そして、直子と高木の調整もあり、高倉佐苗に柳弁護士の報告書は無事届けられ、内容は伝わっていた。その衝撃的な事実を目にしたときに、佐苗は父純夫の哀れな最期に改めて涙し、そして、兄太郎の悲運に同情した。自らが被害者となった事件に対する大石家への恨みはあったが、父と兄への思いはむしろ同情が大きく上回っていたようだ。

 そして、柳信一と大石太郎と面談するために、高倉裕と佐苗が高木と直子も同席して、信濃市郊外の柳法律事務所を訪れた。現地には既に一時間ほど前に大石太郎は訪れており、柳信一とは挨拶が済んでいた。柳の事務所で五十年ぶりに佐苗は兄太郎と再会したが、懐かしさを募らせる前に、太郎は改めて妹と裕に深々と頭を下げ、妻と息子が高倉家の家族全員を苦しめたことを謝罪した。佐苗は兄を責める気持ちがないことを告げ、兄の辛い人生を我が事のように悲しみ、父の悲惨な人生と苦痛を改めて知り、母がこの事を伝えたかったのだと理解した。太郎は妹の優しい言葉に、さらに嗚咽を漏らし、兄妹は数奇な運命の中でも、お互い生き続けてきた事を喜ぶように抱き合った。

 柳信一は目の前の二人の加害者家族であり、被害者でもあり、複雑に絡み合った事件に翻弄された稀有な人生を慮り、その原因となった自らの父と祖父が犯した過ちの重さに押しつぶされそうになりながら、二人からの恐怖の宣告を待った。しかし、彼らからは

「柳先生。本当の真実を明らかにしてくれて、本当に感謝いたします。お立場上お辛かったと思います。本日は本当にありがとうございました」と礼のみを言われて、あまりの意外な反応に呆然としていた。父のこと、祖父のことで酷く詰られて、再審請求の申告を受けることも想定していたので、却って返す言葉を失っていた。それでも、最低限の確認をするべきと思い、

「お二人は、お父様の事件に関する再審のご請求はなされないのですか?」と恐る恐る質問をした。太郎は早苗の顔を見て頷き、

「はい、しません。先生のレポートで父の無念を少しでも晴らせたので、それで十分です」と言い、早苗の方は、ただただ何度も頷くばかりだった。そして、仲介役である直子と髙木もにこやかな笑顔で信一を見て、頷き合っていた。この信一の事務所には教会で厳かに流れるバイオリンの音楽が流れているかのような、何とも言えない穏やかな空気が流れていた。



 事件の後、ABDシステムの高倉賢司社長は辞任し、後任には木下CTOが昇格し、同時に高倉颯太が常務に昇格した。


 牧野は丈一郎と兄巌に事件の事後報告をした。

 警察庁から長野県警捜査一課と群馬県警捜査一課が表彰され、牧野と筑摩はその褒賞イベントに招かれ、再会をしていた。

 その後の警部研修会では牧野は再び筑摩と再会し、チームごとに行う事件対応を検討する『ケーススタディ』では全く異なる見解を示し、トレーナーを困らせた。


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