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第三話 「駒場キャンパスとすれ違う思考」

チョークが黒板を叩く、乾いた音が巨大な階段教室に響き渡る。

目の前の黒板は、もはや俺にとってギリシャ文字と記号で描かれた現代アートでしかなかった。「鬼」と称される柳教授が紡ぎ出す量子力学の世界は、俺の脳の理解許容量を遥かに超えていた。


(……ダメだ、一ミリも分からん。宝くじ合格の自分には、この呪文は難解すぎる……もし、これ単位落としたら、本気で来年の再受験、考えようかな……)


そんな絶望の淵で、俺はふと前方の席に目をやった。

そこに、高嶺華がいた。

雑然とした教室の中で、彼女の周りだけ空気が違う。ピンと伸びた背筋、キラキラと輝く瞳で黒板を見つめ、時折、美しい指がノートの上を滑らかに走る。彼女だけが、この難解なパズルを心から楽しんでいるようだった。やはり、別世界の人間だ。


講義終了のチャイムが鳴り、学生たちが一斉に解放されたように席を立つ。俺は、早速分厚い専門書を片手に足早に教室を出ていく高嶺の姿を慌てて追った。


「よっ、高嶺さん」

「あ……佐藤、君」


声をかけると、彼女は少し驚いた顔で振り返った。二人で並んで歩き出す。講義室のある1号館を出て、有名な銀杏並木に入る。秋には黄金色のトンネルになるこの道も、今は初夏の力強い緑に覆われていた。


「あの講義、やっぱり面白かった?」

俺が尋ねると、高嶺はこくりと頷いた。

「はい。特に最後の問いかけは、私の研究テーマにも繋がりそうで、とても刺激的でした」

「……そうか」


刺激的、ね。俺にとってはただの苦痛だったが。

周りには、いかにも頭が切れそうな顔をした学生や、高校生にしか見えないような幼い顔の学生が入り混じって歩いている。やはり、ここは日本中から天才と変人が集まる場所なんだと、場違いな俺は改めて実感する。


沈黙を埋めるように、俺は彼女の部活について尋ねた。

「科学部って、普段は何してるんだ?」


その質問に、初めて高嶺の表情が生き生きと輝いた。まるで、自分の宝物について語る子供のような顔だった。

「部員は皆、自分の好きなことを研究しています。片桐さんという先輩は、『どこでもドア』の研究をしているんですよ(笑)。あの、ドラえもんの」


「どこでもドア? 本気で?」

思わぬ言葉に、俺は呆気にとられる。

高嶺は楽しそうに頷いた。「はい。もちろん理論物理の観点からですけど。私はボルボックスの光走性を研究しています」


先日、彼女の生活費を圧迫したという「必要な備品」は、その研究に使うためのものだったのだろう。俺には内容の半分も理解できないが、自分の好きなことを語る彼女の横顔が、これまでで一番魅力的に見えた。


話しているうちに、二人は駒場図書館の前に到着した。ここが彼女の目的地だったらしい。

「私、少し調べたいことがあるので、ここで」


別れ際、俺は一番気になっていたことを尋ねた。

「なあ、高嶺さん。……今日は、ちゃんと飯食ったのか?」


質問の意図を察した高嶺は、少し顔を赤らめながらも、こくりと小さく頷いた。

「……はい。今日は、ちゃんと」

「なら、よし」


その返事に安心した俺は、ひらひらと手を振ってその場を去ろうとした。

しかし、その背中に、今まで聞いたことのない、少し強い口調の声がかけられた。


「ねえ、佐藤君」


振り返ると、高嶺が俺をまっすぐに見つめていた。


「よかったら……科学部、見てかない?」


予想もしなかった誘いに、俺は言葉を失い、ただ目の前の彼女を見つめ返すことしかできなかった。

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