本社への捜査
そして、渦中の渋谷のABDシステムの社内では事件発生の日の早朝より、前社長で兄の裕からの連絡を受けていた現社長の高倉賢司が、数人の幹部に連絡を入れて緊急招集をかけていた。朝八時から社長室に集まったのは、現社長の腹心の部下である木下CTOと総務全般を任されている坂元常務であった。社長の賢司から二人に事件のあらましが説明されると、木下は明らかに動揺して、
「本当ですか?皆さんはご無事なのですか?」尋ねると、賢司は悲痛な面持ちで、
「兄と早苗さんと楓さんは無事なようだ。さっき、颯太くんも現地についたそうだよ。何より心配なのは誘拐された颯太くんの息子の宏一ちゃんの救出だな。あんな良い子を・・なんて酷いことをするんだ!」と声を絞り出した。坂元は、
「子供を誘拐するなんて・・犯人からの身代金とか何か要望はあったんですか?」とやはり動揺を隠せない様子で賢司の顔を見ながら質問すると、
「いや、まだらしいです」と賢司は答えると、坂元は総務責任者らしく、
「こういう誘拐のような事件の場合は、警察も緘口令を敷くと思うので、我々も絶対秘密で対応しましょう」と社内での対応を進言した。
「そうだね、そうしよう。本当は兄のところに行きたいけど、普通に仕事をすることにするよ」と、坂元の発言で幾分落ち着いた様子となった。そして、賢司は沈痛な時間を二十分程過ごした時に、兄裕から賢司に電話があった。八時半を過ぎた頃だった。犯人から”身代金の要求と変な情報公開の要求”があったようだ。その情報はプライバシーと会社のブランドにも関わることなので、身代金を支払うことで対応するつもりだとの報告してきた。その支払いの準備は、裕と颯太で対応するので、会社には迷惑をかけないそうだ。賢司はすぐに幹部二人を呼んで情報共有した。木下は
「やはり要求はありましたか。身代金ですか・・。情報公開というのはなんですかね?」と首を傾げていると、坂元は
「裕顧問や”誰かの秘密”に関わることなんでしょうかね?」と普通の話のように言うので、
「兄も何も言わなかったので、何かスキャンダルにつながるような事かもしれない。でも、兄にそんなことがあるようには思えないし」と賢司も首をひねったが、気を取り直したように、
「身代金で宏一ちゃんが戻ってくると信じよう。あるいは、その前に警察が犯人を捕まえてくれると良いんだけど」と独り言のように話し、続けて
「一旦、通常業務に戻りましょう。何かあればまた集まって欲しいので、お二人には今日は社内に居て欲しいのですが、大丈夫ですか?」と二人に尋ねると、木下は
「もちろん、そうします」坂元は
「幾つか来客がありますが、社内にいるようにします」と言って、二人は社長室を後にした。
賢司は午前中にいくつもの会議が入っていたが、いつものようには覇気がない様子で、会議に参加した社員は少し怪訝な様子で、
「社長はあまりこの件に乗り気ではないのかな?」と訝しんだほどだった。
一方で賢司は頭の中で、「何故こんなことになったのか?」「一体誰がこんな卑劣なことを?」との考えと、なぜか”坂元の態度に疑問”を生じさせていた。彼はあんまりショックを受けていない様子だったけど、「まさか、こんな事件に関わるはずはない」と頭の中で生じた疑惑を打ち消すのだった。「それにしても、早く解決してほしい」と心から願った。彼には子供も孫もいなかったので、颯太の息子の宏一を孫のように思っていて、珍しいオモチャがあると、颯太に届けていたのだ。
そして、いつもは外食をする賢司だが、その日は秘書に依頼して弁当を買ってきてもらったので、社長室であまり味はわからないまま昼食を終えて、苦いコーヒーを飲んでいると兄の裕からショートメールがあった。
「”宏一が無事保護された”」と書かれていた。賢司は思わず喜び、現場はごった返しているかもしれないとは思ったが、我慢できずに兄裕に電話をした。裕はすぐに電話に出て、
「ああ、賢司か、宏一が無事保護されたよ!本当に良かったよ!」と涙声の報告だった。
「兄さん、良かったね!颯太くんと楓さんも喜んでいるだろうね」
「ああ、みんなで抱き合って喜んでいる。警察の人が凄い捜査をしてくれたみたいだ」
「色々あるだろうから、電話は切るけど。これから、ニュースが流れるかもしれないから、何かあったら相談するよ」と賢司は少し心配な状況を伝えた。
「ああ、迷惑をかけるけど、宜しく頼むよ!」と電話は終わった。
賢司は木下と坂元に連絡し、社長室に来てもらい、誘拐されていた人質の宏一が無事保護されたことを伝えた。木下は自分の左手と右手を重ねて握り喜んだ。
「良かった!良かった!」一方、坂元は何故かさほどの喜び方ではなく、
「犯人は逮捕されたんですか?」と賢司に尋ねるので、
「ああ、そうか!どうしたんだろう?うっかりして、聞くのを忘れていた」と言って、携帯から兄裕にショートメールを送った。
「犯人は逮捕されたの?」すると数十秒後に
「誘拐犯は三人逮捕された。その件で後で相談がある」と返事が来たので、賢司は二人に口頭で、
「誘拐犯人は逮捕されたそうだ」とだけ言うと、木下は
「どんな奴らですかね?あっ、ニュースが流れるかもしれませんね」
「ああ、ちょっとテレビをつけておくか」と昼のテレビをつけた瞬間にその臨時ニュースが流れた。
ニュースの内容は、「本日早朝に、渋谷に本社があるIT企業ABDシステムの前社長高倉裕氏の信濃沢にある別荘で、強盗及び幼児の誘拐事件が発生した。盗まれたのは前社長宅にあった美術品数点で、誘拐されたのは高倉氏の長男でABDシステムの営業本部長の高倉颯太氏の長男の宏一ちゃん五歳で、警察の捜査活動により本日昼過ぎに無事保護された。逮捕された誘拐犯は三人で、三人とも逃走していた北浅間村で逮捕された。なお、窃盗犯も数名いるようで、現在捜査中とのことである」という内容だった。
社長室に集まった三人は報道規制が敷かれていたことを痛感し、きっとこの後に報道陣が本社に押しかけることと、関係者や取引先から猛烈な問い合わせがあることを覚悟した。木下は技術系の役員であり、こういった事には不慣れだが、坂元はこれまでも報道関係者とのやり取りを数多く経験しており、賢司は
「坂元さん、これから大変ですが、宜しくお願いします」と頭を下げると、坂元は
「こんな、直接の事件に関わる案件は初めてですが、なんとかやってみます。ところで、裕顧問からは何も相談はないんですか?」との質問に賢司はあえて何も返答せずに、首を軽く縦にして頷くだけにした。
その後三十分ほどして、賢司に兄裕から驚くべきショッキングな事実と相談の電話があった。なんと、逮捕された誘拐犯人の中に、ABDシステムの社員が含まれていたというのだ。犯人の名前は『染谷寛二』商品開発室の室長である。
「ええっ。嘘でしょう?染谷が?!」と賢司は事件発生の連絡を受けた時と同じようなショックを受け、頭の中がまさに真っ白になった。裕はさらに、
「今日の夕方に、その件で長野県警と群馬県警の捜査員がABDシステム本社に行くので、対応をして欲しい。警察のご指名は、木下さんと、坂元さんと、染谷の部下の笠置君で、お前にも最初に会いたいと言っている」
「・・分かった。木下さんと坂元さんにはこの件の相談をすでにしているので、大丈夫だけど、もしかして二人が疑われているの?笠置君は・・そうか染谷の部下だね?彼も共犯なの?」
「いや、それは分からないけど、とにかく夕方にはそちらに着くので、必ず別々のセキュリティのしっかりした部屋で対応するようにして欲しい。犯人が染谷であることも絶対に内緒にして欲しいと言われている」
「兄さん、分かったよ。驚いたけど、なんとかするよ。でも、本当に染谷が犯人なの?何のためにそんな酷いことをするんだ?」
「それは、賢司、俺よりお前が分かっていないといけない事じゃないか?」この鋭いコメントには、賢司もハッと気付かされた。
「ああ、そうだね。兄さんの言うとおりだ。俺は社長失格だね。多分、颯太くんに関係する事なんだろうね」
「賢司、くれぐれも慎重にな。絶対に染谷のことは誰にも話さないように!とりあえず、今は部下であっても気をゆるさないように!」
「ああ、分かった」と兄弟ならではの優しさに溢れてはいたが、二人とも宏一が無事保護された時の喜びが消えてしまう程の嵐を、胸に抱いたまま会話を終えた。賢司は心臓の鼓動が治らないまま、早速に秘書に三つの応接室の予約と自分の会議の予約を全てキャンセルしてもらい、木下CTOと坂元常務と商品開発室の笠置に連絡をして、夕方四時以降の全ての予定をキャンセルするように指示を出した。木下と坂元は今回の事件に関わる事だと理解した様子だが、染谷の部下である笠置は突然社長から電話をもらい、しかも、夕方の時間を空けるように言われたので、きっと今回の事件の関係だと思うが、何か自分に落ち度があったのかと思い、全く仕事が手につかなくなった。
そして、五時を過ぎてABDシステム本社の一階受付に、長野県警と群馬県警の刑事たち数名が訪れた。長野県警からは大川警部補と刑事二名、群馬県警からは牧野警部と雲野警部補が訪れた。受付から連絡を受けるとすぐに秘書課長が受付に降りてきて、刑事たちを社長室に案内した。総務部と広報部はマスコミ対応に追われていて、この訪問には気づいていないようだった。
ABDシステム渋谷本社の社長室で高倉賢司社長が、まず刑事たちにお礼を述べた。もちろん、宏一の無事な保護を感謝し、誘拐犯人の逮捕にお礼を述べた。牧野が代表して、
「人質にされていた宏一君を無事に保護できて正直ホッとしています。また、誘拐犯を迅速に逮捕できたことも良かったと思っていますが、強盗犯を逮捕できていないので、事件はまだ終わっていません。完全解決には社長を始め、被害者と関係者の協力も必要ですので、捜査は極力内密に行いますが、高倉社長の全面協力をお願いする次第です」といつもと同じ牧野の冷静で真面目な態度に賢司は、「こんな礼儀正しい人が現場で刑事をしているのか!しかも警部とは」と少し驚いたが、
「はい、私は全面協力しますが、今日、お会いして頂く三人の位置付けは何でしょうか?」と素直な疑問を投げかけた。すると、牧野警部がすまなさそうな表情で、
「ご心配や疑問はごもっともですが、これは捜査上の秘密で申し上げるわけにはいきません。何卒、ご理解ください」と丁寧にお辞儀をしながら理由は言えないと言う。少し、賢司は戸惑うが、牧野の態度に誠実さと必然性を感じたので、
「わかりました。何も聞かずにご協力します。社内には私から何も口外しないように徹底させます」これに牧野とそこにいた刑事たちは少しだけ頬を緩め、
「ご理解頂けて助かります。今、長野と群馬の県警で、被疑者全員の逮捕に向けて捜査を進めていますので、今回の聴取を含めて社長にお話しするべきことが出てきましたら、私からお話しします。それまではひたすらご協力をお願いする次第です」と牧野の言葉を聞き、賢司は覚悟を決めたように、
「では、まず誰を呼びましょうか?」と聞くと、牧野は
「まず、木下さんをお願いします。技術系のTOPで被疑者染谷の上司だと聞いています。そして、次は商品開発室の笠置さんをお願いします。そして、最後に常務の坂元さんをお願いします。それぞれ、前の面談が終われば別の部屋にお呼び頂けますか?社長さんにこんな事務的なことをお願いするのは恐縮ですが、他の社員の方を巻き込みたくないので、宜しくお願いいたします」
「わかりました。私は全面協力をいたしますので、お気遣いなく」と言って、まずは木下に電話をして、五分後に応接室Aに来るように伝えた。牧野と大川が応接Aに向かい、他のメンバーはすぐ隣の応接Bに向かった。それぞれ、イヤフォンをつけており、会話は全員で共有できる仕組みだった。
応接Aを訪れた木下CTOは非常に緊張した面持ちだった。牧野と大川が名乗ると、
「技術責任者をしている木下と申します」と少し、声が裏返りそうな感じだった。牧野は笑顔を作り、木下の緊張を解そうとした。
「木下さん、少しリラックスして下さい。我々はあなたを疑っているわけではなく、あなたは参考人で事件の全容を掴もうとしているのですから」それを聞いて、木下の表情は幾分緩んだように見えたが、自分の発言が重要なことは理解しているようだった。
「まず、木下さん。あなたと高倉前社長との関係を教えて下さい。とても、お付き合いは古く信頼されているようですが」
「あ、はい、上司と部下という関係ですが、高倉前社長とは長いお付き合いをさせていただいております。私は現社長とともに当社の技術分野の責任者をして参りましたので、高倉前社長には仕事を通じて良くしていただいております。奥様やご家族とも何度もお会いしております」
「そうですか、良い関係だと言うことですね」と牧野がさらりと念を押すと、
「はい、そのつもりです」との木下の発言に牧野は頷き、
「次に、そのご家族のひとりである貴社の営業本部長である高倉颯太さんとの関係と、最近何か変わったことや印象に残ったことはありませんか?」と質問を続けたると、木下は少し視線を右上にあげて考えた後に
「颯太さんとは営業と技術という立場違いますが、会議やお客様への訪問等の仕事でも良くご一緒させていただいています。何か変わった事と言っても、特に気がかりなことはなかったと思います」と淀みなく答えた。
「そうですか、分りました。次に、坂元常務との関係を教えて下さい、最近何か変わったことはありませんでしたか?」との牧野の質問に木下は違和感を覚えのか、一瞬驚いたように牧野の目をのぞき込むようにしたが、
「坂元常務は総務や人事・経理の責任者なので、予算の事や機器購入の際や、人事的な相談をいつも受けてもらっています。面倒見の良い方なので、とても助かっています」と木下はその話をした時に、坂元に染谷の件で相談したことを明確に思いだした。そして、坂元がその件を預かると言ったことが今回の事件に関係があるとは思えないが、心の中に不安が広がった。その心の動揺が表情に出たのかもしれないが、牧野の次の質問に心臓がドキッとした。
「最後に、あなたの部下の商品開発室の染谷さんのことをお話しいただけますか?」木下は、やはり染谷が何かこの事件に関係しているのだと思った。ここは正直に話した方が良いと感じたので、
「実は二週間ほど前に、その染谷君と颯太さんが会議で対立し、全体が変な空気になったので、遺恨が残ってはいけないと思い、取りなしというか調整というか、今後の仕事がスムーズに行くように坂元常務の口添えをお願いしたことがあります」
「ほう、そうですか?その時、坂元常務はなんとおっしゃったんですか?」
「この件は、私が預かるおっしゃたので、私はお願いします、と申し上げました」そして、もう少し具体的に説明して欲しいと牧野に言われて、木下は会議の目的や内容や染谷と颯太の立場の違い等を説明した。説明が終わると牧野は大きく頷き、柔らかい表情で木下に
「木下さん、今日はこの辺で結構です。ご協力有り難うございました。くれぐれもこの事は全て内密にお願いします。特に今回警察が面談している人たちとは、絶対に何も話さないでください」牧野は木下を応接の入り口で見送り、大川に
「事の発端はこれかもしれないな・・」と小声で囁いた。大川は、
「大きな企業と言っても社内的には狭い社会なんでしょうね。考え方の違いが大きな歪みとなるのかもしれませんね」
「よし、次の面談は私と雲野さんでするので、大川さんは今の話しを筑摩さんに報告をしておいてください。また、信濃市での状況をご確認頂けますか?」
「了解しました。では、染谷の部下の笠置を隣の応接Bに呼んでおきます」
「はい、お願いします」と牧野は頷き、応接Bで雲野にひそひそと次の笠置との面談の主旨を確認した。雲野は木下との面談内容はイヤフォンで聞いていて内容は把握していた。
応接Bに緊張した面持ちで商品開発室の笠置が入ってきた。牧野と雲野が挨拶をして、着席するように言うと、彼は遠慮がちに応接室のふっくらとした質の良いソファーに座って、少し落ち着かない様子であった。牧野と雲野は百戦錬磨の事情聴取のプロなので、
「笠置さん、そんなに緊張なさらずに、リラックスしてください。我々は、あなたに嫌疑をかけているわけではありません。参考人としてお話をお伺いして、事件の全容の解明をしたいだけですから」と落としの雲野が口を開いた。雲野は叩き上げの刑事で、少し白髪が交じった髪をオールバックにして、黒縁の眼鏡をかけ、その奥の優しげな目が特徴の中年刑事だった。笠置は、
「そうですか、こんな事には慣れていないので、正直、とても緊張しています」と率直な物言いに好感を持てた。
「まず、あなたの仕事に関してお聞きしたいのですが、商品開発室の主任さんですよね?」
「はい、そうです」
「失礼な質問かもしれませんが、どんなお仕事なんですか?」との雲野の問いかけに、笠置は三分ほどかけて丁寧に答えてくれた。雲野は説明に大きく頷きながら、さらに、
「染谷さんが上司ですよね?」
「はい、そうです」
「染谷さんはどんな上司なんですか?」
「えっ、染谷さんですか?えーと、とても知識が豊富な方で、それから、凄く積極的な方です」
「そうですか、優秀な方のようですね。一昨日から、ご一緒に信濃市に出張をされていたようですね?」
「はい、信濃市のユーザーに同行して頂いていました」
「一日中ですか?」
「いえ、仕事は午前中で終わったので、そこでいったん分かれました」
「なるほど、その後あなたはどうされたのですか?」
「はい、喫茶店でテレワークをしていました」なぜそんな事を聞かれるのかは分からなかったが、全部正直に答えようと笠置は思った。
「染谷さんとは別にですね?」
「はい、そうです」
「染谷さんは何をされていたのですか?」
「えっ、室長がですか?えーっと、一緒に居たわけではないのではっきりとは分りませんが、夕方は近くの大きなお寺に行くと言っていました」
「ほう、善光寺ですかね?」
「ああ、そうです、そう言っていました」笠置は仕事中ではないので問題ないはずだし、警察には関係ないだろうと正直に答えた。
「夜も別々ですか?」
「はい、でもホテルは同じホテルだったと思います。でも、なぜそんなことを聞くのですか?」と笠置は明らかに不審に感じている様子だが、
「事件の全容を把握するためなんですよ。同じホテルだったとどうして思うのですか?」雲野は少し笑っているような表情を作り、さらりとかわした。
「次の日の朝に室長から内線で電話があったんです。今日は有給休暇を取っているので、会わずにホテルを出るからと言っていました」
「そうですか。内線ですか?分りました」雲野も牧野もこれには疑問を感じたが、外から代表電話にかけて、フロントに取り次いでもらえば可能なので、後で調べることとしたようだ。
「室長に何か変わったことはありませんでしたか?」
「特に気がつきませんでしたが、いつもより口数が少なかった気がします」
「そうですか、いつもは雄弁な方なんですね?」
「はい、技術系の人には珍しく、どんな人ともすぐに仲良くなってしまう人です。」
「室長にはご家族はいらっしゃるのですか?」この質問に笠置は急に口ごもり、少し間を空けてから、
「実は昨年離婚して、子供は奥さんが引き取って実家に帰ったと聞いています」
「すぐに人と仲良くなる人なのに、家庭では上手く行かなかったのかもしれませんね」
「ええ、室長は時々社内でもぶつかることがあって、結構好き嫌いが激しいようです」
「へえ、そうなんですか?たとえば、どこかの部門の人とぶつかるといった例はあるんですか?」
「ええ、営業本部とはウマが合わないと自分で言っていました」
「営業本部と言えば、高倉颯太さんが本部長ですよね」
「ええ、技術の重要性が分っていない!と、結構、怒っていたことがありました。それと、何だか最近、感情の振幅が激しくなったような気がしてました」と笠置は少し気になる発言をした。笠置も自分で言ってから、少し後悔した様子だった。
「それは、傍目にも目立つような事ですか?」笠置は少し悩むような表情で、
「ええ、そうなんです。以前は明るい印象の人だったんですが、最近は喜怒哀楽が激しいと言いますか、何かを悩んでいるような気がしました」その後も染谷と颯太が揉めていた詳細を正直に話してくれた。予定より長くなったが聞きたいことを全て話してくれたので、牧野と雲野は満足して次の坂元との面談に移った。今度は応接Cに坂元を呼んでもらった。これが本命だ。その前に短い時間で、大川に状況を筑摩に伝えてもらうように指示すると、大川からは
「尻尾を捕まえさせてくれるでしょうか?」と心配そうな表情だったが、例によって牧野と雲野は自信ありげな様子だった。大川はこの二人なら何とかしてくれそうだと信じることにした。
応接Cで坂元を待つ牧野と雲野には、二人にしか分らない“阿吽の呼吸”があるようで、いつもどちらかが聞き役に回るときには、どちらかが冷静に状況を分析するといった役割分担をしながら、最後はズバリと切り込むようなタイミングを二人とも同時に把握するようだった。ただし、今回の相手は土俵は違うが少し古い言い方になるが、“百戦錬磨の企業戦士”なのだ。上手く行くのかはやってみないと分らない。
五分後に坂元が応接Cに現れた。落ち着いた様子で、二人の刑事の品定めをするように顔を見ながら名刺を差し出して先に挨拶をした。牧野と雲野もごく簡単に自己紹介をして、坂元に座るように手で丁寧に合図をした。
「常務さん、お忙しいところを申し訳ありません。報道対応や社内外への対応で大変なんじゃないですか?」坂元は頷きながら、
「そうなんです。こんなことは初めてですので、もう“しっちゃかめっちゃか”と言うやつです」
「そうですか、大変ですね。ご心労をお察しいたします」と牧野と雲野は大きく頷きながら同情するようなそぶりだった。
「ところで、高倉前社長からは何かご連絡はありましたか?」と牧野は変な投げかけをした。坂元は少しきょとんとした表情で、
「いいえ、ありません。それどころではないのでしょうね。ご自分の別荘に強盗が入って、お孫さんが誘拐されたんですから」
「そうですよね、刑事である私が言うのは変ですが、自分の身にそれが起こったとしたら、ゾッとしますよね」その合いの手には坂元は反応しなかった。
「ところで、常務さんは総務や人事や経理などの総責任者とお聞きしていますが、今回のような事件が起こるとどんな影響が出るのですか?」
「ええ、それはもう大変です!報道機関への説明会や情報提供を始め、株主やお客様や取引先や下請けまでの関係企業からのありとあらゆる問い合わせが来ます。それが終わると、今後の方針を決めるための経営会議の準備と結果を社内外へ説明する必要がありますので、気が遠くなりそうです」
「なるほど、少しお聞きするだけでも大変ですね。こちらも、まだ事情聴取も全容解明が済んでいませんし、まさに“しっちゃかめっちゃか”の状況なんですよ。本当にこんな事件は絶対に起こって欲しくないですね。不幸中の幸いは、誘拐された幼児が無事に保護されたことです。もし、この子に何かあったらと思うとゾッとします」坂元はこの投げかけにも軽く頷くのみで、大きな反応はなかった。ただ、目の前にあるお茶を口にした。牧野はそれを目の端に捉えた。坂元に関する情報によると自身の家族構成は、妻と娘二人で、この娘二人は既に結婚して独立している。趣味はゴルフと旅行で年に数回、妻と海外旅行に行くようだ。普通の暮らしぶりで、家庭を持つ身としてはもう少し同情するようなところがあっても良さそうな話に無関心な様子であった。あるいは、この後の質問への受け答えに向けて冷静さを保とうとしているのか?牧野は坂元の表情の変化を注意深く観察していたが、ここで雲野が口を開いた。
「常務さん、お立場上お話ししにくいかもしれませんが、社内で今回の事件の兆しというか、きっかけというか、何か心当たりはありますか?」これに対して、坂元は意外な質問だと思ったらしく、
「えっ、社内に、ですか?」そして、少し間を置いて
「社内が何か関係しているのですか?」と逆に質問をしてきた。牧野と雲野はこちらにカードを出させようとしている事を感じ取った。雲野は、
「ええ、何か事件のきっかけがあったような気がしているんですよ。ただの“物取り”じゃなさそうなので」坂元は少し下を向き、考えるそぶりをして、
「特に私には思い当たる事は無いですね」と、完全に白を切る方針のようだ。牧野は坂元は報道はされていないが、染谷が逮捕されたことは分っているはずなので、それでも自分自身に容疑がかけられない自信があるのだと推察した。確かに染谷が木下に相談し、木下から相談は受けたが、それはあくまでも仕事上の話であり、事件とは関係がなさそうだった。証拠を掴まない限り、坂元は何も話さないだろうと確信した。犯人の一人が自社の社員である事は、明日には報道される予定なので、それまでに証拠を掴もうと、牧野も方針を決めた。その上で攻めないとこの坂元という難攻不落の城は落ちないと感じたので、スーツの襟を直す事で雲野に合図を送って、
「常務さん、色々と大変でしょうから、今日はこの辺にしておきますので、お体をお大事に!それでは、お仕事にお戻りください。有り難うございました」と言って、部屋のドアを開けて見送った。坂元は黙ってお辞儀をして、後ろを振り向かずに廊下を歩いて行った。それを見送った二人は、お互いの顔を見て、
「良くこんな事件を起こしておいて、平然としていられるよな!」と牧野がため息交じりに小声で囁くと、雲野は
「思わず大声を出したくなりましたよ。お前が黒幕だろう!てね」と珍しく怒ったような強い返事を返した。牧野は冷静さを失わず、
「あのお茶碗から指紋を採取するように、鑑識に回してくれるか。それとこの名刺からも」と雲野に指示をして、その辺は当然“抜け目”はなかった。
二人は、高倉賢司社長に内容の詳細は差し控えながら報告をして、明日には残念ながら犯人の氏名を公表する事になり、一人がABDシステムの現役社員である事が世間に広まることを通知した。賢司は大きく肩を落として、
「分りました。社長としての私の不徳の至りですね。私としてはこの荷物を背負っていくつもりですが、社員全員と関係各署と株主・お客様に丁寧にご説明をするつもりですが、すこしでも早く動機や事件の全容が解明されることを期待しております。刑事さん、どうぞ、宜しくお願いいたします」と沈痛な表情であったが、冷静さを保っており、牧野はさすがは有名企業の社長を務めるだけあると感心していた。
この後、牧野たちは静かにABDシステム本社を後にした。
事件発生当日の午後には、群馬県警の牧野警部等が誘拐犯三人を逮捕し、長野県警の上東警察署に移送された誘拐犯三名の事情聴取を、長野県警の筑摩警部と富樫警部補が取り仕切っていた。浅間山を越えての移送で、時間にしてわずか四十分であるが、県警本部間でどちらで取り調べを行なうかの駆け引きが想像されるが、刑事部長と捜査一課長同士の関係が良好であったことから、強盗傷害と誘拐事件の発生現場であり、すぐに犯罪捜査本部を立ち上げた長野県警側で行なうことが決まった結果だった。ここ数年、群馬県警管轄内で凶悪犯罪が続いて発生しており、その担当をした捜査一課と担当刑事をはじめとした県警内での体制が強固になってきていたが、今回は支援に回ることで隣県との共同での体制強化を図りたい考えのようであった。警察庁も誘拐事件発生時から支援体制を敷いたが、誘拐事件自体がほぼ解決した現在、体制を最低限の人員にして、県警での捜査に任せる意向であった。
事件の報道がされた日から、この事件は最も世間の注目を集めるニュースであり、各局が現地にロケ班を派遣して報道した。それも、朝・昼・晩と。視聴者は実名を伏せた警察の情報公開を不思議に思い、そのうちショッキングな事実が判明するのではと次の報道を待っている人も多いようだ。




