兌を抜けて 《Ⅲ》
学校の授業中もずっと、無造作にノートが広げられた机を見つめたままうわの空だった。
朝から胸がどきどきして苦しい。妙な圧迫感が体を締め付けているような感じだ。
黒板に書かれている文字も目でなぞって眺めているだけで、認識なんてとてもじゃないができる状態ではなかった。ひどく精神が重たい。陽光差し込む教室では中年の古典の先生が、教卓の前でポケットに片手を突っ込み漢文の書き下し文を少し眠たそうに読み上げていた。しかし、先生の太い声も千里の耳に入ってはすうっと通り抜けていって、ほとんど聞こえてはいない状態だった。
「……どうして……」
俯きながら隣の人に聞こえないよう声を籠らせ、吐くように呟く。
父は、一体何を考えているのだろうか。彼にとって母は代りがきくような存在だったのだろうか。あんな優しかった母に代りなんてきくものか。しかも、その女との間で子供まで作っているとなると、母や妹だけでなく今いる自分まで裏切ったということだ。自分勝手に、欲望のままに、家族のことなんて何も考えずに。大人のくせに、いつも我慢しろと叱るくせに。子供なんて生まれたら自分は必ず蚊帳の外になるだろう。家に居ながら、一人だけ居候のようになる。そのうちまるで自分が家族とは他人のようになるのだ。そんなこと、絶対に嫌だ。母さん達と過ごした家を他の奴にとられるわけにはいかない。どうしよう、どうしてやろう。行き過ぎた使命感のような感情が跳躍力となり、まだそうとは決まっていない未来に対して憶測で怒っている自分にはその時気がついてはいなかった。
机に広げられた真っ白なノートに、口からでた鬱憤がもくもくと降り積もる。ふと、凝視していた白いノートにあの夢の風景がぼんやりと浮かんだ。肩で驚き、顔をごしごし擦って強く瞼を閉じ再び眺める。今度は湖に浮かぶ園亭がうっすらと浮かび上がり湖面に蝶が舞う様子が見える。どうやら、今朝からの激情で精神的に疲れてしまったようだと頭を抱え、まだ新しい紙の香りがするノートの上に腕を枕にして突っ伏す。だが少し期待していた花の甘い香りはどこにもしなかった。首を横に動かし、腕の隙間から窓の外を覗いた。三階までその枝をぐんと伸ばす樫の木が陽の光を浴び濃い緑を呈して風に揺らめいている。あの園池の周りの樹の葉も光に当たって濃い緑だった。
――そういえば、あの女の子……。
今朝の夢に出てきた女の子。顔こそはちゃんと見えなかったが、一体彼女はあそこで何をしていたのだろう。自分の夢の中なのだからそんなことを問うてもおかしなことだが、今の千里にはとても不思議で、興味があった。だがその好奇心の源泉は現実から目を背けたい衝動からなのかもしれない。
とかく、あの女の子はあの美しい世界の住人なのである。あの世界の住人でいられる彼女に憧憬を抱いた。
天女だろうか、はたまた天使か女神か。まてよ、ふつうの女の子だってこともある。だとしたらなんであんなところにいるのだろう。どこを見つめているのか、そして何故自分の名を呼んだのだろう。あの花園は彼女の庭園か。空想は空想を構築し、妄想が頭の中で次々と夢の世界を築き上げていった。空想は段々と理想となり都合のよい美しいものへとその実体を鮮明にしてゆく。想像している間は心が自然と落ち付いていた。
「瀧本君」
名前を呼ばれてびくっと首を戻した。
「は、はい」
驚いて声が少し裏返り、静かな教室の小さな笑いを招く。
「気分でも悪いのか。保健室いくか」
先生はうつ伏せになってる自分を寝ていると勘違いし半ば冗談のつもりで言ったのだろうが、事実、気分は最低であることは間違いではなかった。妙な恥ずかしさと今朝からの怒りも相まってきっぱりと即答する。
「はい、いきます」
先生は少し驚いた様子だった。反抗しているととられても、もうどうでもよかった。鞄をもってすっくと立ち上がり、とことこと教室から出てゆく。ざわめく教室の中で、静かにしなさいという先生の声が静かな廊下に響いた。
クラスでは目立たないほう、というのが自己の見解だ。母さんが死ぬまではクラスでもだいたい三番目に明るく活発であったことを覚えている。運動もできたし、毎日外に遊びに出て日が沈むまでみんなとわいわいやって、母さんに叱られていた。しかし、突然の母親の死は、自分を深く黒い殻の中へと追い落とすものであった。しばらくは気丈に振舞ってはいたが、段々と母親がいないことの弊害や他への妬みが自らも気づかぬうちに降り積もっていったのだろう、他人と関わることがとても億劫になりはじめていた。そして、妹の事故死。かつての活発な少年は、どこかへと消えてしまった。目立たない方とは言ったが、友達もそれなりにいるし、付き合いもある。しかし、自分の中で何か薄っぺらいもののように感じていたのだった。
保健室へは行かず、そのまま靴を履き替え学校を出た。とてもじゃないが、学校にあのまま居たい気分ではなかったし、この怒りと悲しみで歪んでいる顔を他人に見せるのにも抵抗があった。といっても、女が来るという家に帰るわけにもいかず、初夏に入ろうかという青天の下に広がる広大な街をただ宛てもなく歩き始めるしかなかった。だがこの行動が、後の自分の運命を大きく変えることなど今は知る由もない。
日光がじんわりと肌に照りつくのとは対照に街を流れる風は爽やかな涼しさを街路に供給し、割と過ごしやすい気候であったので街をふらふらと歩きまわるのはさほど苦ではなかった。戦火を逃れたこの街はまだ古い街並みを所々残しており、少し歩くだけでも迷ってしまいそうな小路が幾つもあった。古民家のある街路とは別に、近くの山の中腹ほどには数年前から開発が行われている新興住宅地が立ち並び、いわば新旧交わる独特の雰囲気を作り上げていた。それはかつての市長が新故融合の街ということで計画していたらしい。その住宅地の一角に千里は住んでいる。街には高い建物はほとんどないし、交通の便もよく住宅地からは街が一望できるのですぐに土地は完売したと聞いた。学校はその新興住宅地の中に建てられており、築三年ほどしか経っていないまだ新築の臭いのする新校舎である。
千里はその住宅地を抜け、古い街路のほうへと歩いていった。目的地などない。強いて言えば、落ちつけるような場所に行きたかった。青い空に白い雲、木々の新緑に溝を流れる小川、まだ正午に至ってはおらず街を歩くのは年配の人か宅配便のおじさんだけ。その中を制服を着て歩くのは普通なら人目をはばかりたいのだが、なぜかその時は開放的で気分がよかった。
街の奥に入ってゆくにつれて次第に昔忘れて錆ついた冒険心が研磨されてゆく。好奇心の命じるままにわざと迷路のような小路に入っていこうとした。時間はある、この先に何があるか確かめてやろう、という気持ちでわざと複雑そうな路へと意気高く進んでゆく。確か幼い頃は、この辺りの路地で鬼ごっこをしていたのを覚えている。あまりに路が複雑なため、何人かは途中ではぐれていまい結局鬼ごっこを中断してみんなで迷った子の捜索隊を結成して遊んでいた。だが、そのうち鬼ごっこにも飽きてこの辺りには滅多に来なくなってしまった。
歩きながら過去の自分を路になぞってしみじみと思い出した。あの頃は無邪気だった。母がいたから無邪気でいられた。温かく守ってくれるものがいなければ子供は無邪気でいられないのかもしれない。と、一人で深い感慨に耽っていると、楽しかった思い出の端にある事件があったのをふと思い出した。瑣末なことではないはずだが、何故か今まですっかり忘れていた。小学生のとき、親友がここで行方不明になった。行方不明とは言っても不思議なことだらけで、小学校では彼は神隠しにあったのではと実しやかに囁かれていた。その理由の一つに、彼の履いていた靴が行方不明になった二日後に彼の家の玄関に綺麗に揃えて置いてあったということが挙げられる。それだけではないのだが、それを聞いて当時は背中がぞくっとした。それから鬼ごっこはあまりしなくなったのかもしれない。
そうこう思い出していると、彼と最期にあった場所に行きついた。標識も何もない民家の塀が囲むT字路、ここで彼を見失った。この先には行ったことがない、でも今は時間もあるし、仮に行方不明になっても心配する者なんてほとんどいないだろうと自嘲気味に思う。小さく頷き覚悟を決めてT字路を彼が進んでいった右に曲がった。ここから先は完全な未知なる路。
少し行った狭い通路の脇には猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをし、放置されている物干しざおには雀が羽を休めていて、かつて誰かが神隠しにあったような暗い感じは全くしない。左右は民家なのだから人がいるのは当たり前だ、怖いはずはない。しかし、歩き回った所為なのか背筋に汗が一筋流れる。
一方通行の路地を右に曲がり、左に曲がりしたところで、少し開けた道に出た。そこは住宅地のある山を古民家群を挟んで反対側の山のふもとを横切る道であった。こちらは全く開発が及んでおらず、古い民家が街で最も多く残る場所である。かつては街道であったらしく、その面影がどこかしこに見受けられたが人影はほとんどなかった。山の裾であるため街道の脇には田園風景が広がり、道には木々の枝葉が屋根のように覆ってまばらな影を落としている。
こんな場所があったなんて。と、冒険の結果が得られたことに一応の満足をした。中心街の喧騒からは離れ、とても穏やかな雰囲気であるからか、千里の荒れた心に深く感銘を与えた。
そして、冒険に浸り意気揚々と進んでゆく。すると、街道に沿う小川を隔てた山の中に朽ちて苔むした鳥居が見えた。神社だろうかと、中が見える位置までゆくと鳥居の奥には十段ほどのでこぼこした石段があり、その先には、錆びたジャングルジムとブランコが遊びにくる子供を待っているかのように静かに佇んでいる。無意識に、小川に渡された小さな石橋を渡り鳥居をくぐった。まるで何かに曳かれるかのようだった。




