断章① 魔王との旅路
七島魁は──カイは、世界を救いたかった。
訳も分からずに連れられてきた異世界で、訳も分からないままに詰め込まれた魔法を使って戦った。
魔王を倒すことには成功したものの、為す術もなく呪いを受け、なし崩し的にマオを連れた旅に出ることになってしまった。とはいえ、その思いだけは嘘偽りのないものだったと今でも確信している。
東の町の人々を、辺境伯やその側近たちを、あの日泣き崩れていたミアを、守りたかった。
旅の途中、彼らが魔物の襲撃を受けたという話を聞いた時は、頭がおかしくなりそうだった。自分がやってきたことが無意味になってしまったかのような虚脱感、無力感に襲われた。
我を失いそうだったところを踏みとどまれたのは、せめて魔王を封印して彼らに報いようと考えることができたからだ。
いつしか、自分の中に残った思いはたった一つ以外になくなっていた。
マオを封印することが世界の平和に繋がる。
もう二度と、東の町のような悲劇を起こしてはならない。
そこから先は、あまり覚えていない。
自分が意識を保っていると認識できる時間は日に日に短くなっていった。意識を手放す予兆もなく、突然目の前の景色が切り替わる。ナルコレプシーとかいう病名が何かの物語で扱われていたが、突然眠ってしまうわけではない。自分の意志がない間にも、身体は動くことを止めないのだ。
町から町へ旅をしている間は都合がよかった。マオの持つ力のせいで馬などの移動手段を封じられ、徒歩での移動を強いられていたためだ。タイミングがつかめないのが難点だが、ふと理性を取り戻した時には全く違う場所を歩いている。都合のいいスキップ機能のようなものだ。
記憶は後から思い出すことができる。とはいっても、大抵はひたすらに歩いているだけなので、近頃はあえて掘り起こすこともしない。
マオはその間、一切の命令を下さずとも、ニコニコしながら後ろをついてくる。彼女は生まれてから、カイ以外の人間と深く関わってこなかった。鶏が生まれて初めて認識したモノを親だと思い込むようなものなのだろう。信頼が無意識下にまで刷り込まれている。これから自分が封印されることも知らずに。
世界を救う。この世界の人々を魔王から救う。その言葉にさえ縋っていれば、自分は目的を果たせる。
そのためなら、全身全霊を懸けられる。意識が飛んでいようが、自分に残された時間の全てを差し出せる。自分が持つ物も力も、何もかもを代償として支払える。
それだけが、今のカイを構成する全てだった。
──多分、ここが北の荒地だ。
そう認識できたのは、一面に広がる砂漠のような景色のせいではない。
かつて出会った魔法使いを真似て、研ぎ澄ました魔力探知を通したことですぐにわかった。この場所には、一切の魔力がなかった。
魔石と呼ばれるような特異なものでなくとも、石や砂にも微弱な魔力が宿っている、というのが彼の言だったが、ここにある砂からは本当に何も感じられない。
全ての魔力がこの地に吸い取られる、というのは本当らしかった。
無事に北の荒地に辿り着くことができた。あとは、どこまで行けるか、だ。
今ここで倒れてしまえば、いずれ魔王へと昇華したマオは、すぐに関門を抜けてセンチュリアの王都を滅ぼすだろう。
北の荒地に足を踏み入れただけで終わりではない。倒れるのならば、少しでもこの場所から、人間の生きる領域から離れた場所でなければならない。
幸か不幸か、カイの身体は体力が尽きようと死ぬようにはできていない。墓標の位置が確定するのは、マオが覚醒したその時か、自分自身が諦めた時だけだ。
ここ最近、マオが歯を食いしばり、唸っている様子を目にすることがある。
八年。たった八年という凄まじい速度で、マオは赤子から一気に成長を遂げた。角や尻尾の成長に加えて、人間の女性として見ても成熟しつつある。胸や尻が丸くなり始めた時にはやや驚いたが、その頃にはカイの中の思春期らしい欲望は消え、別の目的に塗りつぶされてしまっていた。
マオが大人になる時は近い。彼女が自分を食い殺すその前に、少しでも遠く、北の荒地の果てを目指すつもりだった。
ポケットには自殺用のナイフを用意してある。マオが完全に覚醒する時には、彼女に殺される前に喉を一突きにするつもりだった。鍛冶屋が多く立ち並ぶセンチュリアで、手持ちの金を全て叩きつけて手に入れたものだ。しかし購入して少ししてから、大昔に東の町の辺境伯が言っていたことを思い出した。
どんな怪我をしたとしても、自分は呪いのせいで死ぬことができないのだ。買うのは意識をなくせるような麻酔薬にするべきだった。マオがあの小さな口でどのように人間を咀嚼するのか知りたくもないが、意識も痛覚も残った状態のまま、少しずつ噛み砕かれるのだけはごめんこうむりたい。
とはいえ、そんなことを言ってももう仕方がない。このところは意識の混濁と跳躍が激しく、あまり自分が自分の身体を動かしているという実感がない。起きているのか寝ているのか分からない朦朧状態でいる時間が長くなってきた。もしかすると、マオに渡る魔力が底をつき、とうとう生命力や精神力といったものまでもが流れ込み始めているのかもしれない。
意識が途切れている間にマオが覚醒してくれれば一番都合がいいな、と思うようになった。きっとなんの感情も抱くことなく、眠ったまま死ぬのと同じように死ぬことができるはずだ。そういう終わり方も悪くない。
ことあるごとに意識が飛んでいるので、記憶もおぼろげで途切れ途切れだ。自分の行動を補完するため、意識がはっきりとしている間は自分がとった行動について思い返していることが多くなった。自動人形のように目的を達しようとしている痛々しい自分を思い出して死にたくなることもある。
関門を突破したときなどまさにそうだ。気付いた時にはセンチュリア城は風穴だらけのハリボテと化しており、背後でハヤトがこの世の終わりのような顔をしていた。揺れる瞳にありありと刻まれた恐怖を読み取るに、その状況を作り出したのが自分たちだというのは容易に想像がついた。
「んお、カイだいじょぶ? ちょっと休む?」
「……いや、いい。少しぼーっとしていた」
ひたすらに自分の靴を眺めていた視線を上げると、マオがふわふわと浮かびながらこちらを覗き込んでいた。
センチュリアに着いたあたりまでは、自分の足でてくてくと歩いていたマオ。はっきりとは覚えていないが、北の荒地への関門を抜けるため、マオに力の一部を解放させたような記憶がある。
それが原因なのか、マオの纏う雰囲気が今までとは一変していた。常にマグマのように魔力を無尽蔵に噴出させており、その勢いはとどまるところを知らない。
「ねーカイ、今まではさ」
マオはきょろきょろと辺りを見渡している。
「いろんな景色が見られて楽しかったし、いろんな人にも会えてうれしかったけど。この辺りは何もないし誰もいないんだねえ。マオ退屈ぅ」
「……今までもそういう場所はあっただろ。見えてる色が違うだけだ。何週間も森の中を彷徨った時なんかはしばらく緑一色だった。あの時だって誰にも会わなかっただろ」
「そうだけどさー。この辺は魔物もいないみたいだし、なんていうか、もっとさみしい感じがする……」
「……どうでもいい。それよりお前は黙って歩けないのか?」
本能的に何かを感じ取っているのか、マオは角をぴくぴくと震わせている。フードで隠せるくらいのサイズだったそれらも、今やランページウルフの牙に匹敵する長さまで成長していた。
いつの間にか、スカートの裾からは長い尾が飛び出すようになっていた。かつての東の魔王とよく似た、太く赤い爬虫類のような尻尾だ。感情に合わせて上下左右自在に揺れ動いているところを見るに、どこかの町で買ったアクセサリーではないのは明らかだった。
「……あれから八年か」
魔王として覚醒するまでの時間は十年前後。マオが覚醒直前だとするなら、平均よりも二年も短いことになる。とはいえ昔討伐した魔王は十六年という規格外だった。十年というのはあくまで目安なだけで、実際のところはいつ成長しきってもおかしくないということだろう。
かつて言葉を交わした老齢な魔法使い──もう名前も忘れてしまったが、その人物の言葉によると、マオは普通の魔王とは少し違っているらしい。
本来は魔物由来の魔力を貯めこむはずが、人間の住まう町で長い時間を過ごした関係で、持っている魔力の質がだいぶ違っているのだという。
もしかしたら魔王となることはないのかもしれない、という小さな期待を抱いていた時期もあったが、楽観的な考えを否定するように、マオは人外じみた成長を遂げた。
マオの姿は刻一刻と魔王に近付いている。完全な覚醒を遂げる前に、這ってでも前に進まなければ。




