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戴邦物語  作者: 龍本 明
夐遠の友
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兌を抜けて  《Ⅱ》

 落ちてゆく感覚がなくなり、温もりの感触が身体を包みこんだ。

重たくべた付いた瞼を静かにあけると、ぼやけた視界に広がるのは見慣れた場所、自分の部屋だ。温もりの正体は自分の布団。気付くまでもなくここは現実だと悟り、同時にあの情景は夢幻(ゆめまぼろし)だったと思い知らされ、深い喪失感に心をぎゅっと締めつけられた。まだ花の残り香があるような気がして布団にもぐりこむ。しかし、何の甘い香りもしない。

紺色のカーテンからは朝の陽が差し込んで、まだ新しい小さな壁掛け時計を照らしている。針は光に浮かび、ちょうど七時を指していた。しばらくじっとしていたが、やがて小さな溜息をつき目をこすりながらカーテンを開けた。瞼に焼きついたあの情景が窓の向こうにも広がっているのではないかという期待を抱いていたが、外にあるのは隣の家の薄汚れた壁と室外機だけだった。ここでまたわざとらしい溜息をつきながら、窓を開ける。新鮮な空気が部屋に入ってくる。しかし、夢のものとは全く非なるものだった。

階下からの朝食の匂いが部屋に入ってきて空腹感を呼び起こした、そして今日が登校日であることを千里に思い出させる。

 制服に着替えて、学校へいく支度をいそいそと始めた。制服のネクタイを締め、鞄に教科書を詰めると、半開きの引き出しに服が無造作にかけられたタンスに飾ってある日に焼けた写真を見た。昔に遊園地で撮った家族の写真、笑顔で映るこの四人のうち、もう二人はこの世にいない。

「母さん……いってくるよ」


 いるはずの人がいないガランとしたリビングには、年の割に少し老けてしまった父がテーブルに座って静かに朝食を食べていた。三つ空いた椅子のうち家族で決めた自分の席に座る。

ご飯と、味噌汁と、ありあわせのおかず。父の料理は以前よりうまくなったが、まだ母の腕には及ばない。しかし、毎日休むことなく朝食もさらには学校への弁当も作ってくれる父には感謝していた。

その父が今日は無言で朝食をとっている。新聞を読みながらいつもは食べているのに、それを脇に置いて黙々と箸を動かしている。何か嫌なことでもあったのかと、少し変に思いながら箸をとり、まずご飯に手をつけようと茶碗を手にしたとき、父がぱしゃりと箸を置いた。しんとした空気が食卓に流れる。

「……どうしたの?父さん」

父は渋るような面持ちのまま俯き、やがて小さな決意をしたかのように切り出した。

「千里……、もう母さんが亡くなって五年だ。そろそろ、新しい家族をもってもいいと思うんだ」

何事かと、目を見開いて父を見つめる。眼鏡を軽く押し上げ呟くように言う父は、どこかいつもと違う雰囲気を纏っていた。

「なんなの?藪から棒に」

「お前ももう十六だ、母親の助けもいるようになるだろう」

「……父さん、それってどういうこと?」

突然の話に、千里は持ちかけた碗を手から落としそうになった。母は五年前、癌で家族を残しこの世を去った。そのあとしばらく父と妹と三人だったが、その妹も二年前に交通事故で死んでしまった。それから今まで、父と二人だけでこの広くなった家に住んできたのだ。それから今日まで、そんな話は一回も出たことはなかった。できるだけ、その部分には触れないように生活してきたのだ。父は深い溜息をつく。

千里(せんり)……父さんもな、ずっと一人身でいるわけにもいかないんだ。今、会社で籍を入れようかと思っている女性がいる。父さんより八つ年下で、子供がいてもいいそうだ」

父は今三八だったはずだ。それより八つ年下ということは相手は三十歳、母さんは三十歳で死んだ。何か体中に不自然な違和感が走る。持った箸は無意識な手からこぼれ落ち、食卓に転がった。

「そんなの……聞いてないよ!」

バンと立ち上がって父をにらみつける。父は目をわずかに逸らした。

「千里……!座りなさい!」

「母さんがいるのに……、なんでそんなの勝手に決めるんだよ!」

「母さんはもういない!」

「……っ!」

父はまた溜息をついた。

「……いいか、千里。お前に話さなかったのはすまないと思っている。お前が怒るのも無理はない。……でもな、父さんはその女性(ひと)を愛しているんだ。その女性(ひと)と新しい家庭を築いていきたいと切実に思っている」

 今更新しい継母なんて思ってもみなかった。いや、自分を産んだ母に取って代わる母なんていない、例え手の届かないところへ行ってしまったとしても、他の人間にその場所に居座られるのに強い拒絶感があった。母さんは母さんだ、絶対無二の存在。なのに、父は他人をこの家族の中に勝手に組み込むのか。急に父が遠い存在になったような気がした。

それで、言いにくいんだが――と、父は目を落とした。

「実はな、その女性(ひと)との間で……子供ができたんだ」

耳を疑った。全身から血の気がひき、背筋の温度が一気に下がったかと思うと、すぐに熱い血が蘇って全身を巡る。死んだ母さんと妹にこのことをなんと釈明すればいいのだろうかと、動揺して真っ白になった頭で必死に考え始める。時が止まったのではないかというような沈黙をリビングの時計は無常に針音とともに押し進ませる。そして、父は手を組んで、再び眼鏡を押しあげた。

「……妊娠四ヶ月だそうだ」

この目の前にいる人間を侮蔑の目で見始めた自分がいた。父は家族を裏切った。そして怒りで脚ががくがくと揺れだす。それと同時にある不安が憤怒の心を覆った。自分の居場所がなくなるのではないか――。

「……どうなるの?僕はどうなるの?」

裏切りへの怒りから声が震えた。本当に人は怒りに満ちると身体が震えるのだ。食卓に並べられた食事が急に不味いものに思えた。こんな自分勝手な人間の作った飯なんて、食べられるわけがない。

「もちろん、一緒にこの家に住めばいい。お前はこの家の住人だ、なんの遠慮をすることはないさ。新しい継母(かあさん)を本当の母さんだと思えばいい。大丈夫、あの女性(ひと)は優しい人だ。お前を本当の子供として接してくれるよ」

そうじゃない――と言いたかった。母を奪われ、妹を奪われ、父まで奪われるのか。と深い失望感が怒りの坩堝(るつぼ)に注がれる。できるならこのままでよかったのに。これ以上奪われるのなら、父と二人だけでよかった。

「今日、その女性ひとが家にくるんだ。会ってくれないか?たぶんお前もわかってくれるはずだ」

何を――と叫ぼうとしたが、急に体中の力が抜けていった。大きく息を吐き、頭を垂れる。味噌汁の湯気が悲痛で歪む顔に当たった。鼻の頭が激情でつんとしてきた。その湯気のなかであの夢での情景がふっと思い出された。

あまりに違いすぎる、現実と夢幻との格差(ギャップ)。あのままあの夢の中にいられればよかったのに。醒めなければよかったのに。なんなのだろうここは――。

途端、机を握り拳で叩くと、そのまま半開きの鞄をもって駆け出した。呼び止める父の声も聞かず、玄関の戸を強引にあけて、走り出す。涙で、青天の下に広がる視界は曇り空のごとく淀んでいた。最悪な朝だった。

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