一章① 行商人と偽金貨
リリカ・ソラールは世界に絶望していた。
行商人を営んでいた両親のもとに生まれついたリリカは、子供の頃から旅が好きだった。商売のタネになる噂を聞きつけるたび、大陸を西へ東へ、水牛が引く牛車に揺られる日々。新しい街、新しい景色、新しい出会い。それが日常だった。キラキラした冒険のような日々に、いつも胸を躍らせていた。
だが、永遠に続いていくと思われた幸せな日々は、あっけなく砕け散った。
シミラ王国領で売り物をさばいていた両親が、リリカが寝静まった後で、宿泊していた宿で毒を飲んで死んでしまったのだ。
起きてその光景を目にしたときは意味が分からなかった。口から泡を吹いて倒れる父と母の身体に意思は残っていない。
不思議と、しゃくりあげるような嗚咽は湧いてこなかった。状況を理解できるだけの思考は、十歳になったばかりのリリカには備わっていなかった。
ようやく悲鳴を上げると、ほどなくして店主が現れた。状況を目にした彼は鬱陶しそうに、リリカを店の外に放り出した。
自分が経営する宿で自殺事件が起きたなど、宿屋としての評判に関わる。面倒なことを起こしてくれた、とでも言いたげに、店主は大きな音を立てて玄関扉を閉め、リリカを外に締め出した。
土を踏み固めただけの地面が冷たい。
金色のツインテールの先も、お母さんに買ってもらった少女らしい普段着も、土に汚れてしまった。
何故こんなことになってしまったのか。その疑問だけがリリカの胸に渦巻いていた。
そんなリリカに、遠巻きにちらちらと視線が刺さる。気になりはするが、誰も関わり合いにはなりたくないようだった。
終わりだ。何もかも。
子供一人が背負うには、あまりにも辛い現実。
選べる選択肢は多くない。路上で餓死するか、盗みでもはたらくか、フィールドに出て魔物にでも命を奪ってもらうか。
絶望のどん底で、リリカの心は凍てついてしまいそうだった。
そんな中、一つの手がリリカの視界に差し伸べられた。
「あの……君、大丈夫かな。女の子が一人でこんなところにいたら、昼間とはいえ攫われちゃうよ」
目を開けると、赤子を抱えた紺色ローブの少年が心配そうな表情を浮かべ、リリカの元にしゃがみ込んでいた。
「……そうだったんだ。それは、つらい経験だったね」
少年──カイと名乗った彼は、注文したサンドイッチを前に、悲しそうな眼をした。
カイのシャツに涙の痕をつけてしまったあと、リリカはこれまでのことを話した。行商人として旅をしていたこと、両親が突然死んでしまったこと、宿屋から追い出され、行き場もないこと。
少し冷静になってようやく、唯一手を差し伸べてくれたカイを見ることができた。年齢は、見たところ十六歳くらいだろうか。長い前髪と黒い瞳が特徴的で、どことなく頼りない感じがする。それでも、リリカが途切れ途切れに事情を説明するのを黙って聞いてくれた。その優しさに、凍りかけた心が少しだけ溶かされた気がする。
昼時で会話の途絶えない店内で、隅のほうの席はひっそりと話すのに向いていた。
「こんなことを訊くのは酷かもしれないけど、お父さんとお母さんがどうして自殺してしまったのか、心当たりはあるかな」
「そんなの、わかんないよ……あ、でも、宿の机の上にこれが……」
ポケットをまさぐり、中から一枚のコインを取り出す。
「これは……金貨?」
女神像が精巧に彫られたシミラ金貨だ。
カイはそれを目にするなり、顔を近づけてじっくりと観察し始めた。
「ごめん、ちょっと借りてもいい?」
「う、うん」
彼は律儀にリリカが頷いてからそれを手に取り、裏返したり、自分の懐から同じものを取り出して比べたり、カツカツとぶつけて音を聞いたりしている。
最後にカイは、リリカのものと自分のもの、二枚の金貨を手に乗せて、
「ふんっ」
小さく息を吐き、気合を入れる。
リリカには、カイが何かを念じたように見えた。
「えっ!?」
思わず驚きの声が出た。
掌の上にある二枚の金貨のうち、リリカの懐から出てきた方に変化が起きた。コインは突然ぐらぐらと揺れ始めると、次の瞬間──バチィッ!
弾け飛ぶようにして表面の金色が剥がれた。その下から現れたのは、くすんだ赤銅色のコイン。同じくシミラ王国領で流通している銅貨だ。
目の前で起きた出来事に驚いていると、カイは気の毒そうに、メッキの禿げた方のコインを滑らせてきた。
「君の両親はきっと、この偽金貨に気付いてしまったんだ。この辺りじゃこういう手口が流行っているって噂なんだよ。ぼくも昨日この町に着いたけど、偽金貨の流通が増えているからって金貨が使えなくて。すぐに銀貨に両替した……この辺りの人でないのなら、知らなくても仕方がないかもしれないけど」
金貨一枚で銀貨二十枚。銀貨一枚で銅貨二十枚。リリカでも知っている、一般的な両替レート。
持っている金貨が全て銅貨に偽装されているのなら、一枚につき銅貨三百九十九枚分、損をさせられたことになる。
そんなの、金貨一枚をまるまる失ったのと変わらない……
リリカの震える手が突っ込まれているポケットには、同じ金貨があと十枚は入っている。もしもすべて偽物だったとしたら──考えたくない。
そういえば、昨日はやけに金貨を使って買い物をしたがる客が多かった。お釣りに使う銀貨や銅貨が足りなくなってしまったので、リリカは商談に忙しい両親から元々持っていた金貨を預かり、銀行へと走ったのだ。
偽金貨に気付いてしまった両親の徒労感は、言葉に表せなかっただろう。
「だからって……自殺なんてすることなかった! お父さんやお母さんとわたしなら、きっと一からでもやり直せた……! 死んじゃったら、もうどうしようもないじゃない……!」
頬を涙が駆け降りる。
両親がいなくなって、残されたのは偽金貨。
頭が熱くなり、クラクラしてしまいそうなほどの現実に、リリカは気絶しそうだった。
「そんな……でも、だからって自殺するなんて……! 一緒にやり直せたかもしれないのに……!」
大粒の涙を何度も拭う。母親に買ってもらった服の袖がびちゃびちゃになっていた。
「とにかく、諦めちゃダメだ。きっと何か方法がある」
カイの声は優しかった。それでも、リリカは少しの希望も持てないまま、ひたすらに涙を流していた。




