三章① 異世界に迷える子羊
石動ハヤトは世界から逃げ出したかった。
何の前触れもなく召喚された異世界で告げられたのは、魔王を討伐せよとの一方的な命令だった。彼に沙汰を告げたのは、見るからに権力者といった態度の、筋肉質で眉の吊り上がった初老の男だった。
大学生としての生活が軌道に乗り始めた途端にこれだ、と、ハヤトは憤慨した。思わぬアクシデントにしても程度というものがある。今すぐ元の世界に帰せと喚き散らしていたら、いつの間にか牢にブチ込まれていた。
隣の房で丸まっていた男に話を聞いたところ、召喚されたのはテオスカーという名の国。武力を何よりも重視する国柄ということだった。事実、玉座でふんぞり返っていた王も取り押さえてきた家臣も、共通して鍛えぬかれた肉体を持っていた。
それなら魔王も自分たちで倒せばいいと思うが、どういうわけか、魔王討伐のたびに異世界人を連れて行くというしきたりらしい。詳しいことは一般には知らされていない、と彼は言っていた。
数か月の禁固刑の後、前触れもなく牢の鍵が開けられた。
魔王はどうなったと訊くと、すっかり顔見知りとなった看守は「無事討伐された」とだけ教えてくれた。
釈放されたのはよかったのだが、引き続き問題があった。ハヤトは着の身着のままで町に放り出されてしまったのだ。
もちろん抗議はした。事が終わったのなら元の世界に帰せ、と。
だが、どうやら異世界転移は一方通行だったらしい。それは不可能だとはっきり告げられ、ハヤトは再び暴れ出しそうになった。初日にお世話になった家臣どもが控えていたので、できた抵抗は小さく舌打ちをすることだけだった。
あとで分かったことだが、魔王討伐に挑んだ者には報奨金が出ていたらしい。分け前をよこせとゴネるのは無駄だとわかりきっていた。牢屋で何か月も寝転がっていただけだったからだ。
所持金、所持品は一切なし。知り合いと言えるのはせいぜい、牢獄ライフを共にした看守とお隣さん程度。
完全に詰んでいた。
道端で絶望していた彼に手を差し伸べてくれたのは、修道服を着た女性だった。彼女はエレシュ教という教会に所属しており、身寄りのない人間が集団生活を送る福祉施設を併設しているのだと教えてくれた。
彼女の手を取る以外に選択肢のなかったハヤトは、縋るように女性についていくしかなかった。
孤児院での生活は悪くなかった。魔王に親を殺されるなどして孤独になった子供たちが集められており、年代的に一回り上だったハヤトは、彼らに基礎的な勉強を教える立場となった。教会に寄せられる寄付頼りの生活は恵まれているとは言えなかったが、なんとか生きていくことができた。
今は、より大きな施設があるセンチュリアという国に移り、孤児院を拠点として生活を立て直している。
央都センチュリア。
この大陸のおおよそ半分を支配し、北の荒地へと繋がる唯一の関門を有する、巨大な王国の首都だ。
テオスカーからやってきて早五年。教会の人々の助けを受けてどうにか今日まで生きてくることができたが、相変わらず元の世界に帰る手段は見つかっていない。
ハヤトの事情などお構いなしに時間は進んでいく。召喚された時には十八歳だったが、時の流れは速いもので、あっという間に季節が巡った。年齢を重ねると一年が過ぎ去るまでの体感時間が驚くほど早まるというが、あながち間違いと言うわけでもなさそうだ。
ちなみに孤児院と言うだけあって、住み込む人間には年齢制限がある。一般的に大人として扱われる二十歳までという基準があるようで、何度か退去の勧告を受けていた。
勧告と言っても、教会にとってハヤトは迷える子羊。教会を追い出されてしまえば金も身寄りも仕事もない。教会側としても強制力を持っているわけではなく、立場上あまり強い言葉を使うこともできないらしい。シスターには嫌な顔をされつつも、おかげでズルズルと居座らせてもらっている。
教会は日中、人の出入りが多い。施設の清掃などに追われるシスターたちを眺めているのも退屈──訂正、忍びなく思われ、明るいうちは大きな通りで人波に揉まれていることが多かった。
そんな人混みの中、何をしているのかというと──
「Heyねーちゃん、暇なンだったら俺っちと遊んでかね? いい店知ってんぜ~?」
──ナンパである。
人生とは、異性と番になり、子孫を残すために神から猶予された僅かばかりの時間に過ぎない。それ以外の目的など副次的であり、些末なものだ。
異性と懇意になるには、繋がりが不可欠。しかし異世界人であり他の町からやってきたハヤトには、センチュリアの人間との繋がりなどない。ないものは、作るしかない。
導き出された結論が、ナンパであった。
魔王がどうとか、帰る手段がどうとか。
そんなものは、女のケツの次の次の次くらいの順である。
元の世界の研究で明らかになっていることだが、人間が子孫を残すのに適している年齢は、せいぜい三十五歳までと言われている。まだまだ適齢期ではあるが、うかうかしているうちに体感時間の進みがゴーカートからジェットコースターにまで加速しかねない。他人事ではない由々しき問題であった。
今日一番に声をかけた若々しい女性は、煙たそうな表情で他の人に紛れていってしまった。
残念は残念だが、ハヤトがナンパに失敗したという事実もまた、どこかに紛れて消え去ってしまったという風には考えられないだろうか? 考えられる。いやむしろ、それ以外に何かありましたか?
「君かわうぃーね~? どう、お兄さんとお茶でもしないかい?」
「おっとそこのお嬢さん、ここから先は通行止めだ。どうしても通りたいなら、俺と一時間くらいカラオケでも──」
人から人を乗り継ぐようにして次々と定型文を投げかけていく。困り顔や羽虫を見るような顔には慣れっこだ。そんなものでいちいち傷ついていたら、ナンパなどやっていられないのだ。
今日もヒットなしのまま、一時間ほどが過ぎた。そろそろ昼飯でも食うかと思っていた、その時。
目に飛び込んできたのは、フードをかぶった少女だった。
細身で標準的な身長。表情が見えないほどに俯き、フードが顔の上半分を覆っていたが、その程度の誤魔化しが通じるハヤトではない。隙間から艶やかに零れ落ちる赤髪に目を惹かれる。頬に影が落ちてなお、凝視してしまうほどの美白。歩く姿勢にすら、気品がにじみ出ているように見える。年齢は、二十に届かないくらいだろうか?
さすれば、彼女が顔を見せないようにしていることにも自然と合点がいく。
恐らく──いや、間違いない。元の世界でいうなら、彼女は芸能人のような存在なのだ。そのフードを持ち上げるだけで、この人だかりが一瞬にして彼女のステージとなる。それほどのとてつもない美少女なのだ。国だって軽率に傾かせてしまうレベルの美少女なのだ。そうに違いない。
そんな美少女とお近づきになれた暁には、それはもう理想的な家庭を築くことができることだろう。彼女の赤髪を色濃く受け継いだ、とてつもなく愛らしい子供たちと共に穏やかな生活を送る姿が、既に頭の中にはっきりと浮かんでいる。
彼女が近づいてくるたび、眩暈のような感覚に襲われる。美貌だけで人を酔わせるとは、とんでもない女性だ。
周りはまだ誰も気付いていない。こっそり連れ出すなら今しかない。
「そこの嬢ちゃん、一緒に来いよ!」
ハヤトは少女の手を掴むなり、人通りの少ない路地裏を目指して走り出した。




