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戴邦物語  作者: 龍本 明
夐遠の友
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兌を抜けて  《Ⅰ》

綺麗な場所だ。

体中がぽかぽかと温かい。

ふと、どうして自分がこんな所にいるのかと疑問に思おうとする。しかし、すぐにそれは頭からふわりと融解し消えていった。

夢であれ現実であれ、ここはきっと知っている場所だ。そう、なぜならとても懐かしい気持ちがするから。

しかし、不鮮明な記憶を巡らしてもこんな風景見たことがあるとは思えない。少なくとも、この風景が現実に存在するとは到底思えなかった。それほど浮世離れした風景だったのである。

――ここはどこだろう。

辺りに意識を集中してみると、(おぼろ)な風景の枠線が鮮明になってきた。地平線まで続く地面にはパレットをそのまま置いたかのような色とりどりの花が隙間などないようにその花弁を見せびらかし、高山にありそうな白い雲霧(うんむ)の塊りが、風に乗って地上を揺らいでいる。そして発色が鮮やかな青の(はね)をもつ手のひらほどの大きさをした蝶が、何匹もゆらゆらと花園の上を思うがままにはためき、ときに花弁に止まっては花の内側に溜まる甘蜜を吸っていた。

そして、視界に入ったあるものを見て少し違和感を覚える。花の中に点々と間隔をあけて根を張る、大樹。それらは太い根が大蛇のように地面でうねり、どれも濃い緑をした葉を存分に繁らせている。だが、不思議なことにその大樹の(うろ)から水が滾々(こんこん)と湧き出て、根の下の空間に小さな池を作っていた。

池から溢れ出た水は小さな川となり、やがて他の大樹からの水とも合わさり川となって花の間をさらさらとどこかへ流れてゆく。それを見て、いよいよここが現実ではないなと思った。しかし、それもすぐに溶け出してゆく。なぜかすんなり受け入れてしまうのだった。

 ふと、蝶の中に一匹、紫色の翅をもつ蝶がいるのに気付く。そのまるで誘うように優雅に羽ばたく蝶をぼんやりと目で追ってゆくと、何もない平坦な花畑の間に隠れた石畳の小道が、向こうでこんもりと盛り上がっている丘までうねうねと敷かれているのを見つけた。丘の上には小さな森ができており、梢の間から尖った建物らしき屋根の先端がとび出ている。

蝶は、そのまま高度をあげてゆく。天には地平線に沿って茜色の夕空がじんわりと真っ青な空に染み出し、その淡い色をした紫の境界を見たこともないような青い鳥が編隊を組んで遠くの空へ飛んでいった。

さらにまばらに散らばる綿雲が陽の光を取り込み、淡い明暗を浮かび上がらせ神々しい荘厳さを醸し出している。

蝶は、自分の気に入った花でも見つけたのだろうか、ゆっくりと下降し雄しべの垂れさがる黄色の花にとりついた。穏やかな風が吹いて、蝶と一緒に花の(こうべ)が大きく揺れる。

風は、吹く度に風向きを変え、様々な花の香りを運ぶ。今の風は、甘いミントのような香りだ。

 とりあえず、あの丘の建物のほうへ行こうと思い、花を掻き分け石の小道に乗った。そして、乗ったところで自分が純白の(ころも)を纏い裸足であることに気付く。が、これもまたなぜかすんなり受け入れた。

小学校の廊下のような幅の小道を歩き始め、少し経たところでいつの間にか歩幅は広がり、歩みも早くなる。身体があそこに行きたがっている。無論、心もだ。そうやって自分の行動を客観的に見てしまっている自分が少し可笑しかった。

近づくにつれて懐かしさで胸が詰まりそうになる。見たこともない景色なのに、何故なのだろう。それを知りたいという好奇心も歩みの速さに拍車をかけた。

そして、いつしか丘の下に辿り着く。白石の階段がなだらかな傾斜で坂に敷かれ、階段の脇の溝には上から水が流れており、水の弾ける音がとても心地よい。

一つ呼吸を整え、丘の上目指し一歩一歩、段を登ってゆく。その一段の度に心が昂っているようだった。丘の上に着くと小さな門があった。中国にありそうな装飾の門には扁額(へんがく)がかけられ、「華池」とある。気にせず頭を少し下げて門をくぐると中には庭園が広がり、その中央に花畑に生える樹とは少し違った大樹が大きめの園池(えんち)の周りを取り囲んで、これまた(うろ)から水を流し池に注いでいた。池の真上には天を覆い隠さんばかりにその手を伸ばす枝に若葉が茂り、その葉の隙間から空の光がやわらかく差し込んで、水底に乱反射して仄かに明るくし幻想的な雰囲気をより一層引き立てている。

その池の真ん中には、美しい朱の塗装が施された東屋(あずまや)が孤島を土台に建っており、門から向かって右の岸から石の橋が渡されこの孤島へと繋がっていた。池の水は驚くほど澄み、水底にはみ出す大樹の根が複雑に絡み合っているのがはっきりと見てとれる。

その根の間を紅色(べにいろ)をした鯉のような池魚(ちぎょ)が住処にし、紫の甲羅をもつ亀が手足を器用に動かし水底を這う。池の側まで近寄り、この愛嬌のある生き物達の動きをぼんやりと眺めていた。

大樹から湧く清水の流れる音と、枝にとまり(さえず)る鳥の美しい鳴き声は昂った心を平穏にし、現実のことを忘却させ、もはやここの住人であるような錯覚と帰りたくないという願望を心にわき起こす。

 永遠にここにいられればいいのに、と時間も忘れこの素晴らしい環境にゆったり浸っていると、ふと耳に自然音とは違うものが入った。最初は気にせずにいたが、だんだんとはっきりと聞こえてくる。その音がなんなのか、(とろ)けそうな頭は少し間を置いて理解する。

――人の声。わかった瞬間垂れていた頭をあげ、辺りを見回した。すると、さっきまで誰もいなかったはずの東屋に人影があるのに気付く。人がいるということの驚きと、ここがどこなのか教えてほしいという欲求が混じり合った気持ちで、その人影を注視した。

人影は女の子だった。線が細くほっそりとし、自分と同じような衣を纏って肩まで伸びた黒髪が風にふわりと靡いている。横を向いているので顔はよくわからないが、静かに佇む姿はとても佳麗で、心惹かれるものだった。

――千里(せんり)……。

自分の名を呼んでいる。この声色は女性だ、あの女の子だろうか。しかし彼女はこちらを向いていない。空を見つめるようにただ一点だけを静かに、寂しそうに見ている。

 ――千里……こ。

何かを自分に言っているようだがうまく聞き取れない。とにかくこちらの方を向いてもらおうと手を振った。しかし一向に気付く気配がない。仕方なく声を出そうとした時、突然辺りが急激に暗くなった。空は照明を落としたかのように暗くなり、星すらない全くの闇になってしまった。女の子の気配も消えた。流水の音も、鳥の声も消えた。

途端、地面の感覚がなくなった。一瞬にしてさっきまで足元に茂っていた草木と土が消えたのだ。そのままどうすることもできず闇へと転落してゆく。闇の中へ……闇の底へ……。落ちてゆく刹那、この濃厚な闇の中に、さきほどの紫の蝶が小さな光を発しながらひらひらと舞っているのが見えた。

――でももう手の届かないところにいる。手を伸ばしても、光に触れることすらできない。

意識は遠くなってゆく。だんだんと、闇に溶けてゆく――。

お疲れ様でした。

もしかしたらわからない言葉があったかもしれないので、簡単に解説します。


扁額

門の上に飾る看板のようなもの。建物の名前や、地名をこれに記す。


(うろ)

木の幹に空いた窪み。鳥などがこの穴に入って巣を作ったりする。


東屋

庭園などに設けられた、休憩用の建物。写真を見るとわかりやすい


題の兌は、あなと読みます。

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